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この所、府外の記事ばかり書いています・・・
季節が良いので遠出する事が多かった故なのですが、また府内中心に記事を書いていきたいなと思いつつ。

古来、日本人の思想の中で境界というのは常に大きな意味を持っていました。
此方と彼方の境目には、彼方の住人であるモノノケや霊達がやってきていると信じられていました。
ムラと山の境界、ムラとムラの境界、地と川の境界である川原、地と海の境界である海岸。
時間帯についても同じです。
此方の住人の時間帯である昼と、彼方の時間の住人の時間である夜との移り変わりの時間は、常に妖のモノと遭遇しやすい時間帯であるとされています。

ゆえに、それらの境界における怪談には事欠きません。
その中でも京都における最も有名な、「一条戻橋」を紹介させていただきます。

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場所は晴明神社のすぐ近く、徒歩でも5分もかからないような距離にあります。

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一条戻橋の架かっている堀川は、このように遊歩道として整備されています。写真は橋の北側。

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こちらが現在の「一条戻橋」の姿。
橋の南側は水遊びもできるようになっており、訪ねて行ったときには子供達であふれていました。

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橋の下にあった現地案内板。

伝説の橋「一条戻橋」

 延喜18年(918)、文章博士・三善清行が亡くなった時、父の死を聞いた熊野の僧「浄蔵」が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、その葬列は丁度この橋の上を通っていました。浄蔵は棺にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠を込めて祈願したところ、不思議にも父 清行は一時蘇生して父子物語を交わしたという伝説から戻橋と名付けられたと言われています。
 太平記、剣の巻によれば、その頃、源頼光の四天王の一人であった渡辺綱が深夜この橋の東詰で容貌美しい女子に「夜更けが怖いから送って欲しい」と頼まれたので、馬に乗せたら女はたちまち鬼と化し、渡辺綱が腕を切り落とした、と記されています。
 また、一条戻橋は「あの世」と「この世」をつなぐ橋とも言われていました。伝説では、平安時代の天才陰陽師として名高い安倍晴明の父である保名が殺害された場所であり、晴明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所とも言われています。
 以上のような歴史を持つ一条戻橋ですが、現在の橋は平成7年に新築されたものです。
京都市
 
と、書かれてあるのですが・・・以前読んだものは「平家物語 剣巻」とされていたように思いますので、記憶違いか、はたまた現地案内板の記述間違いか、と調べてみた所、「剣巻」というのは位置付けが非常に判断が難しい書物のようです。
「平家物語」や「太平記」の一部とすべきものなのか、付冊とすべきなのか、或いは独立して存在していたのか結論は出ていないようです。
また、付冊にしても、「平家物語」に属するものか「太平記」に属するものか、はたまた独立して存在するものとするのであれば、「平家物語」や「太平記」の後に独立したものなのか、逆にもともと独立していたものが「平家物語」や「太平記」に取り込まれたのか、結論が出ていないようです。
よって、現地案内板には「太平記、剣の巻によれば」と一つの記述に拘らない方が良いのかも、と思ったりしてしまいました。

実は土手の上にももう一つ案内板が有ります。
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戻橋
 延喜一八年(九一八)文章博士・三善清行が亡くなった時、父の死を聞いた子の浄蔵が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、その葬列は丁度この橋の上を通っていた。
 浄蔵は柩にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠をこめて祈願したところ、不思議にも父 清行は一時蘇生して父子物語を交したという伝説から戻橋と名付けられたという。
 太平記、剣の巻によれば、その頃、源頼光の四天王の一人であった渡辺綱が深夜この橋の東詰で容貌美しい女子にやつした鬼女に出逢ったという伝説もあるところである。
京都市
 
また、現地案内板で語られる伝承の他、安倍晴明が彼の式神である十二神将を橋の下に隠していたことでも知られます。
「源平盛衰記」巻十に見られる記述ですが、当初晴明は家の中で十二神将を家の中に置いていましたが、妻がその顔を怖がったので、普段は十二神将を橋の下に置き、必要時に呼び出して使役したとされています。
晴明の物語の中でも、ちょっと微笑ましいエピソードですね。
そして、高倉天皇の中宮 建礼門院の出産に際して、その母の二位殿がこの橋で橋占をされた時に、十二人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、皇子の将来を予言する歌を詠ったと言われています。
この十二人の童子は晴明の十二神将の化身であったのだろうとされています。

以降、「一条戻橋」の橋占は有名になっていったようであり、また晴明自身への信仰を高めていく要因になったようです。それゆえ大阪市阿倍野区の晴明が生まれた地にある「安倍晴明神社」の境内には占い師がいらっしゃるようです。

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そして現在の橋の上。
現在では、「戻橋」という呼び名から、嫁入り前の女性や縁談に関わる人々はこの橋を通らない、という風習が出来ているようです。
また逆に、戦時中には出征された方々が無事に戻るように、との思いからこの橋に願掛けをされる人々が多かったのだとか。
日本には、いまだに言霊が息づいているのですね。


<<関連エントリー>>
安倍晴明-京都府京都市・晴明神社-
安倍晴明-安倍晴明神社-
渡辺綱-坐摩神社行宮-
葛乃葉姫-信太森神社-
茨木童子-茨木童子貌見橋-

一条戻橋
場所:京都府京都市上京区 堀川


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昨今、文献漁りも行っているが、昔の人の書が達筆すぎて苦心中

 

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