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平成23年9月には、土曜日を含めると17日~19日と23日~25日の二つの連休があり、黒猫一家は前の連休には台風15号が近づいてきていたこともあり、家でたらたらしながら気分転換に京都へ赴き、後の連休にはそれに先立つ大雨や台風の被害も気にはしつつも和歌山県白浜へ旅行へ行っていました。

そしてその際、いつものように伝承地もまわって来ているのが一般家庭と異なるところで^^

今回は、その中でまわってきた京都市の二条公園内にある鵺大明神と鵺池のご紹介です。

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鵺についてはおそらくご存知だとは思いますが、近衛天皇の仁平3年(1153)京の御所・紫辰殿に、夜ごと帝を悩ませていたという妖怪或いは怪鳥で、侍臣の源三位頼政が矢で射落としたところ、頭が猿、胴が狸、尾が蛇、四肢が虎の姿をしていたと伝えられています。
そして鵺の死骸から抜き取った矢を洗ったのが、この二条公園内にある「鵺池」であり、鵺を祀るのがやはり公園内にある「鵺大明神」であるとされています。

場所は二条城の道を挟んで直ぐ北側にあります。
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公園から南側を見たところ。道の向こう側が二条城になります。

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南側はご覧の通り、ごく普通の公園です。
遊具もそれなりにあるので、そこで子供達を遊ばせつつ、黒猫は目的地へ。とは言っても、上の子は黒猫の目的を察してついて来ては妖怪のお話をせがむのですが^^

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こちらが「鵺大明神」と「復元碑」。

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そしてこちらが「鵺池」とそこから公園内に流れる水路です。

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「鵺池」にはこのような「鵺池碑」と現地案内板もありました。


鵺(ぬえ)池伝説(説明)
 二条公園の北側には鵺池という小さな池がありました。傍らには不鮮明ですが鵺池碑と書かれた石碑があり、さらにその北側には鵺大明神の祠があり、そこには新しく復元された碑が建っています。
 平安時代、二条公園を含む一帯は、天皇の住まいである内裏や、現在の国会議事堂に当たる大極殿を正殿とする朝堂院、そして今の内閣に相当する太政官など、国家政治の中心となる官庁街でした。
 「平家物語」巻4によると、院政期とも呼ばれる平安時代後期、深夜、天皇の住まいである内裏に怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が非常に怯えられた。そこで弓の名手である源頼政が射落とした怪鳥は、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という姿の鵺(鵼とも書く)であったといい、そのときに血の着いた鏃を洗ったのが、この二条公園の池だと伝えられています。
 この度の再整備において池・流れ施設を整備し、鵺池碑を移設しました。
平成17年3月 京都市緑政課

ちなみに復元碑に書かれているのは以下の通り。

(表)
我源朝臣松平紀伊君在京之日家臣太田毎資亦来居焉其宅後有
一池日鵺池俗伝以為頼政卿嘗滌射鵺鏃之地矣今毎資者道潅七
世之孫而頼政卿遠裔也故聞斯事喜適居其地且懼其就泯減因使
予録其事上石鳴呼追遠之心不亦美乎遂書銘曰
怪鳥当射 志不可敵 休矣邦彦 其声大逖
 元禄庚辰三月望日 松崎正祐記

(裏)
此地古来称鵺池池辺有碑詳誌其伝説而及徳川氏執政柄地属所
司代之邸内以故当時所刊行名所誌之類或憚而不記焉維新之初
就邸址而置監獄猶用意於保存但碑石則風餐雨虐文字漸磨滅後
撤獄舎昭和九年新設二条公園之此至不可復読有志以為恨也偶
有元看守長青山咸懐氏在職之間手記原文両者相対照而主文始
歴如恨事乃除矣於是有志相謀更選碑石刻之以伝後世云爾
 昭和十一年三月望日 出水学区建碑有志



ここから先は、鵺に関する事ではなく個人的な興味のある事柄。

さて、目的を果たしたところで公園内を子供と遊んでいると、面白いものが。
それがこの公園の入口脇にあった、二条公園自体に関する案内板です。
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二条公園と平安宮の遺跡

 この二条公園は、昭和9年に開催された「大礼記念京都大博覧会」会場内の児童遊園地を利用し、整備して開園しましたが、近年、施設の老朽化が進んだことから、ワークショップ並びにアンケート調査を基に検討し、街中にある自然を取り込んだ多世代がふれあえる空間のある公園として生まれ変わりました。
 またこの二条公園は、平安時代には右の平安宮復元イラストの赤く塗りつぶした宮内大路(大炊御門大路と壬生大路の交差点北域)にあたり、壬生大路を挟んで平安宮の重要な役所である太政官と宮内省及び園韓神社(園神と韓神を祭る)がありました。
 公園整備前の平成15年2月に遺跡再確認調査を行った結果、宮内省西面の南北築地基底部(地業跡)や溝とみられる遺構のほか、平安時代前期の遺物包含層が見つかり、その中から当時使用されていた瓦や土器が出土しました。

二条公園内遺跡確認調査の成果

1区では、江戸時代に整地された土層が確認されました。(写真1)
2区では、天皇や皇族の衣食住を担当する役所「宮内省」の西面築地塀の基礎工事跡と宮内省の内溝と見られる遺構(写真3)が既存の調査結果から推定ラインに一致して見つかり、合わせて平安時代の瓦や土器などの遺物が出土しました。(写真2)
平成17年3月 京都市緑政課
 

どうやらかつてはこの近辺に園韓神社があったようです。
園韓神社は、桓武天皇による延暦十三年(794年)の平安遷都の折、それ以前からその地にあったとされる神社で、「古事談」「江家次第」などによれば、平安遷都の際に他所へ遷座しようとしたところ、「猶此の地に坐して、帝王を護り奉らむ」と託宣があったため遷座せず、皇室の守護神として宮内省に鎮座することになったとつたえられる神社です。
黒猫は、このブログにて過去何度か書いてあるとおり殺牛祭祀について興味をもって色々調べているところですが、その際に避けて通れない物に桓武天皇による漢神を祀るための殺牛祭祀の禁止令をだした、という史料があります。
そこに登場する漢神と韓神とを同一視する論(奈良県の漢國神社の祭神も現在は韓神とされていますね)も見られるのですが、この平安遷都の折、皇室守護の為に鎮座する韓神に対する祭祀を制限するとは考えにくいため、やはり当時は、漢神と韓神は別の神として認識されていたのかなと考えるところです。

次の連休に、和歌山の牛鬼の伝承と同時に殺牛祭祀があったと伝えられる場所(牛屋谷)へ行こうと思っていた矢先なので、何かしらの縁を感じずにはいられない案内板でした^^


<<関連エントリー>>
鵺-鵺塚-
鵺-兵庫県芦屋市・鵺塚-

二条公園
場所:京都府京都市上京区主税町910-40


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プロフィール

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黒猫
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自己紹介:
妖怪と酒を愛する一男一女の父。
昨今、文献漁りも行っているが、昔の人の書が達筆すぎて苦心中

 

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