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妻に1日子守りを頼まれたので、奈良1300年祭を覗きがてら、元興寺まで脚を運んできました。
元興寺といえば、日本霊異記に記された鬼の伝説が有名です。
加えて、大阪城にあった「かえる石」が現在は祀られているとの事です。

gankouji00.jpg


元興寺の鬼が記されているのは、日本霊異記の「雷の熹を得て生ましめし子の強き力ある縁」という一文の中です。
抜粋すると、

(前略)
しかして後に、少子、元興寺の童子となりき。
時に、その寺の鐘堂にして、撞く子、夜別に死ぬ。その童子を見て、衆の僧にまうしていはく、「われ、この死ぬる災ひを止めむ」といふ。衆の僧聴許しつ。童子、鐘堂の四の角に四つの燈を置き、儲けたる四人にいひ教ふらく、「われ鬼を捉へむ時には、ともに燈の覆へる蓋を開け」といふ。しかして鐘堂の戸の本に居り。
鬼、半夜ばかりに来たれり。童子を佇きて視て退く。鬼また後夜の時に来り入る。すなはち鬼の頭髪を捉へて別に引く。鬼は外より引き、童子は内より引く。かの儲けし四人は、慌て迷ひて蓋を開くこと得ず。童子、四角に鬼を引きて依り、燈の蓋を開く。晨朝の時に至りて、鬼、おのが頭髪を引き剝たれて逃げたり。
明くる日に、その鬼の血を尋ねて求め往けば、その寺の悪しき奴を埋み立てし衢に至りぬ。すなはち知りぬ。その悪しき奴の悪鬼なりといふことを。頭髪は、今に元興寺にありて財とす。
(後略)

奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていたそうです。
寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であったとか。
平安時代以降は徐々に衰退し、極楽坊も1950年ころには床は落ち、屋根は破れて「化け物が出る」と言われたほどの荒れ方だったそうです。

現在はその内の一部が奈良市内に3箇所残されているのみです。
今回は奈良市中院町の「元興寺極楽坊」へ行ってきました。

gankouji01.jpg gankouji03.jpg
元興寺極楽坊
もともと僧房だったものを改装したものだとか

gankouji07.jpgこれは目的ではありませんが、日本最古、飛鳥時代の瓦だそうです。

gankouji05.jpg小子房

gankouji02.jpg浮図田(ふとでん)
浮図田とは、石塔・石仏(浮図)類を田圃のごとく並べた中世の供養形態を示しています。

鬼が出たという鐘堂はもはやありませんでした。鐘堂跡の礎石1基は収蔵庫で見ることはできましたが。
悪しき奴を埋み立てる場所は、恐らく境内ではないでしょうしね。
とは言いつつも、浮図田の光景を頭に思い描いてしまいます。

なお、日本霊異記に記されている鬼の頭髪をみる事は叶いませんでした。


さて、もう一つの目的のかえる石ですが、境内の北側で見つけることが出来ました。
kaeruishi2.jpg kaeruishi1.jpg
脇の立て札には以下のように記されていました。

かえる石(大阪城の蛙石)
江戸時代の奇石を集めた「雲根志」に載せられている大阪城の蛙石である。
河内の川べりにあった殺生石だった様だが、後に大綱秀吉が気に入って大阪城に運び込まれたという。
淀君の霊がこもっているとも云い、近代には乾櫓から堀をはさんだ対岸隅にあった。
大阪城にあった頃は堀に身を投げた人も必ずこの石の下に帰ると言われた。
ご縁があって、この寺に移され、極楽堂に向かって安置された。
福かえる、無事かえるの名石として、毎年七月七日に供養される。

ちょっと調べてみれば「雲根志」前編(1773年) 巻之四に「蛙石」として記載がありました。
といっても簡単なもので、わずか1行だけです。
是だけで由来を語るのは如何なものかw
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/unkonsi/zenpen/zenpen4/080.html
(九州大学デジタルアーカイブ該当ページ 私には一部読めない所があるのでこのまま貼り付け;;)

もうちょっと詳しく書かれているものはないかと探してみると、「摂陽群談」巻十七(1701年)にも記載が見られました。

林寺の蛙石

東成郡林寺村民家の裏に在って鳥虫の類是に留まれば 石の頂二つにに割れて口を開くが如く 鳥虫を堕入れて亦元の如くなるを以って殺生石とも云い伝えたり
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_01387/ru04_01387_0017/ru04_01387_0017_p0007.jpg
(早稲田大学古典籍総合データベース該当ページ)

河内の川べりに在ったとの事ですが、「雲根志」「摂陽群談」にはその記載が見られず。
どこかの古文書で河内の川べりにあった蛙石のことが書かれてあったのを読んだ気もするのですが、どの文献だったか思い出せず…年かなぁw
ただそれも、河内の川べりにあったという事が書かれてあっただけで、どこどこに運ばれた、と言う事は書かれていなかったと記憶しています。
今度林寺(大阪市生野区に現存)にでも行って聞いてみるか…

ただ、この時点でも少しおかしな点に気がつきます。
1701年、1773年編纂の文献に「林寺の」とされているのですが、大阪夏の陣(1615年)には大阪城にないとおかしいので、時間的に辻褄が合わないような…
最も蛙石がもともとあったといわれる林寺でも大阪城に運び込まれたと伝えられているようなので、編纂者にはその話が伝わってなかったのかも知れません…

 かえる石は、1940年から1957年の17年間行方不明になっているのですね。
しかも発見時に真贋の確認は行われていない様子。
実は「かえる石」という、「蛙」に見立てられる石は全国随所に存在しています。
私の感想としては、現物を確認してみたところ殺生石の由来たる口が元興寺に現存する「かえる石」に見られないので、「摂陽群談」「雲根志」に載せられている「蛙石」と同一のものかどうか疑問をはさみたい所ですが、細かい事を言うのは無粋と言うものでしょう。
いつの時代も日本人はこのような怪奇話が好きだな、と思う次第です。


元興寺
場所:奈良県奈良市中院町11


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自己紹介:
妖怪と酒を愛する一男一女の父。
昨今、文献漁りも行っているが、昔の人の書が達筆すぎて苦心中

 

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