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松原市と羽曳野市の境界に河内大塚山古墳があります。
国内有数の規模を誇る前方後円墳(大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)、備中造山古墳に次ぐ全国第5位に相当)であり、現在は管理が宮内庁が行っており古墳内に立ち入る事は出来ませんが、その丘陵には寝牛の背の姿をした長さ1メートル50cm、横70cm程度の石があるのだそうです。
この石は牛石、夜泣き石、ごびょう石、ごべ石、ごぼ石等と呼ばれ、この石にまつわる様々な不可思議なことが起きたと伝えられています。






松原市では収集された市内各地の民話をHP上で公開されていますので、まずはそちらの紹介。

第18話 御陵で阿保親王を見た男(大塚山にまつわる話四話その一)
第19話 消えた牛石(夜泣き石)(大塚山丘陵にまつわる話四話その二)
第20話 雨を呼ぶ大塚山の牛石(大塚山丘陵にまつわる話四話その三)
第21話 大塚山古墳と雄略天皇(大塚山丘陵にまつわる話四話その四)
第41話 竹之内街道沿いの大塚山民話 金銀の靄(もや)が懸(か)かる大塚山
第42話 竹之内街道沿いの大塚山民話 大塚山の牛石
第43話 竹之内街道沿いの大塚山民話 大塚山の牛石(泣く石の正体)
第44話 竹之内街道沿いの大塚山民話 天と地の牛石/消えた牛石の正体
第45話 御陵の化け物と少女/神隠しにあった少年

ざっと見た限り大塚山古墳に関する話はこの程度紹介されています。
これだけでも周囲に住む方々に畏敬の念を抱かれ続けた古墳(地元では御陵とも呼んだようです)であった事がうかがい知れます。

これらの話をまとめてみると大体以下のようになるかと思います。
  • 大塚山古墳山頂には牛石、夜泣き石、ごびょう石、ごべ石、ごぼ石等と呼ばれる巨石があった。
  • 雨が降る時、或いは春先には石が「グオーン、グオーン」「ごべごべ」と泣き声をあげた。
  • この石に手を触れると石から血が出る
  • ながく地元では阿保親王の御陵と信じられており、牛石を動かして御陵を掘ろうとすると親王が現れた。
  • 山頂の牛石を運び出した事があったが、いつの間にか山頂に再び戻ってしまった。
  • 御陵には化け物が住む。
といった所でしょうか?
雨、引いては農耕と牛の形をした石の縁、不気味な泣き声からの周囲の村の方々が怖れを抱いていた様子を感じ取る事が出来ます。

そしてそのような話の伝わる河内大塚山古墳へ足を運んできました。


こちらが前方部。
前方部は古墳の北側に位置し、現在でも周囲を濠がめぐらせてあります。


現地案内板

河内大塚山古墳(かわちおおつかやまこふん)

 河内大塚山古墳は、西大塚の東除川西側に発達した、中位段丘面に築かれている。周濠を持つ巨大前方後円墳である。墳丘規模は全長335m、前方部幅230m、後円部直径185m、前方部高4m、後円部高さ20mをはかる。前方部はほぼ北面する。人工の造山だが、後円部頂上は海抜45mに及び、松原市内で最も標高が高い。
 墳丘主軸長では、日本列島第5位のトップクラスだが、築造時期を決める資料に乏しい。しかし、①前方部は平坂低平で、やや不整形をとること。②埴輪や葺石の存在がはっきりしないこと。③後円部に「ごぼ石」とよぶ巨石が存在するうえ、江戸時代後半の毛利家文書の「阿保親王事取集」(山口県立文書館蔵)に「磨戸石(みがきどいし)」とよぶ巨石が18世紀後半の宝暦~明和年間に見られたこと。④古墳内にあった石室材・石棺材と思われる竜山石(たつやまいし)や花崗岩が柴籬神社(しばがきじんじゃ)(松原市上田7丁目)などへ移されていること。
 このようなことから、横穴式石室が後円部につくられていた可能性があり、6世紀中葉から後葉の古墳と考えられる。
 中世には、丹下氏が古墳を利用して、丹下城を築いた。織田信長によって丹下城がこわされた後、江戸時代には前方部に大塚村が形成され、後円部には氏神の天満宮(菅原神社)が祀られた。
 大正10年3月に国の史跡(昭和16年12月解除)となり、大正14年9月に陵墓参考地となったことから、昭和3年までに数十戸の民家は濠外に立ち退いた。
 6世紀代の安閑天皇や、欽明天皇陵とする説があると同時に、墳丘未完成説も唱えられている。現在、宮内庁が管理する陵墓参考地である。


「大塚陵墓参考地」と記された石碑



このように古墳周囲は宮内庁により立ち入り禁止となっています。


こちらが古墳南側に位置する後円部。
このあたりには濠はないのですが、柵がめぐらせてあります。
この頂上部に牛石(ごぼ石)があると伝えられています。

さて牛石について思いつくままにつらつらと書き連ねてみます。
古い日本の習俗を見ていくと、牛と農耕祭祀の間には深い関係が有ります。
このブログでも幾つか取り上げていますが、例えば雨乞いの為の殺牛祭祀などというものがかつての日本にはありました。

殺牛殺馬祭祀-兵庫県西宮市・高座岩-
殺牛殺馬祭祀-牛ヶ首池-
殺牛殺馬祭祀-箕面の滝-
牛鬼及び殺牛殺馬祭祀-和歌山県西牟婁郡・牛屋谷の滝-

これまで訪ねた場所はいずれも水源地であったのですが、実は山頂部などの天に近い場所で執り行なわれる形態の祭祀があったと、兵庫県三田市のヒトモシ山、権現山で伝わっているそうです。
その流れで見てみると、牛石から血が出たり、降雨と関連した話が理解しやすかったりとするようにも思われるのですが、なにぶん思いつきの域を出ません。

無論、この場所が古墳であったことが不気味さを感じる大元ではあったのでしょうが、それに加えてどういった要素が降雨と結びつける話となってたのでしょうね。


河内大塚山古墳
場所:大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘

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昨今、文献漁りも行っているが、昔の人の書が達筆すぎて苦心中

 

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