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妖怪などに興味がない人でも恐らく知らない人は居ないのではないだろうかというぐらい有名な怪談「耳なし芳一」。
その舞台が、安徳天皇や平家一門が祀られている阿弥陀寺(現在の赤間神宮、山口県下関市)です。
家族で九州に旅行に行ったついでに足を運んできました。





まずは、あらためて怪談「耳なし芳一」についておさらい。
この怪談は古くから伝えられていたようですが、小泉八雲の『怪談』にも取り上げられ、広く知られるようになったようです。
まずは小泉八雲の『怪談』は青空文庫で全文を読むことが出来ますので、これを記に是非原文で楽しまれることをお勧めします。

「耳無芳一の話」(青空文庫)

さて、上記の「耳無芳一の話」でも触れられているように、こちらの神社は阿弥陀寺と呼ばれていました。
そもそもは文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る(遺体は現場付近では発見できなかった)為、赤間関(下関)に建久2年(1191年)、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させたのが始まりなのだそうです。
以後、勅願寺として崇敬を受けていたのですが、 明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称しました。
また、歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が明治22年(1889年)7月25日、「擬陵」として公式に治定されました。
この「天皇社」は明治8年(1875年)10月7日、赤間宮に改称し、官幣中社に列格されます。
そして昭和15年(1940年)8月1日、官幣大社に昇格し「赤間神宮」に改称することになったのだそうです。

余談ですが、安徳天皇は遺体が見つからなかったこともあって、実は壇ノ浦の合戦の後も生き延びていた、などという話も残されていたりします。その落ち延びたと伝えられる先は日本全国に散らばっており、実は大阪にも能勢の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓があったりもします。
機会があれば訪ねて行きたいものです。

さて、そんな赤間神宮(阿弥陀寺)の紹介です。
場所は下関にある大きな市場、唐戸市場のすぐ傍です。

赤間神社から海沿いに走る国道9号線を挟んで向かい側に神社の駐車場がありましたので、そこに駐車。
 
駐車場のすぐ南側は、関門海峡です。
古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれていましたが、赤馬関と書かれることもあった様で、ここから馬関(ばかん)と略される事もありました。
この近辺で幕末に長州藩と列強との間で武力衝突事件がおきていますが、この事件を下関戦争といったり馬関戦争と呼ばれたりするのもここから来ています。

駐車場脇にあった案内板

謡曲「碇潜」と壇の浦

 謡曲「碇潜」は、平家一門の修羅の合戦の模様とその悲壮な最後を描いた曲である。
 壇の浦の古戦場を弔いに来た旅僧が乗り合わせた渡し舟の漁翁に軍物語を所望する。
 漁翁(実は知盛の幽霊)は能登守教経の奮戦と壮烈な最期を詳しく語り、弔いを願う。
 旅僧の回向に導かれるように、勇将知盛の姿が現れ、安徳天皇をはじめ一門悉く入水するまでの経過と自らの修羅の戦いの有様や碇を頭上に戴いて海中に飛び込んだ知盛の幻影を旅僧は見たのであった、という構成を持つ「舟弁慶」の類曲である。
 壇の浦は急流で知られる関門海峡の早鞆の瀬戸に面した一帯をいう。
 平家滅亡の悲哀やその最後を美しくした総帥の面目と情趣に想いの馳せる海岸である。
謡曲史跡保存会

こちらに書かれているように、この近辺(正確にはもう少し東になりますが)がかつては壇の浦と呼ばれ、平家が滅びる一戦の地となった場所になります。

 
この碇に関しても案内板がありました。

海峡守護「碇」の由来

 水天皇大神安徳天皇をまつる赤間神宮は、関門海峡の鎮めの神と仰がれています。
 今を去る800年の昔、源平壇ノ浦の戦いに、平家の大将知盛は全てを見収め、碇を背に海中深く御幼帝のお供をして龍宮城へ旅立たれました。
 それより「碇知盛」で能や歌舞伎に演じられ、勇将振りがたたえられています。
 このいわれをもとに、海参道の入口を選び現代の碇を奉納し、御神祭の御霊を慰め、海峡の平安を祈るものであります。

       昭和60年5月2日
       源平800年祭を記念して
寄進  下関海洋少年団

さて、振り返って社の方へと向かいます。


駐車場から社殿を望む


一の鳥居

 
鳥居脇にあった下関の観光案内と境内見取り図


階段を上がって水天門をくぐって行けばよいようです。

階段を上がりきったところにこちらの案内板が

此処は人皇第八十一代の安徳天皇阿弥陀寺稜です
今から八百年前源平の合戦で壇の浦に御入水の後
御尊体を奉じて御廟所が造営され明治維新を経て
現在の御陵となりました
どうぞ御参拝下さいませ

さっそく足を向けます。

こちらが現在の廟所。中を窺うことは出来ません。
小泉八雲の「耳無芳一の話」では芳一が亡者の中で琵琶を奏していた場所は「雨の中に、安徳天皇の記念の墓の前に独り坐って、琵琶をならし、壇ノ浦の合戦の曲を高く誦して。」と描写されているので、こちらをイメージすると良いのでしょうか?

さて、安徳天皇の廟所も参拝させていただいた事なので、社殿の方へ向かいます。

水天門を見上げて


その脇に案内板がありました。

  赤間神宮
   御祭神 第八十一代 安徳天皇
   御祭日 五月三日先帝祭
         十月七日例大祭
 寿永4年(一一八五)年三月二十四日源平壇浦合戦に入水せられた御八歳になる御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる 昭和二十年七月二日戦災に全焼せるも同四十年四月二十四日御復興を完成し、同五十年十月七日 寛仁親王殿下の台臨を仰いで御創立百年祭を斎行 同六十年五月二日 勅使御参向のもと高松宮同妃両殿下の台臨を仰ぎ御祭神八百年式年大祭の盛儀を厳修せり

  水天門記
惟時昭和三十二年十一月七日大洋漁業副社長中部利三郎氏は率先多額の御寄進に加えて曰く即ち関門海底国道隧道の完成と下関市政七十周年大博覧会開催の秋 吾国未曽有の御由緒と関門の此の風光明媚とに鑑み 水天文の建立こそ今日より急務なるはなしと 此処に昭憲皇太后より賜はりし御歌の

  今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへは

に因みて龍宮造となし御造営し奉れは昭和三十三年四月七日畏くも 昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり赤間神宮 並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて

 みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひに

の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり

  太鼓楼記
 水天神鎮の恩頼を蒙り奉る関門港湾建設社長靖原梅義氏は本宮 崇敬会長として夙に敬神の念に篤く 時恰も下関市制百周年を 迎うるや本市の発展は陸の龍宮の具現に在りと太鼓楼の造立を発願せられ平成二年一月二十七日元旦を期し見事に竣成す 蓋し新帝即位御大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢を以て除幕奉献せらる 打鳴らす鼓音とうとうと関門海峡にわたり 国家鎮護世界平和の響き四海に満ち水天皇の神威愈を光被せむ

  水天門 掲額の記
 神門楼上に関門海峡を見はるかし黒漆地に金波輝く水天門の御額は寛人親王殿下の御染筆をたまわり平成17年5月3日御祭神と仰ぐ安徳天皇820年大祭に際して宮様お成りのもと思召を以て御自ら除幕を頂いたものであります。

  御神宝類
重要文化財   平家物語長門本       全20冊
重要文化財   赤間神宮文書         全10巻1冊
山口県文化財  安徳天皇縁起絵図      全8幅
          平家一門画像         全10幅
          源平合戦図屏風        1双ほか
宝物殿にて適時公開す

水天門をくぐっていよいよ境内に



拝殿


拝殿から本殿も見えます。

そして本殿左手に向かうと・・・



このような平家一門の墓所があります。


こちらに弔われている方々の名を刻んだ石碑もありました。

平家一門の墓
 前列
左少将     平有盛
左中将     平清経
右中将     平資盛
副将能登守  平教経
参議修理大夫 平経盛
大将中納言  平知盛
参議中納言  平教盛

   後列
  伊賀平内左衛門  家長
  上総五郎兵衛   忠光
  飛騨三郎左衛門  景経
  飛騨四郎兵衛   景俊
  越中次郎兵衛   盛継
丹後守侍従   平忠房
従二位尼     平時子                        

以上の14名が弔われているとのことですが、名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも云われているのだそうです。

そしてそのすぐ傍らに



ここに芳一を祀る「芳一堂」がありました。



耳なし芳一の由来
その昔、この阿弥陀寺(現・赤間神宮)に芳一と「いへる琵琶法師あり
夜毎に平家の亡霊来り いずくともなく芳一を誘い出でけるを ある夜番僧これを見あと追いければ やがて行く程に平家一門の墓前に端座し一心不乱に壇ノ浦の秘曲を弾奏す
あたりはと見れば数知れぬ鬼火の飛び往うあり
その状芳一はこの世の人とも思えぬ凄惨な形相なり さすがの番僧慄然として和尚に告ぐれば一山たちまち驚き  こは平家の怨霊芳一を誘いて八裂きにせんとはするぞ とて自ら芳一の顔手足に般若心経を書きつけけるほどに  不思議やその夜半 亡霊の亦来りて芳一の名を呼べども答えず見れども姿なし
闇夜に見えたるは只両耳のみ 遂に取り去って何処となく消え失せにけるとぞ
是より人呼びて耳なし芳一とは謂うなり

この芳一像は押田政夫氏の作で昭和32年に堂内に奉納されたのだそうです。
今にも琵琶を弾き始めそうな見事な像ですね。

あと、境内で目を引いたものといえば、
 
水天供養塔

水天供養塔の由来
安徳天皇は御位のまま入水され水天皇・水天宮と申し上げます。
吾が国民は天皇の御守護のもと斯く永らへ安心して冥黙も出来ます。
同時に亦国民同胞の中に或は海難に水難にと幾多の水没者の方々は即ち水天皇さまの御膝元に冥りたく、此の石塔の台石下に幾多の小石に名を留めて納められています。
人は名を留むる事に依り安心を得るもので即ち是を水天供養塔と申します。
   昭和25年3月建立
   今次大戦中水没者霊位

 
日本西門鎮守八幡宮

日本西門鎮守八幡宮御由緒記
御祭神  八幡大神 神功皇后
御祭日  二月三日    節分祭
       七月二十九日 夏越祭
       十月十五日   例大祭
今から約千二百年のむかし貞観元年行教和尚が宇佐から京都の石清水へ御分霊を勧請される途次関門の風光絶佳なる当地に日本西門の守り神として創建せられた鎮守八幡宮である。それより鎌倉幕府を始め南北朝室町時代から江戸時代まで大内毛利両氏など多くの戦国大名の尊崇を集めた。昭和二十年七月一日大東亜大戦の禍を蒙り社殿は全焼したが養治小学校奉安殿を移築して仮本殿とし御神体安泰を期すを得たるも氏子の熱誠によって昭和二十九・同三十七年の両度にわたる戦災復興造営事業を中心に本殿拝殿などめでたく竣工、宇佐本宮の例に倣い朱色も鮮かに完成された。称来二十年毎の式年大祭を行い社殿整備さらに神楽の創作もおこなわれ阿弥陀芽町・みもすそ川町・壇の浦町・本町・宮田町・上宮田町など十五ヶ町の氏神として御神徳をあらわされ日本国の西門の守護神として関門海峡に臨み神意愈々発揚されているものである。
  平成十六年甲申十月
  御鎮座壱干百四十五年記念   宮司謹誌

あとこのようなものもありました。

「日露戦役 旅順 白○○砲台 戦利品」とあります。
日露戦争時の両軍の砲台の位置まで書きこまれている地図「旅順要塞攻圍進歩一覧図」で該当しそうな位置をさがしてみると、旅順市街地のすぐ傍に「白銀山」「白玉山」という山がありました。
地図によれば旅順旧市街地西側にある「白玉山」には砲台の存在が書きこまれていません。
旅順旧市街地東側にある「白銀山」には東麓に砲陣地があったようなので、おそらくこちらの物だったのかなと思われます。
露軍降伏時にはまだこの砲陣地は陥落していませんでしたので、降伏後に接収したものでしょうか?


境内からは関門大橋も見えます。


赤間神宮
場所:山口県下関市阿弥陀寺町4-1

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妖怪と酒を愛する一男一女の父。
昨今、文献漁りも行っているが、昔の人の書が達筆すぎて苦心中

 

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