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怪物-大阪城-

「大阪伝承地誌集成」に、慶応二年に大阪城の内堀に怪物の死骸が浮かんだとの記載があったので紹介させて頂きます。

osakacastle21.jpg

「大阪伝承地誌集成」には以下のように記されています。

慶応二年(1866)六月九日、大阪城内堀に怪物の死体が浮いた。
検案書の大要を記しておく。
「惣身七尺一寸背色惣水色 尾四尺八寸薄墨流しの如し 身回り六尺九寸 前足二尺七寸腹白色 後足三尺一寸 眼三寸五分」
一月前にも大鯰が死んで浮いていたが、今回のは魚か獣か定かならず、不吉の兆しであろうと続けられ、写生画がついている。
つまり全長2.6㍍、長い四本の手足があり、顔の左右に10㌢もある眼をもつ生き物となる。
寸法に誇張があろうが皆びっくりした怪物だったことは疑いない。
挿絵はかわうそに似る。
文中「不吉の兆」と出るが、はたして一ヵ月余後、大阪城内に滞陣中の将軍徳川家茂が急病で死亡した。二一歳の若さだ。
さらにその五ヵ月後の一二月、孝明天皇が三六歳で逝去する。
ともに病死だがいろいろな憶測が流れている。


大阪伝承地誌集成に載っていたこの出来事は江戸末期の話ですね。
日本人なら誰でも知っている事ですが、江戸時代を築いた徳川家最大の相手が豊臣家であり、その本拠地はご存知大阪城です。
日本史上最大の言いがかりともいわれる「方広寺鐘銘事件」を切欠として、冬の陣、夏の陣と二度の合戦を経て大阪城は落城、豊臣家は滅亡する事になります。
そういったこともあり、特に江戸時代においては、大阪城は様々な怪異が語られる場として有名でした。
有名なものでも、淀殿の亡霊が彷徨うというものや、淀殿が化けた蛇が城壁の上から見下ろすだとか、山里丸では夕闇迫る頃、大勢の人の叫び声が聞こえることがあったり、時には人影が徘徊することもあるとか枚挙にいとまがありません。
検案書に語られる怪物が、何であったのかは兎も角大阪城に脚を運んでみました。

osakacastle06.jpg
夕食を作るのに息子の相手をしててね♪と言われたので、蛙石のあった場所を写真に撮るついでに内堀まで行ってみることにしました。
この写真の場所は京橋口から入って、内堀に辿りついた辺りです。

osakacastle07.jpg osakacastle08.jpg
そこから左を見たところと、近くにあった内堀の案内板。
左側の写真、奥の方に見えるのが極楽橋です。

osakacastle09.jpg osakacastle10.jpg
内堀に架けられている極楽橋近辺。
左側の写真が極楽橋の東側。
右側が西側になります。

大阪城は内堀といえども広いなぁ…

それにしても、検案書に語られる怪物とは、いったい何なのでしょうか…
調べてみれば、大阪の市内にもかつてカワウソは生息していたようで、カワウソを怪物と表現する事はありえないように思います。そもそも大きさが全然違いますし。
機会があれば検案書の挿絵を見てみたいものですね。


大阪城内堀
場所:大阪府大阪市中央区大阪城1-1
公式ホームページ

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妖怪と酒を愛する一男一女の父。
昨今、文献漁りも行っているが、昔の人の書が達筆すぎて苦心中

 

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