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河神・茨田堤跡-堤根神社-

日本書紀 巻第十一 仁徳天皇紀には以下の記述があります

冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。又將防北河之澇、以築茨田堤、是時、有兩處之築而乃壤之難塞、時天皇夢、有神誨之曰「武藏人强頸・河內人茨田連衫子衫子、此云莒呂母能古二人、以祭於河伯、必獲塞。」則覓二人而得之、因以、禱于河神。爰强頸、泣悲之沒水而死、乃其堤成焉。
唯衫子、取全匏兩箇、臨于難塞水、乃取兩箇匏、投於水中、請之曰「河神、崇之以吾爲幣。是以、今吾來也。必欲得我者、沈是匏而不令泛。則吾知眞神、親入水中。若不得沈匏者、自知偽神。何徒亡吾身。」於是、飄風忽起、引匏沒水、匏轉浪上而不沈、則潝々汎以遠流。是以衫子、雖不死而其堤且成也。是、因衫子之幹、其身非亡耳。故時人、號其兩處曰强頸斷間・衫子斷間也。是歲、新羅人朝貢、則勞於是役。

現代訳ではこのような感じになります。

どうしても決壊してしまう場所が2か所あり、工事が難渋した。このとき天皇は「武蔵の人コワクビ(強頸)と河内の人の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を、河伯(川の神)に生贄として祭れば成功する」との夢を見た。そこで早速二人が探し出され、それぞれの箇所に1人ずつ人柱に立てられることとなった。コワクビは泣き悲しみながら入水していったが、コロモコはヒョウタンを河に投げ入れ、「自分を欲しければ、このヒョウタンを沈めて浮き上がらせるな。もしヒョウタンが沈まなかったら、その神は偽りの神だ」と叫んで、ヒョウタンを投げ入れた。もちろんヒョウタンは沈まず、この機知によってコロモコは死を免れた。結果として工事が成功した2か所は、それぞれコワクビの断間(こわくびのたえま)・コロモコの断間(ころもこのたえま)と呼ばれた。

ここで語られる茨田堤の跡地として伝えられる場所が現在でも残されているので、足を運んできました。






茨田堤跡として伝えられている有名な場所は、私の知る限り大阪府下に3か所あります。

ただ、強頸絶間の跡と伝えられる場所は民家の庭にあるため、見学させていただく事は非常に困難です。
この強頸絶間の跡というのは『摂津名所図会』3巻に記述のある絶間池の跡とのことです。

絶間池
千林村にあり 今なほ一の絶間と称す 古来より河州茨田郡に属す 今池水乾涸す
良玉 恋ひわびておつる涙もつもるかなあほぬ絶間の池となるらん 常 陸

このように記述されているので、江戸時代には既に池も枯れていたようです。

衫子絶間跡と伝えられる場所は現存しており、後日訪ねてゆきました。

そして2つの絶間とは異なりますが、今回は堤の形が一番残されている堤根神社の紹介です。

場所は京阪 大和田駅のすぐ近くにあります。

鳥居


参道


社殿


参道にあった案内

延喜式内社 堤根神社
    御祭神 彦八耳命 菅原道真公

約一六〇〇年前、河内湖周辺を水害から守るため仁徳天皇の命により茨田宿弥が旧淀川(古川)に日本最古の堤防、茨田堤を築く。
この堤を守るため、茨田氏の先祖 彦八井耳命(神武天皇の皇子)を守護神として奉祀したのが神社の起源である。
平安時代の延喜式神名帳にも記され鳥居前には河内と大和を結ぶ行基道が通じており北河内随一の古社として厚い信仰を集めている。
また、江戸時代初期、淀藩主、永井信濃守尚政により菅原道真を合祀させている。


また、境内にあった茨田堤の案内

大阪府史跡
伝 茨田堤
古代河内国はほとんどが海で、河川の土砂により河内湾から河内潟、河内湖へと地形が変化し陸地が形成されてきました。 五世紀中頃の河内は河道の定まらない北の河(淀川)南の川(大和川)の氾濫に常に悩まされる土地柄でありました。
そこで時の仁徳天皇が渡来者の土木技術を活用し北の河の南端の支流である現在の古川に堤を築き、農耕地を広げる我が国最古の国家的大事業を行われました。
この堤が日本最古の築堤である茨田堤で、古事記、日本書紀にも記されています。
この茨田堤により河内国の低湿地帯にも農耕文化が発達し、国家の経済t機な発展の基盤になりました。
そして堤の守護神として建立されたのが堤根神社であります。
その後淀川の流れは数度の改修工事を経て、茨田堤は各地で分断され、堤根神社東方にわずかに残るのみとなりました。
そこで日本最古の築堤を後世に残そうと保存運動が起こり昭和49年及昭和58年に大阪府指定の史蹟に認定され永久に保存される事となりました。

そして神社の裏手に回ると茨田堤と伝えられる堤防跡のようなモノを見ることが出来ます。



こちらにも案内板が

伝茨田堤
「茨田堤」は、『古事記』『日本書紀』に記述がみられる記録に残る最古の堤防といわれています。 『日本書紀』の説話によると、仁徳天皇の時代(5世紀)に淀川の洪水を防ぐために治水工事がおこなわれ、当時の最先端技術であった渡来人の土木工事を用い、難工事の末堤防を完成させたと伝えています。
 ここには、東西方向に古い堤防跡が残り、平安時代以前に創建された延喜式内社の堤根神社が鎮座しています。 また堤防跡から古墳時代(5世紀後半)の須恵器が出土していることから、この堤防跡こそが現在唯一地上に残る「茨田堤」の遺構と推定され、堤根神社を挟んで東西542.97m2が大阪府の史蹟に指定されています。
 茨田堤の完成により田地は一挙に拡がり農地は安定し、茨田屯倉が設置されました。 門真市域では、5世紀後半に集落が形成され(元町遺跡・元町)、6世紀には河内の低地では最大級の円墳、普賢寺古墳(墳丘径約30m・幸福町)が築造されるなど、大きな発展をみることができます。
平成20年10月
門真市教育委員会








案内板だらけですが、こんなのもありました。

伝茨田堤
(昭和49年3月29日大阪府史跡指定)
 茨田堤は、古墳時代中期に築かれた日本最古の堤のなごりであると伝えられています。
 「日本書紀」仁徳紀11年10月条に北の河(淀川)の労(浸水)を防がんとして茨田堤を築く。」と記され、「古事記」にも「秦人を役てて、茨田堤を作りたまい。」と記されています。これにより河内平野に農耕文化が急速に発違したことを伝えています。
 渡来人の協力によって築かれた堤も、その後たびたびの淀川の洪水によって決壊しましたが、その郡度修築されました。秀吉の文禄堤の築造をはじめ、淀川や大和川の治氷工事が進むにつれ、この茨田堤の役目は終わりました。茨田堤のおもかげを残しているのはわすかに門真市にのみになっています。
 ここは、昭和58年5月2日、史跡に追加指定された揚所です。
門真市教育委員会


堤根神社
場所:大阪府門真市宮野町8-34
公式HP

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