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胞衣塚他-玉造稲荷神社-

大阪市中央区、難波宮跡の南東に「玉造稲荷神社」という古い神社があります。
社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社とされていたようです。
蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承があるのだとか。
大阪は何気ない場所に、かつて戦場であったという場所が随所にありますが、この地もそういった場所の一つのようです。

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時代が下り、戦国時代の戦火で荒廃し、慶長八年(1603年)に豊臣秀頼により社殿が再建されたようです。
その後、豊津稲荷社と名を改められ豊臣家が健在であった頃には大阪城三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けていたようです。

元和元年の大坂夏の陣で社殿は再び焼失しましたが、元和五年に徳川幕府の大坂城代や氏子らの寄進によって再建され、徳川時代においても大阪城の鎮守神社とされていました、
社地は元々は崖に面していたため、少しでも平坦化するために、寛政元年(1789年)、東横堀川の浚渫で出た土砂を町人らが運び込む「砂持」が行われます。
また江戸時代には伊勢参りの出発点とされていました。

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現地案内板2種

(左)
玉造稲荷神社 ご由緒
主神 宇迦之御魂大神
相殿 下照姫命 月読命
   稚日女命 軻遇突智命

創祀は垂仁天皇十八年秋(紀元前十二年)とされ、古代には「日本書紀」に記された玉造部の居住地にもなりました。
その後、物部氏と仏教受容問題で争った聖徳太子(厩戸皇子)は、当神社において戦勝を祈り、戦乱後は自ら観音堂を当地へ建立されたと伝わっています。一方、近世に至っては豊臣家が大阪城の鎮守神として祀り、その後、徳川の世に入っても大阪城代着任の際、当神社に参拝し定紋の提灯を奉納する等その厚い信仰は引き継がれました。明治期から戦前にかけて、全国の神社が国家管理となり、社格も当神社は「府社」となりました。
平成元年(西暦一九八九年)には「創祀二千年祭」を挙行しました。


(右)
玉造稲荷神社
ご祭神 宇迦之御魂大神
 下照姫命 稚日女命 月読命 軻遇突智命

古代勾玉作りの難波玉造部が居住していた地で、現在の「玉造」の地名もこれに由来致します。
当神社の創祀は、垂仁天皇18年(B.C.12年)にさかのぼるといわれる古社であります。
聖徳太子が物部氏と仏教の受容問題で争われた時、この玉造岡に陣をひき当神社に戦勝を祈願し、戦勝後この地に観音堂を建立されたといわれております。
豊臣時代には大阪城の守護神として豊臣家の崇敬は特に厚く、境内の石鳥居も慶長8年(1603)に秀頼公により寄進されたものであります。
10月の祝日には境内で太閤さん時代の「だんご茶会」が盛大に行われます。
江戸時代の伊勢参宮本街道との深いつながりも「暗越・奈良街道」の要地にあったためであります。


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難波の高台の内に位する玉造稲荷の所在地は、古代には玉造岡とて玉造部に所属する曲玉作りの集団居住地であった。故に大阪においてもっとも古く由緒あるところというべきである。
この高台に仁徳天皇は高津宮を営みわが国最初の都城をつくられたが孝徳天皇の長柄豊崎宮、天武天皇から聖武天皇にいたる難波宮がこれに続き、今なおその遺跡は厳然として残っている。
そのゆかりの地に今大島靖大阪市長の題字を得てこの碑を建立するのは、まこと意義深いことである。


それにしても、案内板に類するものが何と多い神社なのだろう・・・
ここまであちこちに作らなくとも・・・

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こちらにも案内の碑が・・・

玉造稲荷神社 ご由緒
主神 宇迦之御魂大神
相殿 下照姫命 稚日女命 月読命 軻遇突智命

創祀は垂仁天皇十八年秋(紀元前十二年)とされ、古代は「日本書紀」に記された玉造部の居住地にもなりました。その後、物部氏と仏教受容問題で争った聖徳太子(厩戸皇子)は、当神社において戦勝を祈り、戦乱後は自ら観音堂を当地へ建立されたと伝わっています。一方近世に至っては豊臣家が大阪城の鎮守神として祀り、その後、徳川の世に入っても大阪城代着任の際、当神社に参拝し定紋の提灯を奉納する等その厚い信仰は引継がれました。明治期から戦前にかけて、全国の神社が国家管理となり、社格も当神社は「府社」となりました。
平成元年(西暦一九八九年)には「創祀二千年祭」を挙行しました。


本当に案内が多い神社ですね。

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そんな歴史ある神社ですので、ちょっと境内を散歩すれば不思議な由来をもつモノが幾つかありました。
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豊臣秀頼公胞衣大明神
秀頼公と淀君を結ぶ胞衣を祀る。
大阪築城400年祭を機に(昭和五十八年八月五日)地元及び政・財・文化界有志により遷座され、子の悩み、夜なきに霊験あらたかとされております。

万慶稲荷神社
ご祭神・・・宇迦之御魂大神
豊臣・徳川両大阪城代の至るところに当神社のご分霊をお祀りした稲荷社がありました。
享保年間、大名・戸田大隅守により一社に合祀し、ここに鎮座されております。

新山稲荷神社
ご祭神・・・宇迦之御魂大神
寛政十一年(一七九九)、当時の大阪城代・松平輝和候の城代屋敷内(現・天王寺区清水谷町、府立清水谷高校敷地内)に当神社のご分霊を祀られた社で、明治四十年(一九〇七)三月二十一日に合祀されました。

厳島神社(弁天さん)
ご祭神・・・市杵嶋姫神
古地図に記されたこの白龍池は白龍観音が出現され、雨乞いにも、また病にも霊験あらたかと広く信仰されております。(池は亀の池として親しまれています。)

まずは、神社前にある「白光大神」。
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この近辺には、こういう木を避けて道が作られている場所が何箇所かありますが、いずれも木を伐採する、動かそうとすると良くない事が起きる、という話が付け加えられています。
こちらの木ではあまりそういう話は聞きません。
何でも、この木のある辺りは以前は神社の境内だったのでその名残だとか。
しかし、やはりこの木一本だけが残されている、というのにはやはり何らかの理由があったのでしょう。

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(左) 神社側から見た所。
(右) 木の根元に作られている「白光大神」の小社。

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秀頼公胞衣塚(よなづか)社

胞衣(えな:大阪ではヨナと呼ぶ)とは、胎盤の事で、秀頼が生まれた時の淀君の胎盤を埋めたとされています。
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(左) 現地案内板
(右) 大明神の脇に生えていた、子供の夜泣きに霊験があると伝えられている笹。

秀頼公胞衣塚大明神

文禄二(1593)年、豊臣秀頼公御誕生のみぎり、公の胞衣(大阪ではヨナと呼び淀殿の胎盤、胎児を包んでいる膜など)を埋め申したのが大阪城三の丸に当たる当玉造の地であった。
以来、豊臣家の恩義を忘れぬ地元の人々により世々祀り継がれてきたが昭和二十年の戦火による焼損のため、上町一丁目(もと寺山町)から玉造一丁目(もと東阪町)へ遷座申し当社宮司が斎主となり奉祭し、来たったのである。
さて、このたび大阪築城四百年を吉兆とし大明神を公ゆかりの当社境内に遷座申すこととなった。
なお、当地の民俗に、みどり子の夜泣き子の悩みを封ずるのに、当大明神のほとりに生ずる笹をご祈祷の上もらい受け、子の寝床の下に敷けば霊験あらたかであると信ぜられている。

昭和五十八年八月


うちの子供達が夜泣きをしている頃に知っていれば、試してみていたのですが;;
それにしても、2度も遷座されているのですね。
埋められて祀られていた胞衣も、この地に移されているのでしょうか?

厳島神社
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下段が白龍池或いは亀の池とされる池ですね。

秀頼公が寄進されたという石鳥居。
上下に分割されて境内の片隅に置かれてありました。
tamatsukuriinarijinjya15.jpg ちょっとシュールw

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豊臣秀頼公[慶長8年(1603)3月吉日銘]奉納鳥居
大阪夏の陣、慶長20年(1615)また第二次世界大戦、昭和20年(1945)6月1日と二つの戦禍を乗り越えて参りましたこの鳥居は平成7年(1995)1月17日早朝の阪神・淡路大震災により基礎に損傷を生じ、建立以来400年間「大阪城の鎮守神」として、その歴史的シンボルに幕を閉じここに保存することとなりました。


戦禍には耐え抜いた石鳥居も、歴史的な天変地異の前には歯が立たなかったようです。
私も阪神・淡路大震災は西宮で被災しましたが、その傷跡をここで見る事になるとは思いませんでした。
悪い思い出も、個人的には悪くない思い出も震災にはありますので、やはりその言葉を目にするだけで感慨を抱かずにはいられません。

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千利休を偲ぶ「利休井」
豊臣・徳川時代に大阪城の鎮守神として篤い崇敬を受けた当神社は、その繋がりが深く、付近には武将・前田利家の屋敷を始め、茶匠・千利休も屋敷を構えていました。利休屋敷には利休井があったと伝えられ、古くより「玉造清水」と呼ばれる良質の水脈を使い、この上町台地東端の良き自然環境にも恵まれ、茶の湯文化を育んで参りました。
当神社付近には他にも、門人の細川越中守忠興(三斎流)の「越中井」や、もう一人の門人であった古田織部(織部流)の「山吹井」が存在したと「摂津名所図会大成」などに記されております。
さらに、江戸時代中頃には神社境内北側(現・玉造小学校)で酒造りが行われており、酒造り用の竈類も近年発掘されました。灘、伊丹、伏見と共に、ここでも酒造りが栄えていたことが文献にも見受けられます。
この井戸は平成十八年八月にNPO法人「大阪甲胄隊」らによって再掘されました。


上町台地に良質の水源が流れている事は知っていますし、利休が屋敷を構えていたことも知識としてあるのですが、神社境内で掘った井戸に利休との関係をにおわせる名前を付けるのは如何なものかと思うのですが・・・

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境内に合祀されたという、「万慶稲荷神社」「新山稲荷神社」でしょう。

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夫婦銀杏
銀杏は樹によって雄樹と雌樹の性別(?)がある植物です。
その雄樹と雌樹が寄り添うように育っているので、夫婦和合の象徴とされているのだとか。

胞衣塚があり、またこの付近では比較的大きな稲荷なのですが、妖怪話や奇譚目当ての人間には少し物足りない印象があります。
最も、そのようなモノ目当てで神社をまわるほうが罰当たりなのは間違いないのでしょうが。

玉造稲荷神社
場所:大阪府大阪市中央区玉造2-3-8

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妖怪と酒を愛する一男一女の父。
昨今、文献漁りも行っているが、昔の人の書が達筆すぎて苦心中

 

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