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七夕伝説-機物神社-

ブログを再開すると書いたものの、原発事故をめぐる情勢も日々変わったり、この状況下でいきなり妖怪話も書く気にもなれ無かったため、かと言って別の伝承をめぐる話でもと考えたは良いものの、中々書き始めることが出来ないでいました。

ですが、このままズルズルと書き出さないのもいけないと思い直し、心機一転、訪ねた順にでも徐々に書き出していこうかと思います。

さて、大阪府北東部にある交野市には、七夕伝説に因む伝承地が数多く存在している事で知られています。

その中でも今回は機物(はたもの)神社に行ってきました。

hatamonojinjya01.jpg


hatamonojinjya04.jpg 由緒書き
御祭神は天棚機比売神、栲機千々比売神、地代主神、八重事代主神。
そう、日本で一般的に織姫として知られる天棚機比売神(あまのたなばたひめのかみ)が祀られている神社です。

hatamonojinjya02.jpg hatamonojinjya03.jpg
参道

hatamonojinjya05.jpg 本殿
創立年代は明らかでないとのことで、一説には秦氏の斎祀る神社であったので、秦者が祀るから転じて機物となったと云う話もあります。

さて、現在の日本における七夕伝説とは、要約すると以下の通りだと思います。

織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。
その恋人の夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。
めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。
このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、二人はこの日のみ会うことが出来るようになった。

この話は、中国の織女星と牽牛星の伝説が元になったものです。

そもそも、日本では七夕と書いて、たなばたとは普通には読むことは出来ません。
本来は字の通り、しちせきと読むべきで、大陸由来の節句の内の一つをさす言葉でした。

これが何故たなばたと読むようになったかについては、故 折口信夫氏の文が現在の所定説となっているようです。


たなばたと盆祭りと(折口信夫)

この二つの接近した年中行事については、書かねばならぬ事の多すぎる感がある。又既に、先年柳田先生が「民族」の上で述べてゐられるから、私しきが今更此に対して、事新しく、附け加へるほどのことはあるまいと思ふが、顔が違へば、心も此に応じる。又変つた思案も出ようと言ふものである。
たなばたは、七月七日の夜と、一般に考へられてゐる様であるが、此は、七月六日の夜から、翌朝へかけての行事であるのが、本式であつた。此点、今井武志さんの報告にある、信州上水内の八月六日の夜を以てするのが、古形を存するものゝ様である。沖縄に保存してゐるたなばた祭りも、やはり七月六日の夜からで、翌朝になるとすんでゐた。
「水の女」の続稿には、既に計画も出来てゐるのであるが、たなばたといふ言葉は、宛て字どほり棚機であつた。棚は、天湯河板挙(あめのゆかはたな)・棚橋・閼伽棚(簀子から、かけ出したもの)の棚で、物からかけ出した作りである。その一種なる地上・床上にかけ出した一種のたなばかりが栄えたので、此原義は、訣りにくゝなつて了うた。たなと言へば、上から吊りさげる所謂「間木」と称するもの、とばかり考へられるやうになつた。同行の学者の中にも、或はこの点、やはり隈ない理会のとゞかぬらしく、たなを吊り棚とばかり考へてほかくれぬ人もある。
壁に片方づけになつてゐない吊り棚に、年神棚(としだな)がある。此は、天井から吊りさげるのが、本式であつた。神又は神に近い生活をする者を、直(なほ)人から隔離するのがたなの原義で、天井からなりと、床上になりと、自由に、たななるものは、作る事が出来た訣である。棚の一つの型をなす「盆棚(ぼんだな)」と称せられるものは、決して、普通の吊り棚でも、雁木(がんぎ)でもない。此は、地上に立てた柱の上に、座を設けたものが、移して座敷のうへにも、作られる様になつたのであつた。
だが、かうしたたなの中にも、自然なる分化があつて、地上から隔離する方法によつて、名を異にする様になつた。一つは、盆棚形式のもので、柱を主部とするものである。珠玉の神を御倉板挙(みくらたな)といふなどは、倉の棚に、此神を祀つたものと見てゐるが、これは、くらだなに対する理会が、届かないからである。くらだなが即(すなわち)倉で、倉の神が玉であり、同時に、天照皇大神の魂のしんぼるであり、また米のしんぼるとして、倉棚に据ゑられたのである。
この倉は、地上に柱を立て、その脚の上に板を挙げて、それに、五穀及びその守護霊を据ゑて、仮り屋根をしておく、といふ程度のものであつたらしく、「神座(くら)なる棚」の略語、くらの義である。時には、その屋根さへもないものがあつて、それを古くから、さずきと言うた。後に、この言葉が分化した為に、而も、さずきその物の脚が高くなつた為に、別名やぐらと称する称へを生んだ。神霊を斎ひ込める場合には、屋根は要るが、それでなくて、一時的に神を迎へる為ならば、屋根のないのを原則としてゐた。後には、棚にも屋根を設ける様になつたが、古くは、さうではなかつたのである。
だから、やまたのをろちの条に、八つのさずきを作つて迎へた、といふ事も訣るのである。此が、特殊な意義に用ゐられた棚の場合には、一方崖により、水中などに立てた所謂、かけづくりのものであつた。偶然にも、さずきの転音に宛てた字が桟敷と、桟の字を用ゐてゐるのを見ても、さじき或は棚が、かけづくりを基とした事を示してゐる。後には、此かけづくりをはしどのなどゝさへ称する様になつた。だから、考へると、市廛(いちたな)の元の作りが訣つて来る様に思ふ。恐らく、異郷人と交易行為を行ふ場処は、かうした棚を用ゐたので、その更に起原をなすものは、棚に神を迎へ、神に布帛その他を献じた処から、出てゐるのである。
さうした意味から考へると、日本紀天孫降臨章にある、

天孫又問曰、其於秀起浪穂之上(ほだたるなみのほのうへ)、起(たて)八尋(やひろ)殿而、手玉玲瓏織(ただまもゆらにはたおる)之少女(おとめ)者、是誰之女子耶(がをとめぞ)。答曰、大山祇神之女等。大(えを)号磐長姫少号木華開耶姫。

とある八尋殿は、構への上からは殿であるが、様式からいへば、階上に造り出したかけづくりであつた、と見て異論はない筈である。此棚にゐて、はた織る少女が、即棚機つ女(め)である。さすれば従来、機の一種に、たなばたといふものがあつた、と考へてゐたのは、単に空想になつて了ひさうだ。我々の古代には、かうした少女が一人、或はそれを中心とした数人の少女が、夏秋交叉(ゆきあひ)の時期を、邑落離れた棚の上に隔離せられて、新に、海或は海に通ずる川から、来り臨む若神の為に、機を織つてゐたのであつた。
かうして来ると、従来、

天(あめ)なるや、おとたなばたのうながせる、玉のみすまる、みすまるに、あな玉はや。三谷二渡(みたにふたわた)らす、あぢしきたかひこねの神ぞや

といふ歌のたなばたも、織女星信仰の影の、まだ翳さない姿に、かへして見る事が出来るのである。おとといひ、玉のみすまるといひ、すべて、天孫降臨の章の説明になるではないか。而も、其織つた機を着る神のからだの長大な事をば形容して、三谷二渡(みたにふたわた)らすとさへ云うてゐるではないか。此は美しさを輝く方面から述べたのではなく、水から来る神なるが故に、蛇体と考へてゐたのである。
かうした土台があつた為に、夏秋の交叉(ゆきあひ)祭りは、存外早く、固有・外来種が、融合を遂げたのであつた。其将に外来種を主とする様に傾いた時期が奈良の盛期で、如何に固有の棚機つ女に、織女星信仰を飜訳しようとしてゐるかゞ目につく。此様に訪ねて来た神の帰る日が、その翌日である為に、棚機祭りにくつつけて、禊ぎを行ふ処すらある。畢竟、祓へ・棚機の関係は、離すべからざるもので、暦日の上にあるいろんな算用の為方は、自然に起つた変化と見てよい。第一に禊ぎ自身が、神の来る以前に行はれる――吉事を期待する所謂吉事祓へ――行事であつた筈である。それが我々の計り知れぬ古代に、既に、送り神に托して、穢れを持ち去つて貰はうといふ考へを生じて来た。今日残つてゐる棚機祭りに、漢種の乞巧奠は、単なる説明としてしか、面影を止めてゐない。事実において、笹につけた人形を流す祓へであり、棚機つ女の、織り上げの布帛の足らない事を悲しんで、それを補足しよう――「たなばたにわが貸すきぬ」などいふ歌が、此である――といふ、可憐な固有の民俗さへ、見られるではないか。だから、この日が、水上の祭りであることの疑念も、解ける訣である。
中尾逸二さんの郷里で行はれた「なのか日」の行事が、又一面、たなばた祭りの面影を見せてゐる。他から来る神を迎へる神婚式即、棚機祭り式で、同時に、夏秋の交叉を意味するゆきあひを、男(を)神・女(め)神のゆきあふ祭りと誤解し勝ちの一例を見せてゐる。すべての点から見て、たなばた祭りは、霊祭りと、本義において、非常に近い姿を持つてゐる。

(後略)


要するに、もともとあった固有のたなばたと、大陸由来の七夕、中国の織女星と牽牛星の伝説とが融合していき現在の形態へなっていったとの説です。

交野市は、他にも弘法大師が北斗七星を降臨させたという伝承の残る星田妙見宮(また織女岩を磐座とされています)、同じく弘法大師の北斗七星降臨伝承に由来する光明寺の星石、牽牛石という巨石のある観音山公園、と星にまつわる巨石信仰が残されています。
そして、山を登っていけば、天の磐船によって天孫降臨したと伝承の残る磐船神社があり、これまた星空との関連を匂わせています。

元来あったたなばたの伝承と、外来の七夕と融合の地となったのは、或いはこの地であったのかもと思わせる所以です。
もっともそれは、日本各所に散在する七夕発祥の地とされる他の場所も同じなのですが。


機物神社
場所:交野市倉治1-1-7

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昨今、文献漁りも行っているが、昔の人の書が達筆すぎて苦心中

 

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