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草薙剣-阿遅速雄神社-

「日本書紀」天智天皇紀に、668年(天智天皇7年)のこととして、「是歳。沙門道行盗草薙剣、逃向新羅。而中路風雨。荒迷而帰」(この年、僧道行が草薙剣を盗んだ。新羅に向かって逃げたが、その路の途中で風雨が荒れ、迷って帰ってきた)と記載されています。
有名な草薙剣盗難事件です。
草薙剣を持って船で逃げようとしていた道行は、突然の嵐に対しこれを神罰と恐れをなして、剣を途中の河口に放り投げたと云われます。その後、草薙剣は里人により拾われ、一時納められたのが今回紹介する阿遅速雄(あちはやを)神社の創始とされています。





場所はJR放出駅のすぐ近く。
JRの駅名にもなっている「放出」という地名ですが、大阪の人間であれば「はなてん」とすぐに読めるのでしょうが、他の都道府県在住の方には中々読めない大阪の難読地名の内の一つとなっています。
実はこの放出という地名も草薙剣盗難事件の故事に由来するものという説が根強く、この地で僧道行が草薙剣を放った、という所から放出という地名になったと云われています。

さて現地の様子です。

神門

 
境内に入ってすぐに案内板と記念碑を発見。

(左) 案内板
式内郷社 阿遅速雄神社
祭神
味鉏高彦根神
八剱大神
祭礼
夏宵祭 七月十八日
夏本祭 七月十九日
秋宵祭 十月第三土曜日
秋本祭 十月第三日曜日

(右) 碑文は改行していませんので読みにくかったために適当に改行させていただきました。
記念碑
草薙御神剱
御動座奉齋
千三百年記念大祭
天智天皇七年(668)新羅国の僧、道行、熱田宮より草薙御神劒を盗み帰途、難波津にて大嵐に遇ひ古代大和川口放出村に漂着。これ御神罰なりと恐懼し、御神劒を放り出し逃げ去る。のち之を当社に合祀奉齋す。朱鳥元年(686)勅旨により熱田宮に奉還す。されどその御分霊は永遠に当社に留り給ひて中御門天皇の享保八年(1723)御神階正一位八劒大明神に奉幣せらる。
その後も朝廷の尊崇厚く、摂津古図に浦明神とあるは即ち是なり。御神劒奉還のことは「熱田大神鎮座記」と「熱田大神宮御遷宮諸事留」の考証による。
昭和四十三年(1968)は、御神劒御動座より一千三百年に当る。依って十月六日の吉日を卜し謹みて記念祭典を奉齋す。
此の日、熱田神宮より奉幣使参向、出雲大社宮司参拝、浦安の舞、御神劒ゆかりの出雲神代神楽(簸の川)等の奉納あり。祭儀荘厳神人和楽以て盛儀を終へ奉る。この記念大祭に終始協賛の誠を尽されたる氏子並に神社関係者各位に万腔の謝意を表し茲に建碑の辞とす。

昭和四十三戊申歳十二月吉日建之

阿遅速雄神社 宮司 寺園千枝
       総代 一同


鳥居の奥に社殿が見えます。
神社由緒によると、
「阿遅鋤高日子根神、当地へ降臨して土地を拓き耕耘の業を授け、父・オオクニヌシの神業を助けられた。郷民は、その神徳を慕って、摂津・河内の国造神として、神が坐した此の地の守護神として齋き祀ったと伝える。」
とのことで、阿遅鋤高日子根神は近辺の開墾に携わった農耕神と考えられているようです。
農耕神を祀る神社がが草薙剣を一時預かる、というのも面白い話で。




拝殿の中から本殿を

 
他、境内の様子。右側が本殿を外から写したもの。



さて、こちらの阿遅速雄神社、調べてゆくと明治時代に浪速鉄道(現:片町線)建設の折に現在地に遷座したようです。
さて、それでは元々の社地はどこであったのか、探し回っていると、阿遅速雄神社行宮というのがある事がわかってきました。

実は「行宮」というのは辞書で引いてみると、

あん‐ぐう【行宮】 goo辞書
《「あん(行)」は唐音》天皇の行幸のときに旅先に設けた仮宮。行在所(あんざいしょ)。 

となります。これだけでは何のことか分かりませんね。
そこで仮宮について調べてみると、

かり‐みや【仮宮】 goo辞書
1 天皇の行幸などのとき、仮にその地に設けられる宮居。行在所(あんざいしょ)。行宮(あんぐう)。
2 御輿(みこし)を臨時に安置する場所。御旅所(おたびしょ)。

この2の意味なら理解することが出来ます。
ついでですので御旅所という言葉についても調べてみます。

おたび‐しょ【▽御旅所】 goo辞書
神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に神輿(みこし)を鎮座しておく場所。神輿(みこし)宿り。仮宮。旅の宮。おたびどころ。たびしょ。

辞書で引く限り、仮宮、御旅所の項目で書かれている意味として理解するのが適切のようです。
さて、では実際にどのような場所が行宮、巡幸するとき、仮に神輿を鎮座しておく場所になっているのかといえば、御供田があった場所であるとか当然その神社に何らかの縁のある場所になる訳なのですが、

渡辺綱-坐摩神社行宮-

このように元々の社地が行宮となっている場合もあるのです。
ざっと調べた限りでは、阿遅速雄神社行宮がどのような縁で行宮となっているのかまでは分かりませんでしたので、現地まで足を運んでみることにしました。
ひょっとしたら元々の社地であるのかもしれませんし。

それがこちらです。

北側 阿遅速雄神社行宮の碑の横には下のような文字が彫られています。

昭和三十二年八月三十一日 旧行宮寝屋川南岸敷地(五十坪)を 当敷地(百五十二坪)に移し当行宮の造営及び地盛すること五尺余 其他の附随諸工事を昭和三十四年八月竣工す。

どうも残念ながら、こちらの行宮でさえ元々あった場所から遷座された後の地のようです。


 
(左)
旧町名継承碑
新喜島町三~四丁目
 当町は明治初頭、東成郡放出村・新喜多新田の各一部であったが、大正一四年四月大阪市に編入され、東成区放出村・新喜多町の各一部となった。昭和七年一〇月行政区画の変更にともない、旭区に編入され、同一八年四月行政区画の変更にともない、城東区に編入された。同一九年一月放出町・新喜多町の各一部をもって新喜多町四丁目となり同二六年七月その全域が天王田町一丁目に編入された。同三一年一月放出町・新喜多町の各一部をもって新喜多町三~四丁目となった。同四八年一〇月住居表示の実施にともない、新喜多町三~四丁目は新しい放出西一丁目・新喜多東二丁目の各一部となった。
 町名は、当町の一部が新喜多新田の一部にあることと、楠根川・城東運河・寝屋川に囲まれた島状の地域であったことに由来する。

(右)
婀遅速雄神社(あちはやおじんじゃ)行宮(あんぐう)
御祭神
阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)
八剱大神(やつるぎのおおかみ)

御祭神創祀の御由緒

阿遅鉏高日子根神は本地に降臨せられ給ひ土地を拓き民に耕耘(こううん)の業をさづけ、恩沢をたれ給ひ、父神 大國主命の神業を補翼(たすけ)し給ふ
郷民その御神徳を忍び、摂津 河内の国造神として 御神恩をお慕ひ申し上げ
神いませし此の地の守護神として斎ひまつると言い伝えたるものにして・・・・・・この宮を婀阿遅速雄神社と称す、古代(おおむかし)は阿遅經宮(あぢふみのみやし)又は浦明神(うらみょうじん)と称され のち八剱大明神(やつるぎだいみょうじん)と尊称す。
「行宮(あんぐう)」とは「かりみや」のことで、御本社は鶴見区放出東三丁目三十一番十八号(放出駅東約200m)

こちらの行宮の由来のようなことは分からず。



行宮敷地内の様子。

旧町名継承碑に書かれていることなどから類推するに、残念ながら元々の社地というわけではなさそうです。

さて、それでは元々の社地がどこであったのか?という事なのですが、明治時代に浪速鉄道(現:片町線)建設の折に遷座したという事、加えて阿遅速雄神社は、旧の河内と摂津両国の境を南北に築造された長大な古代の国堤=劔堤上に鎮座していたと云われるそうですが、堤防はいつしか剣街道と呼ばれる道へ変わっていったようです。
これは阿遅速雄神社の別名、八剣神社の参詣道であったことによるもので、現在でも阿遅速雄神社の目の前を通っています。
ということであれば、現在の社地よりやや南へ下ったあたり、JR片町線近辺にあったのではなかろうか、と推測します。

阿遅速雄神社行宮はかつて「新喜多新田」と呼ばれる近辺にあったということ、阿遅速雄神社からそこそこ離れていることから、かつて御供田があった場所か、境外摂末社でもあった場所なのかなと予想を立ててみましたが・・・今度機会があれば神社の人にでも聞いてみることにしましょう。


阿遅速雄神社
場所:大阪府大阪市鶴見区放出東3-31-18

より大きな地図で 黒猫による大阪府妖怪・伝承地地図 を表示

阿遅速雄神社行宮
場所:大阪府大阪市城東区放出西1-9

より大きな地図で 黒猫による大阪府妖怪・伝承地地図 を表示

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昨今、文献漁りも行っているが、昔の人の書が達筆すぎて苦心中

 

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