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名月姫-名月峠-

名月姫の悲話は近畿圏では比較的知られているお話ではないでしょうか?
姫の名前から名づけられた名月峠には、現在も姫の墓が残されています。

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殺牛殺馬祭祀-箕面の滝-

「日本の滝百選」にも選定されている箕面の滝ですが、この滝にも殺馬祭祀の記録が残されています。

mminohohtaki15.jpg

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猪名川・五月山一帯の九頭竜伝説に関する所感でも。
まずは、伝承のおさらいで、wikipedia(九頭竜伝承)の記事の再掲。

天徳元年(957年)源満仲が矢文を放ったところ、岩に当たった。
その岩を矢文石と名付けて、その地に北辰星(妙見宮)を祀ったと伝わる。
その後、天禄元年(970年)摂津の国守に任ぜられたとき、源満仲が新しい館をどこに築こうか思い悩み、同国一の宮の住吉大社に参籠した。
参籠して二十七日目、『北の空に向って矢を射よ。その矢の(落ちる)とどまる所を居城とすべし』との神託を受けて、満仲は鏑矢を放った。
家来を引き連れた満仲は、空高く五月山を越え放たれた矢を追いながら鼓ヶ滝付近まで来た時、白髪の老人に出会い、矢の落ちた場所を知ることが出来た。
満仲が老人に教えられた場所に行ってみると、河水をたたえた湖(沼)があり、その湖の主の九つの頭をもった雌雄二頭の大蛇(九頭龍)の内の一頭の大蛇大龍の目に射た矢が刺さり、暴れまわっていた。
一頭はこの地で死に血水跡はまるで紅の河のようになって流れた。
もう一頭は死に物狂いに山を突き破り飛び出し、湖水は鼓を打つような音をたてて滝となって流れ出た。
龍はしばらく鼓ヶ瀧の滝壷の中で生きていたが大水害の度に鶯の森、(川西市)天王宮と下流域に流されて行き、ついに昇天された。
湖沼の水は干き、よく肥えた土地が残り、多くの田畑が出来ることとなった。
そのため 後に「多田」という地名が付けられる。

この後、源満仲は多田に土着してその一族は多田源氏と連なっていく、と続きます。

さて、この伝承は源満仲が祀られる多田神社にも類話が残されているようで、多田神社の公式HP内のコンテンツ「清和源氏高祖 多田満仲公年譜」において以下の記述があります。

村上天皇  康保5年 57才
藤原仲光以下千人の供を従へて住吉神社に27日間参籠紺紙金泥の写経、黄金作りの太刀一振上箭二筋神馬三匹其の他多大の寄進あり、此の時神前にて和歌一首。
松蔭の波に浮べる月までも深きや頼む住吉の神
神箭と神託により沼沢地を開拓し新田城を造る。此処に九頭の大蛇を射殺し湖水乾涸多田荘72邑となる。

九頭の大蛇を殺したと記述はあるものの、矢文の故事は出てきません。

要点は、源満仲が現在の多田一帯を開墾、所領とし、土着していったと云うのが本筋であり、その際九頭の大蛇を源満仲が討った、という流れでしょうか。
多田神社に伝わる話だけであれば、竜とは即ち水神ですので、その近辺にあった九つの湖沼を源満仲一党が開墾し農地化したという話であるように読めます。

ただしこの伝承には、源満仲が久々知妙見祠から放ったという矢文や、その落ちた場所を問いながら訪ね歩き、多田の地に辿り着くという話が加わってきます。
久々知須佐男神社社伝を見るに、天徳元年(957)、摂津一帯に勢力を持っていた源満仲の勧請により妙見祠が建立されたと伝えられています。
妙見とは、北斗妙見菩薩を指し、北辰星(北極星)を中心に北斗七星を神格として祭ったもので、これは大阪府下の能勢妙見宮を源満仲がとくに崇敬したためとされています。
そして奇しくも、多々一帯は久々知妙見祠の丁度真北にあたります。
また能勢妙見宮も真北とはいいませんが、北東北の方角にあたります。しかし、調べてみた所、能勢妙見が開基されたのが慶長八年(1603年)とのことらしく、偶然というべきでしょうか。

以上から察するに、多田一帯開墾という事実と、源満仲の妙見信仰が習合して、矢文の故事が作られていったのでしょう。
しかし、何故平地である久々知に、星を信仰する妙見祠を建立したのか、非常に疑問が残ります。


ここから先は完全な私見であり、これを裏付ける事実は何も無い事を踏まえてお読み下さい。

実は、この度九頭竜の伝承地を訪ねたときに、行く先々で星にまつわる伝承が語られている伝承地が直ぐ近くにあることに気付かされました。

まずは能勢町山田の九頭竜権現社。
湯小屋神社脇の現地案内板によれば、九頭竜権現社のある場所は湯小屋の森と称せられるようです。
こちらは能勢町森上にある岐尼神社との縁由が深いようで、同社の秋の祭事に当たっては、古くは岐尼社の神輿(神魂)がここに神幸され、湧出する霊水のお湯が捧げられるのだとか。
また、岐尼の神はこの湯小屋で産湯されたとも伝えられるそうです。
岐尼神社の由緒を見ると以下の記述があります。

当社は、旧来枳根庄内にあって、能勢町森上の地に鎮座し、『延喜式神名帳』能勢郡の条には『岐尼神社』と見える。
祭神は『天孫瓊々杵尊』、中臣氏の祖神である『天児屋根命』、大名草彦命の子『枳根命』と『源満仲』で、『岐尼・枳根・枳禰。杵宮』、或いは『杵大明神』と称していた。
『瓊々杵尊』といえば、天孫降臨の神話にある神であるが、ここにも天孫降臨の説話がある。すなわち、岐尼神が南の小丘に降臨したもうたとき、土民は臼の上に杵を渡し、荒菰を敷いて迎えたという。
『杵』、『杵尊』のひびきは社名の起因と考えられる。また、天降った丘を今も『天神山』と呼んでいる。
社記によると、延暦元年(782)の創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、また将軍家代々の御祈願所であったという。
また祭神に加わった『源満仲』については、多田の地に入部以来家臣の多くが当地に入り、開発治世にあたったその君恩を子孫に伝えるためといわれている。

岐尼の神がこの地に天下った、という件があるのです。
最も、この付近に多田氏家臣が入ってきているので、その絡みもあるのかもしれません。

次いで、黒猫は辿り付けていませんが豊能郡豊能町余野にあるという九頭神社。
ここは久々知須佐男神社現地案内板によると源満仲が崇敬したという能勢妙見宮の山麓、入り口にあたる地域です。しかし、時期的は合いませんのでこれはどうか疑問が残ります。
ただ、能勢妙見宮が開基されていなくとも、元になるもの(能勢町稲地に隕石があったようですし)があったのかも知れません。

池田市建石町の九頭竜神社について、訪ねていった際に直ぐ近くに星の社という、星が天から降りて来て辺りを照らしたという伝承地があることを確認しています。

川西市にある九竜の社と小戸神社末社(白龍神社)については、それらしき伝承は有りませんでした。
もっとも小戸神社末社(白龍神社)については、もともとは鹿島神社とされていたようで、もともとの位置は分かっていません。

そこで黒猫は以下のように仮説を立ててみました。
天徳元年(957年)に源満仲が、現在、久々知須佐男神社(久々知妙見祠)のある所で北の方へ流れる流星(隕石?)を目撃した。
その後その地域に訪ねていって、比較的肥沃な地域を確認する。
妙見の縁を感じ、流星を目撃場所に妙見祠を建立し、康保五年(968年)にはその地域を開拓し新田城を造り多田荘72邑を開拓していく。その中には比較的大きな湖沼が九つあった…
と妄想を膨らませてみました。

しかし、個人的には悪くない線をいっているのではないかと思っているこの妄想に基づいて、それらしい資料でもないかと探しては見たのですが、残念ながら何も有りませんでした。

今後様々な資料を読む中で、ヒントになるようなものでも見つかるといいなと考えています。全く見当違いの可能性も高いのですけどね^^

<<関連エントリー>>
九頭竜-九頭竜権現社-
九頭竜-兵庫県川西市・九頭の社-
九頭竜-兵庫県川西市・小戸神社 末社-
九頭竜-九頭竜神社-
九頭竜-兵庫県尼崎市・久々知須佐男神社-

<<外部>>
多田神社ホームページ

 

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猪名川・五月山一帯に伝わる九頭竜伝説の伝承地巡りも今回で一応一区切りとさせて頂こうと思います。
今回は兵庫県尼崎市久々知にある久々知須佐男神社の紹介です。

kuguchisusao10.jpg

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つづきはこちら

九頭竜-九頭竜神社-

猪名川・五月山一帯に伝わるという九頭竜伝承地を巡っての4箇所目(空振りに終わった余野を含めると5箇所目)は、池田市にあるにある九頭竜神社の紹介です。

kuzuryuujinjya03.jpg

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プロフィール

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黒猫
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自己紹介:
妖怪と酒を愛する一男一女の父。
昨今、文献漁りも行っているが、昔の人の書が達筆すぎて苦心中

 

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