前々から
「西宮ふるさと民話」の中に
「高座岩(こうざいわ)と白馬(白馬)」という、馬を生贄にして雨を降らせる祭祀を民話風にして掲載されていたのを知ってはいました。
ところが、先日受講した
「第4回 特別妖怪講座 水辺のおばけ」にて、かつて日本で行われていた殺牛・殺場祭祀が水辺のお化けの起源に関わったのではないかという説を聞いて以来、行ってみたくてうずうずしていた所、7月の連休に西宮の黒猫の実家に遊びに行くことになった為、他の家族が寝ている早朝に足を運んできました。
[5回]
この岩にまつわる殺牛祭祀に関しては、この民話だけではなく様々な文献で確認することができます。
高座岩は武庫川中に在り。上面七、八間、高さ四、五間、略方形をなせる大岩石にして、凡一萬三千八百二十四才、獨り傑然河中に突出し天然の一奇岩なり。上面水平にして、座敷の如し。
此の岩は近郷の信仰ある岩にして、旱魃にならば雨乞を執行する場所たり。
其の儀式は動物の生血を塗るにあり。然らば天其の汚を厭ひ、洗い去らんが為めに雨を降らすといふ。
其の血は、武庫、川辺両郡は純白色の馬の血を塗るを例とす。
有馬郡誌(1929年)
明治十六年に大旱魃があり、雨ごいをしたのが最後だという。このときのようすをつぎにしるすことにする。
日照りが続いたので各村の庄屋が寄って、雨ごいの相談をし、堀池村に頼みにきた。
まず寺で香をたき、郷中の者が寄って雨を乞う。この村に博労(馬の売買をする人)がいたので、頼んで伊勢から白馬を買い求めてもらった。
白馬を殺して雨を乞うのだが、かわいそうだというので血を少しだけ取ってみたが、時雨だけだった。そこで旧例に習って行事をすることになった。
白馬を豊中にあった屠殺場につれて行き、血を一滴のこさず、にない桶に取り、首を挟箱に入れて持ち帰った。寺で読経が続くなかで、雨ごいの行列を組む。先頭は掛越家の次男が勤めることになっていた。彼は白の裃にぞうりをはいた死装束で馬に乗り、雨ごいの巻物一巻を持つ。若中が竹槍を持って巻物を護衛する。
しかしこの巻物は偽で、本物は商人の姿に変装した豪傑二人が一足先に持って出る。
次いで若中が馬の首の入った挟箱をかついで行く。若中は藍染めの浴衣を着ていた。
このあとにまず、昆陽村の者が続く。あとは上の村から順に下の村が列に加わる。
途中で昆陽池を左にまわってから武庫川の上流に向かう。
生瀬(西宮市)のやや上手にコーライ岩とよぶ大きな石がある。
一行が着くと、挟箱からまず白馬の首を出して岩に置き、白衣の者が読経する。
終わると、ミソダキとよぶコーライ岩の淵に首を落とす。
若中はにない桶の血を岩一面に塗りつける。本来は、白馬を引いていって、ここで白装束の者が首を淵に切り落としたという。
行事が終わると、一行は来たときと同じ順序で村に帰る。途中で昆陽池により、池のまわりを右にまわる。
当時はこのころから風が吹きだし、豆粒ほどの雨が降って、浴衣の藍がおちて晒のようになってしまったという。
一行が帰るまで、寺では読経を続けている。
その後、雨ごいはしていないが、雨を乞う神仏の名を列記した巻物二巻を伝えている。
また村では毎年盆の十七日に、雨ごいで死んだ馬の施餓鬼(供養)を昆陽寺で行なっている。
伊丹市史 第6巻① 「高座岩の雨乞い」
この資料で言うコーライ岩が現在で言う高座岩の事です。この他コウザ岩、コーザ岩、コザ岩、屏風岩と呼ばれていました。
またミソダキは、現在高座岩の2km上流にある溝瀧(みぞたき)の事ではなく、高座岩の直ぐ脇にある淵の事でしょう。
これに類するモノとして、「内外珍談集」にも記述があります。
摂津川辺郡稲野村の雨乞は、生瀬川の水源なる溝瀧に馬の首を切って投げ込む。此馬は白に黒の班点あるものに限る。
その儀式は村に伝わる雨乞の一巻を読み終るや、馬の首を切りて投じ後を見ずに村民一同帰る。馬の首切役は裃を着し、岩の上で之を行ふ。年により首を切る真似をして、首に少し傷をつけて血を絞り、その血を岩へ塗って帰る事もある。明治十六年に首切を行ったが帰路には大雨があつた。
「内外珍談集」高座岩の雨乞い(1915年)
80~90年前のことでした。水飢きん、旱ばつが続き、雨乞いが必要になりました。近郷近在の村から頼みにきます。
稲野の9ヶ村も尼崎市の塚口方面からも参加しました。
西宮市の生瀬の奥、武庫川の上流に、屏風岩といって、川岸に有名な大きな岩があります。
そこへ堀池村から白馬一頭をつれ、当時なお未成年であった掛越家の方が白装束で参加しました。
村ではこの巻物を読むと死んでしまうという伝説があり、当人は死を覚悟して生瀬へ行ったものでした。
これには堀池村に納金しなければなりません。
また、生瀬までお供をするといぅことで、この当日は行列を組みました。
目的地に着くと、当人が巻物を読み上げ、白馬を岩のうえで殺し、その岩を血で汚します。
そうすると、天が怒り出し、今まで晴れていた空がにわかにかきくもり、けがれた
岩をきれいに洗い落すために雨が降るといいます。しかも、お供をしなかった村には雨が降らないといわれていました。
子供のころ、この大役を引き受けた掛越由松からよく聞きました。
しかも不思議なことに、雨が降ったのは事実だったとも聞いています。
当日は、村中の女の人が炊き出しをし、握り飯の弁当をこしらえます。
それを男達が長持に入れ行列をし、弁当を運びました。
行事が終わったあと、全員が弁当を食べることで行事は終わりました。
「伊丹被差別部落のあゆみ」②(1982年発刊)
発刊から80~90年前との事ですので、1892~1902年(明治25~35年)。
史料によると、この間、明治26年、31年、33年、34年に神戸における旱魃の観測記録がありますので、この4年の内のいずれかの年での事でしょう。
こんな近代にも殺馬祭祀が行われていたとは、少し驚きです。
生瀬川の上流、溝滝の高座岩(こざいわ)での雨乞いは、伊丹の昆陽の大雨乞いとして有名である。
伊丹から乗って行った白馬の首を切り、岩にその血を塗って、行基が書いたという伝来の巻物を読み上げる。
そのときに白馬に一本でも色のついた毛がまじっておれば雨が降らないし、巻物を読んだ人はやがて死ぬと伝えている。
水のない村人にとって雨乞いはそれほどたいせつで厳粛なものであった。
生瀬でも高座岩に白馬の血を塗って雨乞いをしたと伝えている。昔は牛の血であったという。
この岩の下は竜宮に通じていてこの上を血でけがすと乙姫さんがおこって雨を降らせ、たすきをかけて洗うのだという。
「西宮市史」高座岩の雨乞い
この資料での生瀬川は、生瀬付近を流れる武庫川の別名です。
そしてここでの溝滝とは、やはり高座岩の直ぐ脇にある淵の事でしょう。
また、これ以前にもこの上流にある溝滝での記録や、この岩に比較的近い所で武庫川に合流する惣川での殺場祭祀の資料もあります。
と、資料に事欠かないモノで、民話や伝承というより完全に実話として取り扱う方が良いように思われます。
で、黒猫が足を運んできた記録です。
どこからアプローチしたら良いのかわからなかったので、以前訪ねたことのあるうるしが淵の一つ山側の集落へ降りていく道を降りたところ。
武庫川近くまで降りてくることは出来たのですが、さらに奥に行くためにはここからでは行けず。
で、次の道から行けそうな道を確認。
帰ってから調べてみると、生瀬駅からが気安いようです。
高座岩へ近づくには、廃線となった旧国鉄 福知山線跡を使用して行くのが行きやすいです。
廃線へ立ち入る所には上の看板が。
告
本地は、当社の私有地で昭和61年8月に廃線した旧線路跡地であり通行の用に供さずハイキングコースではありません。
また、鉄道施設としての使命を終えたため、その後、整備がなされておらず、橋梁等の施設は老朽化しており、途中のトンネルでは照明がなく足元が見えない箇所もあります。落石・倒木等の可能性もあり通行等には大変危険です。
よって、関係者以外の立入りや立て看板の設置などは一切認めておりません。
万一、事故、その他が発生した場合においてはその責を負いかねますので予めご了承ください。
西日本旅客鉄道株式会社
少し事情がややこしいのですが、この廃線跡は一応JR西日本の所有地なのですが、黙認されている非公認のハイキングコースとして知られ、このルートから見えるように桜を植樹したり、伝承のある川原の岩の近くに看板を付けたりと、地元民による整備(?)が行われている道なのです。
ですので、このように立ち入ることがいつまで出来るのか分かりませんし、逆に権利問題が決着し廃線跡を歩く少し変わった風情がいつまで続くのか分かりません。
この光景が見たい方は、早めに行かれた方が良いかもしれません。
武庫川も有名な甲子園球場近くの風景と異なり、この辺りまで来るとかなり急な川となっています。
かつての鉄道橋梁。
現在では鉄板がひかれており、歩行して渡れるようになっています。
が、元々人が渡るためのものではありませんので、端には近づかない方がよさそうです。
現在では埋もれつつある鉄道の枕木。
かつての何らかの監視台だったのでしょう。
監視台に上ってみて其処からの風景。
そして漸く目的の高座岩が見えてきました。
資料にある高座岩の淵。
淵というより小さな滝ですね。
高座岩を上から眺めてみました。
資料には「上面七、八間、高さ四、五間、略方形をなせる大岩石」とされていますが、本当にその通りの巨石です。
かつては、この岩の上で馬を殺したり、その馬から滴る血をこの岩に塗ったり、生首を直ぐ下の淵に投じたのかと思うと少し不気味な感じもします。
対岸にはこのような看板の跡も未だに残っています。
北川トンネルに着きました。
本当はこの日、さらに奥にある溝滝まで行こうと思っていたのですが、照明器具を持ってきていなかったためトンネル突入は断念いたしました。
というのも、本当に真っ暗で携帯電話のライトでは何も見えず、先がどうなっているのか全く分からなかったので;;
一応川原に降りて強引に行くことも考えてみたのですが、この日(2011.7.18)台風が近づいて来ており、既に小雨が降り始めていたため、その案も止めておく事としました。
万一、増水してきたとかになれば、洒落になりませんからね。
妖怪好きですが、河童のお世話になるつもりはありませんし。
帰宅後調べてみれば、トンネル脇に一応小道が合ったようなのですが、残念ながら気づけませんでした。
トンネル脇の何だか分からない廃坑。
と、いうことで今回はこれで引き返してきました。
またの機会に溝滝までアプローチしてみようかなと思っています。今度は子供も連れて。
実家から車で15分ほどでこれる事が分かりましたし。
今回来てみて分かったのですが、このルートは非公式であるにもかかわらず、相当に人が入って歩かれているようです。
辺鄙なハイキングルートより、余程道として成り立っています。
そして、このような廃線跡であるにも関わらず、落書きなどが全く無いのにも少し驚かされます。
案外、廃墟ウォーカーが来るにも良い場所かもしれません。他のホームページなどを見ればこの先に鉄橋等もあるようですしね。
さて、殺牛・殺馬祭祀についてですが、調べてみたところ、近畿地方には記録として残っているところが他の地方と比較して多いようです。
河童がなぜ牛馬を引き込むのか、牛鬼がなぜ水辺に出るのか、そういったことにこれらの祭祀が関係しているのではないか、との説があります。
牛鬼というのは、最初から妖怪画に描かれているようなモノとして考えられていたのではなく、字面からあの姿が後付で考え出されたものです。
この場合、牛鬼の「鬼」とは現在の日本人が思い浮かべる「鬼」ではなく、中国などで言われる死人の魂を指す言葉なのでしょう。
つまり、牛鬼とは言うなれば牛の霊を指すモノであり、それらが何故水辺に出るのかと言えば、これら殺牛・殺馬祭祀が根にあるのではないか、というものです。
実際、和歌山県西牟婁郡の牛鬼谷などは、両者(牛鬼と殺牛祭祀)の伝承が重なっており、その通りなのかもしれませんね。
この西宮の高座岩に関しては、殺馬祭祀であり、また牛鬼の話は聞きません。
この地においては、上の話とは関係ありませんが、この近くには河童が出るという話の残る淵や岩が幾つか点在しています。
そして、河童と言えば駒引きの話もよく聞きますので、あながち無関係とも言えない可能性はあります。
そんなこともあり、今後は近くで見られる殺牛・殺馬祭祀の伝承地にも足を向けてみるようにいたしましょう。
<<関連エントリー>>
殺牛殺馬祭祀-牛ヶ首池-
殺牛殺馬祭祀-箕面の滝-
牛鬼及び殺牛殺馬祭祀-和歌山県西牟婁郡・牛屋谷の滝-
高座岩
場所:兵庫県西宮市清瀬台近辺
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