「大阪伝承地誌集成」にて、南御堂の高坊主の話が記されていました。
[0回]
「大阪伝承地誌集成」に記されている内容は以下の通り。
江戸時代、南御堂(久太郎町四丁目)に現れた高坊主は有名。
月夜の晩に限って出る。
三、四㍍はある真っ黒な大坊主で、南御堂の前を歩いていると、いつの間にか後ろからついてくる。
絶対に前には現れぬ。背後にいるのだ。
気配を察してふり向くと、真っ黒な顔に大きな目と口が浮かび、ゲラゲラ笑っている。
「なあに、臆病もんが、自分の影法師見て恐がっているんや」
「あそこには狐や狸が多いさかい、悪さしよるんやろ」となって、
「よっしゃ。わいが正体見届けてやる」
と気張って出ていった男は、たいてい「高坊主が出たあ」と血相変えて逃げ戻ってくる。
あるとき渡辺にある味噌屋仁兵衛の店で働いている仁助が、仕事を終えて帰宅した夜中に、「味噌の注文がようけきて手がたらん。すぐ来い」と呼び出された。
仁兵衛は伯父でもあるから仕方がない。
「嫌やなあ、こわいなあ」と震えながら南御堂にさしかかると、背中がゾクゾクする。
はっとふり返ると、美しい月光に浮かんだ御堂さんの屋根にも届きそうな高坊主が立っていた。
動転した仁助はもつれた足で、辛うじて仁兵衛の店に転がりこみ、「助けてくれえ、高坊主が追いかけてきよる」とわめく。
出てきた仁兵衛が、「あほ、なんもおらへん」というと、「襟首をつかまれとる。ほら、店に入ることがでけへん」と泣き声を立てる。
「そんなあほな」と仁兵衛が力任せに引っぱったがびくともしない。
使用人や家族も集まってきて、「仁助、がんばれ」と引っぱったが、ますます動かない。
そのとき裏から外に回ったおかみさんが大声で笑い出した。
仁助の背負っていた味噌焼きの大釜に用いる長い柄の大柄杓が、軒に引っかかっていたのである。
北御堂での高入道の話を以前から聞き及んでいたので、その話が脚色された話かなとも思いましたので、少し他に南御堂での話がないものか調べてみました。
ですが、「一夜船」(著:
北條團水 1711年)に「月夜の高坊主」という話が載せられているのですが、この話はその舞台として「四条坊門」や「一条」、「東山」という地名が挙げられていることから、京都での話だと思われますが、それ以外は「大阪伝承地誌集成」に載せられている話とほぼ同じものです。
南御堂の話が基となり舞台を京都へ移された話が出来上がっていったのか、「一夜船」の話が基となり南御堂の話が出来ていったのかは分かりませんが、ひとまず現地へ行ってまいりました。
場所は、北御堂と同じく御堂筋沿いです。
南御堂は、正式名称は大谷派難波別院と言います。
本殿 北御堂に負けず劣らず大きな寺院です。
南御堂の裏側にも行ってみました。
この石垣は大戦時の物も残っているとの事で、趣があります。
南御堂も北御堂と同じく、浄土真宗に属しますが本願寺派ではなく大谷派になります。
北御堂にせよ、南御堂にせよ、この周囲にかつての大阪の人達は、異界を感じる何かがあったのでしょう。
大谷派難波別院(南御堂)
場所:大阪府大阪市中央区久太郎町4-1-11
公式ホームページ