大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
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[8回]
つづきはこちら
葛之葉姫に纏わる伝承は浄瑠璃や歌舞伎にもなっておりwikipediaにもページが作られていました。 以下に伝承部分を抜粋いたします。 村上天皇の時代、河内国のひと石川悪右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満の占いによって、和泉国和泉郡の信太の森(現在の大阪府和泉市)に行き、野狐の生き肝を得ようとする。 摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名(伝説上の人物とされる)が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白狐を助けてやるが、その際にけがをしてしまう。 そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。 葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子供をもうける(保名の父郡司は悪右衛門と争って討たれたが、保名は悪右衛門を討った)。 童子丸が5歳のとき、葛の葉の正体が保名に助けられた白狐であることが知れてしまう。 次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく。 恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉 この童子丸が、陰陽師として知られるのちの安倍晴明である。 保名は書き置きから、恩返しのために葛の葉が人間世界に来たことを知り、童子丸とともに信太の森に行き、姿をあらわした葛の葉から水晶の玉と黄金の箱を受け取り、別れる。 数年後、童子丸は晴明と改名し、天文道を修め、母親の遺宝の力で天皇の病気を治し、陰陽頭に任ぜられる。 しかし、蘆屋道満に讒奏され、占いの力くらべをすることになり、結局これを負かして、道満に殺された父の保名を生き返らせ、朝廷に訴えたので、道満は首をはねられ、晴明は天文博士となった。
wikipedia-葛の葉より-
ということで現地へ。 信太森神社ですが葛之葉姫の伝承の影響を受け、信太森葛葉稲荷神社と呼ばれる事が多いようです。 入り口 伝説についての案内板もありました。 本殿 ご神木 姿見の井戸 驚かされるのが境内末社の数。案内によると、68社もあるのだとか。 そんな境内の様子です。 さてこの伝承が伝わる神社のある岸和田市ですが、少し調べてみますと、陰陽師がこの信太森神社に程近い舞村という所に住んでいて、泉州暦(信太暦・舞暦・岸和田暦ともいう)という暦を作っていたことが分かります。 また、そもそもこの舞村とは舞村の名の由来は、舞大夫と呼ばれる芸能者が住んでいたことによります。 この舞大夫は、舞の寺社への奉納の他、陰陽師としての職能を行っていたのだそうです。 そして明治まで舞大夫として聖神社と関係を持ち、和泉暦の頒布と陰陽師の職能を行ってきたのが藤村家だとか。 こちらが現在の舞村こと岸和田市舞町 つまり、安倍晴明が伝承の中でその異能の力を脚色されていく過程で、このような信太森近辺の陰陽師や舞大夫が要素として取り込まれ、葛之葉姫の伝承として形成されていったのではないか、との話を聞きます。 <<関連エントリー>> 安倍晴明-京都府京都市・晴明神社- 安倍晴明-安倍晴明神社- 信太森神社 場所:大阪府和泉市葛の葉町1丁目11番47号 公式HP
[5回]
この兵主神社は延喜式に載っているものだけでも19社(この岸和田の社を含む)ありますが、実は主祭神は社によって異なっていたりします。 兵主神社で最も有名なところは穴師坐兵主神社でしょうか。そちらでは兵主神が祭神となっています。 しかし、記紀にはそのような名前の神は登場しません。 兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説があります。 また一説には中国の蚩尤を指すのだという説もあります。
さてこの岸和田の兵主神社ですが、現在の祭神は天照皇大神、八幡大神、菅原道真公とされています。 ただし、明治十二年の「大阪府神社明細帳」では、主神が八千鋒大神・日本武尊で、菅原道真・品陀別命が付記されおり、また、昭和二十七年の明細帳には、主神が八千鋒大神、相殿に日本武尊・天照大神・品陀別命・菅原道真となっているようです。 現在と、そして過去の記録に統一しているのは菅原道真公だけということに…
さて、菅原道真公ですがその祖先は土師一族であり、相撲の祖とされる野見宿禰に行きつきます。 土師氏は技術に長じ、古墳群、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族で、渡来系と見る説も強い一族です。
渡来系(と見られる)一族と外国の神である蚩尤…と繋げてみることもできますが…
さて、前置きはともかく現地に。 兵主神社入り口 由緒書きですが…携帯を新機種に変えたばかりで、レンズの位置に慣れていなくて黒猫の指が写りこんでしまい少し見苦しい写真になってしまいました;; 鳥居と本殿 本殿右側には境内摂社が幾つかあります。 そして、久米田池の乙御前が時々やってくるという蛇淵。 神社縁起には以下のように書かれています。 蛇渕 本殿の後方横側、末社弁財天、稲荷社、龍神社牛神社の前にあり、蛇渕と称せられます。この蛇渕はかっての雨乞祈願の場であり、別当久米田寺多聞院を招き、龍人豊玉姫を勧請し、読経修行するを例としたとのことであります。また、この渕には太蛇棲み久米田池へ通ったと伝えられ、今も蛇岸と呼ばれる畦畔や加守領に蛇渕掛りという田地 現在は一団の住宅地 がありました。 ここでいう大蛇がいわゆる久米田池の乙御前のことです。 久米田池の乙御前の伝承については岸和田市のHPで紹介されています。 岸和田のむかし話7 牛滝川周辺の話・(2)乙御前は嘆く(田治米) 久米田池の築造と兵主神社の間には、何らかの関連があると匂わせる民話ですが、これについての黒猫の考えているところは、 乙御前-久米田池- のエントリーを読んで見て下さい。 やはり、黒猫は渡来系の職能集団が兵主神社・兵主神を祀ってきたのではないかと思う次第です。 <<関連エントリー>> 乙御前-久米田池- 兵主神社 場所:大阪府岸和田市西之内町1番1号
[6回]
久米田池は、 広さ45.6ha、 周囲2.6kmと大阪府最大の満水面積のため池です。 大阪府南部はこの久米田池を始め、 光明池(貯水量に関しては大阪府最大)、 狭山池(日本最古のダム式ため池)、 その他無数の様々な池が点在しています。 久米田池は奈良時代に築造されたとされ、 かの行基によって行われたとされています。 現在でも、 池端に建つ久米田寺は行基が天平6年に開創したと記録に残ります。 さて、 この久米田池築造にあたって乙御前の話が有名です。 民話ですので、 話者によって細部は細々と違いますが、 あらすじは、 久米田池の築造に当たり功績のあった乙御前に、 行基が何か褒美を取らそうと欲しいものを訪ねると、 「久米田池にずっといたい」と言い、 蛇身となって久米田池に入っていった。 以降、 乙御前は久米田池の主となった。 と、 言うものです。 この話は岸和田市のホームページにも掲載されています。 岸和田のむかし話7 牛滝川周辺の話・(2)乙御前は嘆く(田治米) こちらはもう少し海の方に行った所にある兵主神社の蛇淵と絡めてのお話となっています。 こちらが現在の久米田池。 周囲は整備されており、サイクリングやランニングにはよさそうです。 このように歩道も整備されています。 桶口も再現されてありました。 さて、 久米田池には様々な伝承がありますが、 もう一つ岸和田市のホームページから紹介させていただこうと思います。 岸和田のむかし話7 牛滝川周辺の話・(8)火消し地蔵(池尻) 簡単に纏めると、 久米田池の近辺に元から住んでいた物の怪が、 火の玉となって久米田寺にやって来たが、 行基に追い返された、 という話です。 こちらが現在の火消し地蔵 行基が久米田池の畔に立てたという、久米田寺 と、 これだけならどこにでもあるような2つの民話ですが、 松谷みよ子著の「民話の世界」を読んでいた時に気にかかる箇所を見つけました。 (前略) その頃私は「日本の伝説」を数巻まとめるために、 折をみては各地を訪ねていた。 ある日、 和泉(大阪府)にいる若い友人に案内され、 和泉の葛の葉伝説のあたりや、 奈良を歩いた折のできごとだった。 とある池のほとりで車をとめて、 「この池にも伝説があるのですよ」という。 では近くのお方にお話を聞きましょうということになり、 私たちは車を降り、 やがて話してくれる人もみつけた。 このあたりは溜池が多い。 飛行機から見ると鏡の破片をちりばめたように、 まるいのやら三角のやら大きいのやら小さいのやらが光っている。 この溜池もその一つで行基さんがつくったというのだから、 ずいぶん古い池なのだった。 戦争前まではこの池のまわりはずうっと桃林で、 春になると桃の花が池に映ってとてもきれいだったという。 池のまわりは三キロ、(中略) この池は行基さんが掘ったという。 そのとき、 土の人形を使って掘ったそうな。 それが一つのいい伝えで、 つぎは池を掘るとき、 工事中、 まわりの村々から娘たちがでて、 お茶汲みの競争をしたという。 工事が終わったとき、 競争に勝った村の娘に行基さんが褒美には何が欲しいかと聞いた。 するとその娘は「この池が欲しい」といった。 欲しいといわれてもそれは困る、 やるわけにはいかん、 というと娘はざんぶとばかり池にとびこんで大蛇になってしまった。 これが二つ目のいい伝えである。 すると負けた村の娘たちは口惜しがって火の玉となり、 それ、 今あなたが立っているこの土手をごろごろころげながら行基さんのいる寺へ、 寺を焼こうと、 ころがっていったという。 これが三つ目のいい伝えだった。 この話をしてくれた人は、 さてこの話がわかりますかと私を見た。 私が首をかしげているとその人は続けた。 まずですよ、 お茶汲み競争をして、 勝った村の娘が、 この池を欲しいといって池にとびこんで大蛇になったでしょう。 それは池の主になったということなんです。 つまり水利権を取ったということなんですよ。 だからこそ、 負けた村の娘たちは怒って火の玉になり、 ほれ、 あそこに、 池のほとりに寺があるでしょう。 あの寺に行基さんがおったというのですが、 つまり焼討ちをかけて抗議したんですわ。 この話はそういうことなんです。 そこで私は、 ははあ、 それでは土の人形をつかって掘ったというのは、 つまりその、 人手不足だったんですかと愚かな質問をした。 するとその人は声をひそめていったのである。 いや、 いまも土の人形の子孫がひとかたまり、 住んでいます、 と。 私は呆然として、 その人が目で指すあたりを眺め、 もう一度その人をみつめ、 そして、 雷に打たれたようにその言葉の意味を悟った。(後略) 著者はこの池が、 何と言う名前の池かについては触れてはいません。 また、 久米田池にまつわる民話で人形を労役にあてたという話は他に見つけることは出来ませんでした。 しかし、 これを読んで改めて、 岸和田の民話のページを見ると、 乙御前が恋仲になったのは兵主の社から差し出された年若い労役夫の一人である事に気づかされます。 また久米田池と兵主神社の蛇淵は底が繋がっており、 乙御前が歳時を選んで忍び来るという伝承が残るほど、 関係の深さを感じさせます。 兵主となれば河童…この岸和田の兵主神社の祭神には菅原道真の名も見えます。 少し補足させていただきますと、 北九州で河童の神は、 「兵主神」とされている地域があります。 また河童は相撲好きということですが、 「野見宿禰」と「当麻蹴速」が戦った相撲発祥の地とされる穴師坐兵主神社の祭神も「兵主神」です。 「兵主神」は、 渡来民族といわれ製鉄、 水利土木工事の技術に優れた「秦」氏が伝えたとされ、 西日本各地に兵主神社の名で社が建てられています。 「兵主神」は大陸で言うところの「蚩尤」であるといい、 相撲好きの半人半獣の怪物であると伝えられています。 またシュウとは鋳物師という中国語で、 蚩尤は、 漢民族ではなく古代南方中国居住の民族(苗族など)の鋳物神であったとのこと。 さて、 野見宿禰の一族は時代が下り「土師」一族となっていくのですが、 後に一族から「菅原道真」が誕生します。 少し話が変わりますが春日神社の建築時には、 当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、 神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、 人形が河童に化けて人々に害をなし、 工匠の奉行・兵部大輔島田丸がそれを鎮めたので、 それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいいます。 他にも河童に類似する妖怪「ひょうすべ」の由来はあるのですが、 「ひょうすべ」と「菅原道真」の間にはいくつか土地に約定が伝えられています。 「ひょうすべよ 約束せしを忘れるなよ 川立男氏も菅原」 水神としての「ひょうすべ」を避ける、 水難よけの呪い歌です。 これはあくまでも一例で、 細部が異なるものがあちこちに伝えられています。 このように、 「河童」「ひょうすべ」と「兵主神」、 「土師」時代を下っての「菅原」には関係が深いのではないか、 という事が意見としてさかんに挙げられています。 そう、 河童には人形起源説なんてのもあったな… とまあ、 このような話も思い浮かべつつ。 久米田池には取石池と絡む伝承もあるのですが、 今回はこのような所で。 民話・伝承は面白いけど、 怖いものですね。 <<関連エントリー>> 巳-合掌池(取石池)- 乙御前-兵主神社- 久米田池 場所:大阪府岸和田市池尻町・岡山町
[3回]
話の中身は以下のようなものです。 ある旅の男が、取石池の畔を通りかかったところ、翁に久米田池に住む娘に手紙を頼まれます。 手紙の中身が読めず不審に思った男は、久米田池の畔の寺の僧に相談したところ、手紙には 「この男は旨そうだから取って食べるように」 と書かれていたとか。 慌てた男がどうすればよいか僧に訊ねたところ、僧は手紙の中身を、 「この男に恩を受けたのでもてなすように」 と書き換えてしまいました。 男はその書き換えられた手紙を持って久米田池を訪れたところ、はたして池の中から娘が現れました。 男は手紙を娘に見せると、娘は男を池の中の宮殿へ招きいれ大層もてなし、土産に汲めども汲めども酢の湧いてくる壺を男に渡します。 ただし、壺の中身は決して見ないように、という一言を付け加えて。 男は戻った後、壺から出てくる酢を売り、大金持ちになりましたが、ある時どうしても壺の中身を見てみたいという欲求に駆られ、ついに中身を覗きこんでしまいます。 なんと壺の中には、蛇がとぐろをまいており、その蛇が壺を吐き出していたのでした。 仰天した男は、壺を落として割ってしまい、蛇はどこかへ逃げていってしまいました。 男はその壺の残骸を近くの古池に捨てました。 以降その古池は酢壺池と呼ばれるようになりました。 民話ですので話者によって細部が異なりますが、黒猫の覚えている限りは上記のようなものであったと思います。 紹介した話では「久米田寺の僧」としていますが、相談した僧は行基だったという話も読んだ気もしますし、ただの旅の僧と書いてあるのも読んだ気がします。 また、貰った物も「酢の出てくる壺」と言うのが多いかと思いますが、「財宝」という話も読んだ気もします…(うろ覚え) この話は岸和田市のHPに岸和田のむかし話7 牛滝川周辺の話・(3)酢壷池(岡山)として掲載されています。 最初の所こそ違えど、「浦島太郎」や「鶴の恩返し」のストーリーラインに相通じるものも感じますね。 さて、この物語の切欠となった取石池ですが、昭和16年に食糧増産の為に埋め立てられ、水田となって姿を消してしまいます。 しかし、道を一本挟んだ取石7丁目に合掌池という名の池が残っていましたので、そちらに足を運んできました。 訪問したのは、震災前の平成23年3月上旬でした。 池の水面は、蓮か何かの枯れた葉でほぼくまなく覆われていました。 とは言え、その下には水がたっぷりと湛えられており、看板があるように水面近くで遊ぶのは非常に危険であるように思われます。 直ぐ近くには岸和田市のゴミ焼却施設がありました。 こちらが道を挟んで直ぐ南側に広がる田畑。 かつて取石池はこの場所にあったのですね。 さて、この民話。 久米田池に住む娘の蛇と絡めてのお話となっています。 久米田池の主といえば乙御前。久米田池築造にあたって行基に功績を認められた娘が、褒美として久米田池にずっといたい、と言って蛇身に変わって池に入っていき、以降久米田池の主として知られています。 久米田池の乙御前の話は、築造後の水利権をめぐる話が民話として残っているのではないか、と考えられる節があります。 日本の泉南でも天明二年(1782年)に飢饉に端を発する一揆も起こっていたり、水は農民にとって死活問題です。 この話では、泉南最大の溜池である久米田池が出てきており、其処に何らかの繋がりがあるのだと思います。 その説に立って考えてみれば、久米田池の水を分けてもらえないか、と頼みにいった男が久米田寺(久米田池の管理寺)の取り成しによって分けてもらうことが出来た、とも読み替えることも出来るとおもうのですが、現在の所黒猫の想像の域を出ません。 或いは今後文献などを読みすすめていると、ヒントとなる事を見つけることがあるやもしれませんね。 <<関連エントリー>> 乙御前-久米田池- 合掌池 場所:大阪府高石市取石七丁目14
[9回]
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