大阪と奈良の県境に生駒山が横たわっていますが、古くからこの山を横断するのに使用されていた道の一つに暗(くらがり)峠を抜けていく道(暗越奈良街道)があります。
元禄七年(1694年)に松尾芭蕉が奈良から大阪へ行く際にこの峠を通りがかり、
「菊の香に くらがり登る 節句哉」
と詠んだことでも知られています。
また芭蕉が通る2年前、元禄五年(1692年)に刊行された井原西鶴の「世間胸算用」にはこの峠の近くで追い剥ぎが出る、という事が記されています。
他にも、黒猫もよく資料として引用させていただく「河内名所図会」にも記述が見られます。
さて、その暗峠に天狗が出るという話が残されています。
[3回]
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とは言っても、この話は民話ではなく江戸時代に出版された怪談としてなのですが。
出典は書物としての百物語の祖として知られる、延宝五年(1677年)に刊行された「諸国百物語」に収録されている「河内の国闇峠道珍天狗に鼻はぢかるる事」。
概要は、以下のような話となっています。
むかし、河内ノ国くらがり峠という山奥の道を行ったところの寺に、道珍という怖いもの知らずの人が住んでいました。
ある日、とある村に行った帰り、道に横たわっていた死体を踏みつけて通ろうとしたところ、死体が道珍の衣の裾を咥えて引き止めたのだそうです。
ところが怖いもの知らずの道珍は、臆することなく死体の腹を踏んづけたものだから、その拍子に口が閉じ、裾を咥えてしまったのだろうと判断します。
そこで、やはり思いなおして弔う事としましたが、人の裾を咥える等としたのだから、罰として一晩庭の木に縛り付けた上で翌朝埋めてやることにしました。
その夜中、道珍は自分の名を呼ぶ声で眼が覚めます。
どうやら死人が、何故自分を縛り付けるのか、早く縄を解け、と言っているようです。
返事をせずにいると、
「縄を解きに来ないなら、こちらから行くぞ」
と、縄を切る音がして、何者かが寺に入ってこようとします。
さすがに慌てた道珍は大脇差を取り出し、入ってきた死人に切りかかります。
死人は寺の中に入ってきますが、道珍に片腕を落とされて消えてしまいます。
斬った腕を取り上げて見れば、針のような剛毛が生えてなかなかに恐ろしいものだったそうです。
凄いものを手に入れたと思って、道珍は長持にしまい込みました。
翌朝、毎朝山麓の村に住む道珍の母は参詣してくるのですが、いつもより早くやって来ます。
出迎えた道珍は、母に昨晩の話をしたところ、母はその腕を見せてくれとせがんできます。
已む無く長持ちから死人の腕を取り出して見せたところ、
「これは我の手だ!」
と叫んで、母は目の前から姿を消してしまいます。
加えて、にわかに今まで晴れ渡っていた空が暗闇となり、大勢の笑い声が響き渡ります。
その衝撃で、さすがの道珍も気を失ってしまいました。
その後、いつも通りに参詣してきた母に道珍は見つけられますが、これ以降日本で一番の臆病者になってしまったのだとか。
これは、道珍のあまりな高慢を憎んで、天狗がなしたわざなのだということです。
リンクにある「座敷浪人の壺蔵」さんのコンテンツ「あやしい古典文学の壺」内に「くらがり峠」として現代語訳が掲載されてありますので、興味のある方は是非参照してみて下さい。
目的地である暗峠には、現在は国道308号線で向かうことが出来ます。
大阪からなら、枚岡神社の近くから、山の中へ入っていくことになります。
無論、車でも行く事が出来るのですが・・・しかし、道幅が極めて狭いうえに急勾配の道なので、大きい車で暗峠に向かうのはお勧めしません。
どのくらいお勧めできないかというと、wikipediaの「国道308号」の記述を引用します。
急坂区間
東大阪市の近鉄奈良線ガード下を越えてからは暗峠までの区間および榁木峠の西側は急坂区間となっている。
とくに暗峠の西側、東大阪市東豊浦町にある勧成院の海抜が100m、峠の海抜は450mと高低差が大きい。そのため平均斜度は20%、最大斜度は37%と、自動車通行可能な国道としては日本一の急勾配になっている。 峠側から大阪側へ進む際には転がり落ちるような感覚になる。
ただし標高が低めで舗装が良好ということもあり、子供からお年寄りまで楽しめる登山・ハイキングのスポットとして重宝されている。しかしながら、車両も少なからず通行するので事故には充分注意しなければならない。
狭隘区間
東大阪市から奈良市にかけての区間に、自動車(軽自動車を含む)同士でのすれ違いができない区間が残っている。このため、東大阪市から生駒市にかけて(近鉄奈良線ガード東側から国道168号旧道交点まで)の区間の一部に西行きの一方通行規制が敷かれている(東行きは部分的に迂回する必要がある)。また、峠の周辺など一方通行でない区間で車が出会った場合、待避可能な場所までどちらかが後退を強いられる。
片側が壁で反対側がガードレールのない崖、通行できる幅が車1台分という区間もある。
現在ではある程度改修工事が進み、軽自動車も通行困難な狭隘区間は解消している。付け替え後の新道の脇に旧道の残っている部分があるが、そこは軽自動車がようやく通行可能なほどに道幅が狭くなっている。
奈良交通奈良富雄線(近鉄奈良駅〜尼ヶ辻駅〜学園前駅)が毎時1・2本運転、尼ヶ辻駅〜県立奈良病院前間が毎時3本程度運転されており、尼ヶ辻駅付近および、宝来バス停〜東坂バス停間は狭隘な区間を路線バスが走行する。また尼ヶ辻駅にはバス誘導員が常駐し、狭隘区間を走行するバス同士や誘導員と無線連絡を行ないながら走行している。
と、なかなか過酷な国道となっており、「酷道308号」との別名を持つ由縁となっています。
ちなみに、「暗がり」の名称の起源は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、昼間も暗い山越えの道であったことに由来しているのだそうです。
また、「鞍借り」、「鞍換へ」あるいは「椋ケ嶺峠」といったものが訛って「暗がり」となったとする異説もあるほか、上方落語の枕では、「あまりに険しいので馬の鞍がひっくり返ることから、鞍返り峠と言われるようになった」と語られているとのことです。(wikipedia「暗峠」より)
幸い、黒猫の駆るマーチであれば、対向車さえなければ問題なく登っていくことが出来ました。
が、さすがに急勾配の区間では停車させるのも憚られたので、写真は撮っていません;;
チャレンジャーな方は、是非試してみて下さい^^
最も、流石に景色は良かったです。
急勾配を登って一段落した辺りから、大阪を眺望してみました。
そんなこんなで、暗峠に到着。
峠近くは石畳になっていました。
早朝だったので、ほぼ水平方向から朝の日差しが飛込んできます。
ハッキリ言って、車で走っていると陽光で眼が眩みます。
暗峠の石碑。
峠近くにはお堂と案内板もありました。
少し移動して。
(左) 奈良側から大阪の方を向くとこのような感じです。
(右) 大阪側からだと眼が眩む;;
峠を越えて奈良の方を見た所です。
さて、天狗といえば修験道の行者との関連性が指摘されますが、ここ生駒山も多分にもれず、行者の多い地域です。
役行者が修行をした地としても知られ、随所にそれに由来する場所が残されています。
ちなみに暗峠から河内の国、即ち大阪へ降りて行った最も近い寺は
慈光寺であり、ここには前鬼、後鬼が小角に従うようになった地としても知られています。
百物語で語られる話は、あくまで怪談であり民話では有りませんが、それでも当時の人々が天狗がいると信じるだけの要素がこの地にはあったのでしょう。
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鬼(前鬼・後鬼)-慈光寺-
暗峠
場所:大阪府東大阪市東豊浦町と奈良県生駒市西畑町との境
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