更新を再開しようと意気込んだところで、仕事が突然忙しくなり、加えて頭の痛いトラブルも発生しており、なかなか更新するところに手が回らなかったのですが、現在に至るもトラブルは解消していないのですが昨日娘と共に福井の有名な景勝地・東尋坊に遊びに行ってきたのでそちらに関する記事を。
[1回]
「
WEB大湊神社」に以下のようなお話が載せられています。
東尋坊
昔、平泉寺には数千人という僧侶がいた。その中にいた東尋坊という僧は、怪力を頼りに、民に対して悪事の限りをつくした。東尋坊が暴れ出すと手がつけられず、誰も彼を押さえることが出来なかった。東尋坊はまさにやりたい放題、好き勝手に悪行を重ねていたので、当然のように平泉寺の僧侶は困り果てていた。また東尋坊はとある美しい姫君に心を奪われ、恋敵である真柄覚念(まがらかくねん)という僧と激しくいがみ合った。
そんな寿永元年(1182)四月五日、平泉寺の僧たちは皆で相談し東尋坊を海辺見物に誘い出す。一同が高い岩壁から海を見下ろせるその場所へ着くと、早速岩の上に腰掛けて酒盛りが始まった。その日は天気も良く眺めの良い景色も手伝ってか、皆次第に酒がすすみその内、東尋坊も酒に酔って横になり、うとうとと眠り始めた。東尋坊のその様子をうかがうと一同は目配せをし、真柄覚念に合図を送った。この一同に加わっていた真柄覚念は、ここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落とした。平泉寺の僧侶たちのこの観光の本当の目的は、その悪事に手を焼いた東尋坊を酔わせて、高い岩壁から海に突き落とすことにあった。崖から突き落とされつつ、ようやくそのことに気付いた東尋坊であったが、もはや手遅れ。近くにいた者どもを道連れにしつつ、東尋坊はまたたくまに崖の下へと落ちて行った。
東尋坊が波間に沈むやいなや、それまで太陽の輝いていた空は、たちまち黒い雲が渦を巻きつつ起こり青い空を黒く染め、にわかに豪雨と雷が大地を打ち、大地は激しく震え、東尋坊の怨念がついには自分を殺した真柄覚念をもその絶壁の底へと吸い込んでいった。
以来、毎年東尋坊が落とされた四月五日の前後には烈しい風が吹き、海水が濁り、荒波が立ち、雷雨は西に起こり東を尋ねて平泉寺に向ったという。
この近くに住む漁師は、この日は沖に船を出すことができないだけでなく、毎年のこの祟りを恐ろしく思い、ある日、福井東光寺の長老瑞雲に申し出ました。早速、瑞雲はこの岸にのぞみ、
「好図見性到心清 迷則平泉不太平
北海漫々風浪静 東尋何敢碍舟行」
という詩を作り波に沈めました。するとそれまで例年続いていた東尋坊の祟りが、この日をさかいになくなったということです。
一説には、回国の僧がこの地にやって来て、
「しつむ身のうき名をかへよ法の道西をたつねて浮へ後の世」
という一首を水底に入れて以来、祟りが鎮まったともあります。
以上が東尋坊の名前の由来です。
との話が載せられています。
このような少し恐ろしげな昔話を名前の由来に持つ場所ですが、海食によって海岸の岩肌が削られ、高さ約25メートルの岩壁が続く奇観となっています。
この岩は輝石安山岩の柱状節理でこれほどの規模を持つものは世界に三箇所だけであり地質上極めて貴重とされ、国の天然記念物及び名勝に指定されています。
近くには土産物屋、食べ物屋が列をなし、福井県で最も有名な観光地のひとつとなっています。
日中はこのように大勢の観光客で賑わっています。
奥に見える島は「雄島」
このように断崖絶壁に波がぶつかり渦をまいています。
名称の由来となっている昔話も怖ろしいのですが、現在でも転落事故或いは自殺者もあるそうで、心霊スポットとしても有名なのだとか。
この「東尋坊」から見る夕日もまたすばらしいそうです。
生憎、この日は夜に実家を訪ねる予定を立てていたので、まだ日が高いうちに「東尋坊」を後にしなくてはなりませんでした。
さて、少し伝承を詳しく見てみるようにします。
もともとこの伝承の出典は、ソースによって「平家物語」とも「朝倉始末記」とも「大湊神社」の記録とも読めるのですが、手元で手に入る限りの資料を見回してみてもハッキリしませんでした。
ですので、「WEB 大湊神社」に載せられている昔話を基に考えてみることにします。
昔話では、東尋坊殺害が行われたのは寿永元年(1182年)四月五日の事だとされています。
そこで1182年頃この近辺ではどのような事が行われていたのかを調べてみると、時代的には源氏と平家が争っていた時期であることが分かります。
「平家物語」の記述を読むと、木曽義仲が北陸で勢力を伸ばしていた時期であり、寿永元年(1182年)9月2日に平家側は越後の城四郎長茂が義仲追討に出立したりとの記述が見えます。
また各地の寺社はこれと前後して平家から離れていっているような記述が見えますね。
その中で東尋坊が所属していたという平泉寺の立ち居地はどうだったかというと、翌寿永二年(1183年)四月の時点では木曽義仲の陣営に与していたようです。
しかし、燧ケ城の戦いにて平泉寺の長吏斎明威儀師が平家に内通、義仲を裏切り平家側につきます。
斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されていますが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進していたりしています。
つまり平泉寺の主流なところでは源氏側、しかし平家側に与するという派閥もあった様で、平泉寺内部でも意見が分かれていたのではないかと推察されます。
加えて、この時期の僧というのは僧兵もいるような時代ですので、かなり荒っぽい方々もいたようです。
平泉寺は古くからある寺ですので随所に記録が残されていますが、平泉寺の光明が住職を殺したので、罰を受けて阿波(徳島)に送られたとか、平泉寺の僧が大野の牛ヶ原荘で乱暴をはたらいた平安時代の記録も残されているようです。
今の時代の「僧」のイメージとは切り離して、僧同士でも刃傷沙汰もあったと解する方が自然かもしれません。
実際、「平家物語」では戦の最中に長吏斎明威儀師が裏切ったと記されているので、これで恨みを持ちながら死んでいった人の数はかなり多かったことでしょう。僧といっても寺に所属していたというだけで、世俗の人とあまり変わらない倫理観であった人もそれなりにいたのかもしれません。
東尋坊の事件も、現代の「僧」の持つイメージからは少し違和感を感じますが、当時であれば十分に理解できる事件だったのかもしれないな、と感じます。
そして時期がちょうど時代の移り変わりに差し掛かっていた時期でもありますし、或いは平泉寺の中でも比較的大きな衝突があった事を暗喩しているのかもしれませんね。
東尋坊
場所:福井県坂井市三国町安島
より大きな地図で 黒猫による福井県妖怪・伝承地図 を表示
Entry//