奈良県の桜井市に穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)という古い神社があります。
そしてそのすぐ脇に、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が初めて天覧相撲を行ったところとされる相撲神社があるのですが、これが河童は相撲が好きである、という特徴に大きな意味を持っている、という説があります。
[1回]
まずは現地の様子です。
穴師坐兵主神社の鳥居。
相撲神社はこのすぐ横にあるのですが、まずは穴師坐兵主神社を散策してきます。
案内板がありました。
大兵主神社 大和国 穴師坐兵主神社
御祭神 若御魂神社(右)
兵主神社(中)
大兵主神社(左)
御創建 崇神天皇
御由緒 当社は三神殿にして、古典の伝えるところによると、今より二千年前の御創建にかかり、延喜の制で名神大社に列せられ、新年、月次、相嘗・新嘗のもろもろの祭の官幣に預かり元禄五年には正一位の宣旨を賜った最高の社格をもつ大和一の古社といわれています。
御神徳 衣食住を守護し、風水を司る。
あれ?幾つか違和感を感じる案内板です。
地図では穴師坐兵主神社とされているのに、案内板には大兵主神社。(小さく穴師坐兵主神社の記述はありますが)
加えて祭神の所に○○○神社と書かれてあったり???
後で考えることにして散策を続けます。
拝殿
拝殿にも手書きの案内が貼られていました。
大兵主(だいひょうず)神社
若御魂神社(右)
兵主神社(中)
大兵主神社(左)
当社は三神殿にして、古典の伝えるところでは、今から二千年前の御創建にかかり、延喜の制で、名神大社に列せられ、祈年・月次・相嘗・新嘗のもろもろの祭の官幣に預かり元禄五年には正一位の宣旨を賜った最高の社格をもつ大和一の古社といわれています。 中央の神は、第十代崇神天皇の六十年、命を受けて皇女倭姫命が創建され、天皇の御膳の守護神として祀られ、天祖降臨の際の三体の鏡の一体を御神体として、御食津神と申し上げ、生産と平和の神、又、チエの神として崇敬を受けられました。右の神は、三種の神器を御守護された稲田姫命を御祀りし、御神体は勾玉と鈴で、芸能の神として崇敬を受けられています。左の神は、纏向山上の弓月嶽に祀られたが、後に下られて御祀り申し上げています。
御神体は剣(ホコ)で、武勇の神、従って相撲の祖神となり、スポーツ界の信仰を御受けになっています。
こちらでも大兵主神社。
神社としては大兵主神社と呼んで欲しい、という感じを受けます。
その他、境内の様子
そして一度穴師坐兵主神社の鳥居の外に出て、お隣の相撲神社へ足を向けます。
どうやら穴師坐兵主神社の摂社という位置付けのようですね。
相撲神社の鳥居と案内板
カタヤケシ由緒
今を去る上古約二千年前垂仁天皇七年七月乙亥(七日)大兵主神社神域内小字カタヤケシにおきまして野見宿彌(ノミノスクネ),当麻蹶速(タイマノケハヤ)による日本最初の勅命天覧相撲が催されました。これが世界に誇るわが国国技相撲の曙光であります。
爾来相撲が国技として国家大本の行事とされ悠々の今日にいたっています。
日本書紀に「野見宿彌は乃ち都に留りて仕へまつる」とあり当地に屋敷を賜わり古代国家草創期における大和朝廷国土開拓の推進者として貢献されました。その偉大な徳を偲びここカタヤケシを日本民族の象徴的生地として世に知られています。
恐徨謹書
鳥居を潜ると広場のようになっています。
ちょうど相撲もとれそうな^^
立て札がありました
・すもう広場を使用する学校及び職域団体は神社へ必ず届け出て下さい。
・火の使用は厳禁です。
・ごみ類はお持ち帰り下さい。
神域なのに開放しているのですね。
確かに此処で相撲のイベントなどをするのは良いことであるように思われます。
そして相撲神社の社。
相撲発祥にまつわる神社なのですが、社は小さな物でした。
案内板もありました。
国技発祥の地 天覧角力・開祖 相撲神社
国に国歌,国花があるが如く日本の国技は相撲である。相撲はもとは神の信仰から出て,国土安穏,護国豊穣を祈る平和と繁栄の祭典であり,第十一代垂仁帝の七年,野見宿彌と大麻蹶速が初めて天皇の前で相撲をとり相撲節(七月七日)となりそれがもとで後世,宮中の行事となった。
昭和三十七年十月六日,大兵主神社に日本相撲協会時津風理事長(元横綱双葉山)を祭主にニ横綱(大鵬,柏戸)五大関(琴ヶ浜,北葉山,栃ノ海,佐田ノ山,栃光)をはじめ,幕内全力士が参列。相撲発祥の地で顕彰大祭がおこなわれ,この境内のカタヤケシゆかりの土俵に於いて手数入りが奉納された。
やはり域内の広場に土俵が設けられたりするのですね。
それにしても相撲発祥の地とはいえ幕内全力士が参列なんて勇壮ですね。
さて、帰宅後調べてみたところによれば、かつては上下二社にわかれており、上社は弓月ケ獄という所に穴師坐兵主神社があり、現在穴師坐兵主神社のあるこの地に下社として穴師大兵主神社があったのですが、応仁の乱で弓月ケ獄にあったとされる上社 穴師坐兵主神社社殿が焼失したため、穴師山の西麓の現在地にあった穴師大兵主神社へ合祀された。また纒向坐若御魂(まきむくにいますわかみたま)神社も現在は由緒も鎮座地も忘れ去れていますが、同じように穴師大兵主神社へ合祀されたようです。
ちなみに弓月ケ獄というのは現在のどの山に当たるのか不明との事で、竜王山、穴師山、巻向山の三つの説があるのだとか。
これでは確かに穴師坐兵主神社と呼ぶべきか、穴師大兵主神社と呼ぶべきか悩むところですね。
さて、河童と相撲、そしてこの穴師坐兵主神社についてですが、折口信夫の「河童の話」の中で、九州などでよく語られる河童に良く似た妖怪である
ひょうすべについてこのように触れられています。
ひようすべは、九州南部にまだ行はれてゐる。此も形は、甚、漠としてゐる。河童の様でもあり、鳥の様でもある。此も、水主神と同じく、其信仰を、宣伝々播した時代があつたのである。私の観察するところでは、奈良の都よりも古く、穴師神人が、幾群ともなく流離宣教した。その大和穴師兵主神の末である。播州・江州に大きな足だまりを持つて居た。北は奥州から、西は九国の果てまで、殆、日本全国に亘つたらしい布教の痕は、後世ひどく退転して、わけもわからぬ物になつて了うたのである。
折角ですので折口信夫の「河童の話」は、ネットでも青空文庫で全文を読むことが出来ますので、これを機に一読される事をお勧めしておきます。
青空文庫:折口信夫「河童の話」
ここで語られる大和穴師兵主神とはまさにこの神社で祀られている神の事で、この穴師坐兵主神社は
ひょうすべという妖怪の流布と大きく関係しているようです。
そして訳のわからないものであったひょうすべは今日河童と混同されているようですが、その原因として河童・水難避けのまじない言葉があるように見受けられます。
ひょうすべよ約束せしを忘るるな川だち男氏は菅原
ひょうすへに川たちせしをわすれなよ川たち男我も菅原
ひょうすべよ約束せしを忘るなよ川たちおのが後は菅原
ひょうすべに約束せしを忘るなよ川立ち男我も菅原
他にも幾つかあるようで。河童除けのまじない言葉なのですが、
ひょうすべが絡んでくるのですね。
もう一つ共通点としては
菅原があげられるのですが、これも実は
ひょうすべに絡むお話もあるのですが、長くなりそうなのでまた別の機会にでも^^
ただ間違いなくいえることは、
河童と
ひょうすべの間には何らかの関係があるということだけは断言できるのでしょう。
そして
ひょうすべを流布させた穴師坐兵主神社の摂社として相撲神社があるわけです。
さて大兵主神社の御神体は剣(ほこ)で武勇の神とされています。
八千戈命、素盞嗚命、天鈿女命とする説もありますが、その一方で兵主の神は中国で祀られた蚩尤(シユウ)であるともされています。中国では兵主は蚩尤である(史記)とされているようです。
そして蚩尤(シユウ)は鉄を喰らう人面獣身の怪物で、額に角を有し、角力では誰も敵わなかったのだとか。
河童の相撲好き、というのは思わぬところから付与された特徴なのかも知れませんね。
穴師坐兵主神社
場所:奈良県桜井市穴師1065
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