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大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
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寺伝によれば天智天皇の頃(在位668年-672年)、役行者(役小角)が36歳のときに葛城山で修業中、生駒山中に2人の鬼が住んでいて、付近の村落に出没しては人畜に危害を加えていたため、役行者は不動明王に呪縛の祈誓を行ったところ、難なくこの二人の鬼を捕えることができたのだとか。
このことからその地の山を鬼取山(又は鬼取獄)と呼ぶようになったといいます。
小角はこの地で両鬼の改心の誓いとして髪を切って名を義学・義賢と名付け、以後小角に付き従う前鬼(義学)後鬼(義賢)として使役したといいます。
山号の髪切という地名の由来はここにあります。
因みに鬼を捕らえたという場所は暗峠を越えた奈良県側(旧鶴林寺跡)であると伝わっています。
また、それ以外にも役行者が義学・義賢を閉じ込めて改心させた場所(上山龍岳院 般若窟)だとか、その際に唱えた般若経を納めた寺(生駒山 宝山寺)等が現在にも残っています。
また、少し異なる伝承も伝わっています。
「役公徴業録」(宝暦8年)によると、河内の断髪山で赤眼(夫)・黄口(妻)という鬼の夫婦が、鬼一・鬼次・鬼助・鬼虎・鬼彦の5人の子供と住んでいました。
この鬼の夫婦は人間の子供を捕って食物としていたといいます。
役行者はこれを止めさせるため、鬼の最愛の子鬼彦を鉢の中へ隠します。
心配した鬼の夫婦は役行者に助けを求めたため、改悛させ呪文によって鬼の一家を人間に変え、以後前鬼・後鬼と名を変えて役行者に奉仕することとしたと伝えられます。
そしてこの地に髪切山慈光寺を建立したと記しています。
寺伝の内容とは異なりますが、父鬼地域の伝承ではこの子供達五鬼の別系(前坂系)がその地域に住んでいたと伝えられる事から、こちらはこちらで興味深い話といえるでしょう。
山門
あまりに早く来てしまった様でまだ開いていません;;
山門脇の案内板
寺の境内も見てみたいので、また出直します;;
この寺や奈良県側の伝承しかり、父鬼地域然り、生駒山麓に残る幾つかの鬼伝承には、役行者の影を良く見かけます。
竜田古道に伝わる伝承に、古代製鉄との関係を感じるものが有りますが、こと生駒山麓に関しては修験道と鬼の関係は切っても切れないものであるように考えます。
修験道の行者というと、つい天狗を思い浮かべてしまうのですが…そういえば暗峠には天狗の話も残されています。
行者という同じモノを根に持ちながら、他の要素が加わる事で、鬼と天狗という別の妖怪に分化して行ったのかも知れませんね。
<<関連エントリー>>
鬼-乳滝-
鬼(前鬼・後鬼)-奈良県生駒市・寶山寺-
慈光寺
場所:大阪府東大阪市東豊浦町1823
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おまけ:
山門が閉まっているのを見て、余りに妖怪巡りに朝早く動いても寺社は開いていないという、至極当たり前の事に漸く学習した黒猫。
それでも、ガックシと肩を落し諦めて移動しようとしたその時、黒猫の妖怪センサーに反応が。
何かというとコレ
慈光院山門から見えたこの門、何かと思い、近づいてみると…
Σ(゚Д゚)ナント!!!
「貧乏神大社」!!!
門から社と思しきものを写真に撮って見ました。
こちらも門は開かれておらず、というよりも門の内(境内と呼ぶべきか?)は手入れすらされていない様子。
やはり、綺麗にしようとされた方に貧乏神さまがご利益を授ける為、貧乏になってしまうからなのでしょうか?
帰宅後、ネットで調べてみても詳細は分からず。
郷土史の領分でもないと思われますし…何で調べたら祀られた経緯とか分かるのでしょう?
ひょっとしたら慈光寺の目と鼻の先なので、お寺の人に聞いてみるのが一番早いのかもしれません。
それにしても、日本人は何でも祀るものだなぁと改めて感心した次第です。