大阪には街道や村の名前等にもなっている父鬼と呼ばれる地域があります。
この父鬼には鬼が住んでいたのでこの名がついたと言われています。
この近辺には、この父鬼の他、その妻の鬼の住んでいた鬼住、その夫婦の九人の子鬼が住むと言う九鬼という土地もあるのですが、これにまつわる昔話、民話等を探しているのですが中々見つけることが出来ないでいます。
「父鬼 郷土の記録」等を捲っても、鬼が出没したところと言われているだとか書かれてはいましたが、具体的な昔話までは載っていませんでした。
ともあれ現地に。
まずは父鬼街道側の八坂神社に。
こちらの神社は文武天皇の頃、大宝二年(702年)九月六日に素戔鳴尊を祭神として創建されたといわれ、父鬼の名が文献上現れる久米田池築造の時期以前からある神社で、村の歴史と共にあったであろうと思われるからです。
何でも口伝によると、平家の落武者もこの地に流れ着いてきたとかの話も有るようですね。
八坂神社の案内板
何が祀られているのか書かれてはありませんでしたが、かつて雨坪に鎮座していた七大龍王を、大正二年に八坂神社境内に遷されたと郷土史にあるので、恐らくこの社がそうなのでしょう。
それにしても八大龍王はよく眼にしますが、七大龍王というのは珍しい気がします。
八坂神社 拝殿
八坂神社 本殿
それにしても急な階段でした。
八坂神社拝殿より、父鬼の集落。
そして、集落の直ぐ近くにある乳滝に。
かつては父滝と呼ばれていた様ですが、現在は「父」が「乳」に変わっています。
父鬼街道の直ぐ脇にあるのですが、現在は街道沿いにフェンスがあり、降りていくことは出来ないようになっています。
乳滝の直ぐ脇にある「乳瀧不動尊」。
もともとは滝の上の岩に祀られていたようですが、昭和40年頃の道路改良工事に際して現在の位置に遷されたようです。
チチ繋がりからか、いつの頃からか産婦達が乳がよく出るようにと祈願し、鯉を滝の淵へと放すという俗信が有ったようで、それもあり乳滝へと名前が変わったのでしょうね。
黒猫は、鬼の伝承に関しては古代製鉄に関連する説に魅力を感じていますが、九鬼村の郷土史をめくってみた所、鉱山があったという説もあるようですが、証拠となるようなものも提示されておらず、真偽の程は測りかねます。
郷土史では、地名に関して以下の説が紹介されていました。
①鬼という地名のあるところに金銀等の出るところや、財宝の隠し場所という共通点があり侵略や支配をきらった。[河内の鬼住(現在の神ヶ丘)の延命寺近くに横穴があって、父鬼へ通う穴との伝説がある]神話の神武天皇は東征の折、土豪長随彦の抵抗をうけたが、こうした部族の仲間であったものかも知れないし、九鬼や鬼住など住む部族の長が父鬼に住んでいて、鬼と恐れられたのだろうし、また、鬼道を能くする首長として権威をふるっていたのかもしれない。
②行者(山伏)の仙人説
行者に仕える前鬼の一族が父鬼に移り住んだ。
役行者御伝記によると役小角の像には前鬼(斧をもつ鬼)と後鬼(水瓶をもつ鬼)の二人が仕えている。紀州粉河中津川上流葛城山麓に五鬼の別系(前坂系)の一族があった。前鬼(清原、中井、西野、亀岡、中川)の一族を五家といって代々山の先導師をつとめた。五家は葛城神と同系同姓の末孫で、父は「父魅(やまちち)」といい、この一族(山師たち)が父鬼の山谷に定着しはじめ、檜原越、七越、三国嶽(みやま)に繁茂する木材で生活をたてるようになった。またこの附近には行者にまつわる仙人の岩屋、雨坪(葛城七越大竜王をまつる)、行者の腰掛岩等の地名が残っている。
③平家の落人説
これは時代がずっと降るが、民俗として残っていた正月八日の「おこない」で、弓はなしといって鬼退治をする行事があった。これは中国から伝わったもので追儺(ついな)といわれ、桃の弓、蓬の矢で鬼を追う儀式で京都(宮中)でさかんに行われていた。桃は不老長寿、厄(疫病)払いとされ、父鬼では寺の南の乳滝の近くに的場をつくって弓はなしを行った。よく古老たちは、父鬼の方言が京言葉と似ているといわれるが、こうした民俗行事も、京都そのままの形で伝えられたのかも知れない。弓はなしについては近くの村でも行われていたが、父鬼がとくに桃と結びついているところに興味を覚える。
しかし、行基が久米田池を築造(神亀二年(725年)から天平十年(738年))するのにあたり、父鬼より道井孫左衛門外四名が手伝いに出かけてきたという記録が岸和田市池尻の旧家に残っているようで、既にその時代には父鬼の名称があったことがうかがわれます。ですので、鬼伝承の発端としては③説は除外。
①の説には根拠となるものが乏しく、鬼伝承の伝わる他の地域との関連性からの類推に過ぎません。また鬼道という言葉からの論の展開も、それだと日本中に鬼があふれてしまいますし、そもそも「鬼道」という言葉自体も当時の中国が日本の信仰をもって表した表現であり、日本において果たして使われるようなものかどうか…
ただし、七越峠附近には金の延べ棒が埋まっているという口伝があり、これは一族のもの意外秘密にしている鉱山を差す伝承なのかもしれません。そのような跡でも見つかれば、グッと真実味を増すのですけれどね。
よって現在の所、黒猫としては②の説が面白いな、と思う次第です。
ただし、この父鬼は乳滝に住んだという話もあり、②の説が元となって③にあるような落武者等が補強していった側面はあるのかもしれません。
また父鬼の産業を見てみれば、柿栽培がありますが、今の富有柿(甘柿)が出るまでは渋柿を栽培していた様子です。渋柿は食用としても使用されますが、軍需用として渋柿紙が塩硝の煮直し用としても使用されました。
父鬼は山を越えれば直ぐ紀州 和歌山です。
鉄砲で有名な雑賀衆等との繋がりも伝説を補強する要因となったのかもしれませんね。
<<関連エントリー>>
鬼-九鬼-
鬼-延命寺-
八坂神社
場所:大阪府和泉市父鬼町280
[36回]
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この父鬼には鬼が住んでいたのでこの名がついたと言われています。
この近辺には、この父鬼の他、その妻の鬼の住んでいた鬼住、その夫婦の九人の子鬼が住むと言う九鬼という土地もあるのですが、これにまつわる昔話、民話等を探しているのですが中々見つけることが出来ないでいます。
「父鬼 郷土の記録」等を捲っても、鬼が出没したところと言われているだとか書かれてはいましたが、具体的な昔話までは載っていませんでした。
ともあれ現地に。
まずは父鬼街道側の八坂神社に。
こちらの神社は文武天皇の頃、大宝二年(702年)九月六日に素戔鳴尊を祭神として創建されたといわれ、父鬼の名が文献上現れる久米田池築造の時期以前からある神社で、村の歴史と共にあったであろうと思われるからです。
何でも口伝によると、平家の落武者もこの地に流れ着いてきたとかの話も有るようですね。
八坂神社の案内板
何が祀られているのか書かれてはありませんでしたが、かつて雨坪に鎮座していた七大龍王を、大正二年に八坂神社境内に遷されたと郷土史にあるので、恐らくこの社がそうなのでしょう。
それにしても八大龍王はよく眼にしますが、七大龍王というのは珍しい気がします。
八坂神社 拝殿
八坂神社 本殿
それにしても急な階段でした。
八坂神社拝殿より、父鬼の集落。
そして、集落の直ぐ近くにある乳滝に。
かつては父滝と呼ばれていた様ですが、現在は「父」が「乳」に変わっています。
父鬼街道の直ぐ脇にあるのですが、現在は街道沿いにフェンスがあり、降りていくことは出来ないようになっています。
乳滝の直ぐ脇にある「乳瀧不動尊」。
もともとは滝の上の岩に祀られていたようですが、昭和40年頃の道路改良工事に際して現在の位置に遷されたようです。
チチ繋がりからか、いつの頃からか産婦達が乳がよく出るようにと祈願し、鯉を滝の淵へと放すという俗信が有ったようで、それもあり乳滝へと名前が変わったのでしょうね。
黒猫は、鬼の伝承に関しては古代製鉄に関連する説に魅力を感じていますが、九鬼村の郷土史をめくってみた所、鉱山があったという説もあるようですが、証拠となるようなものも提示されておらず、真偽の程は測りかねます。
郷土史では、地名に関して以下の説が紹介されていました。
①鬼という地名のあるところに金銀等の出るところや、財宝の隠し場所という共通点があり侵略や支配をきらった。[河内の鬼住(現在の神ヶ丘)の延命寺近くに横穴があって、父鬼へ通う穴との伝説がある]神話の神武天皇は東征の折、土豪長随彦の抵抗をうけたが、こうした部族の仲間であったものかも知れないし、九鬼や鬼住など住む部族の長が父鬼に住んでいて、鬼と恐れられたのだろうし、また、鬼道を能くする首長として権威をふるっていたのかもしれない。
②行者(山伏)の仙人説
行者に仕える前鬼の一族が父鬼に移り住んだ。
役行者御伝記によると役小角の像には前鬼(斧をもつ鬼)と後鬼(水瓶をもつ鬼)の二人が仕えている。紀州粉河中津川上流葛城山麓に五鬼の別系(前坂系)の一族があった。前鬼(清原、中井、西野、亀岡、中川)の一族を五家といって代々山の先導師をつとめた。五家は葛城神と同系同姓の末孫で、父は「父魅(やまちち)」といい、この一族(山師たち)が父鬼の山谷に定着しはじめ、檜原越、七越、三国嶽(みやま)に繁茂する木材で生活をたてるようになった。またこの附近には行者にまつわる仙人の岩屋、雨坪(葛城七越大竜王をまつる)、行者の腰掛岩等の地名が残っている。
③平家の落人説
これは時代がずっと降るが、民俗として残っていた正月八日の「おこない」で、弓はなしといって鬼退治をする行事があった。これは中国から伝わったもので追儺(ついな)といわれ、桃の弓、蓬の矢で鬼を追う儀式で京都(宮中)でさかんに行われていた。桃は不老長寿、厄(疫病)払いとされ、父鬼では寺の南の乳滝の近くに的場をつくって弓はなしを行った。よく古老たちは、父鬼の方言が京言葉と似ているといわれるが、こうした民俗行事も、京都そのままの形で伝えられたのかも知れない。弓はなしについては近くの村でも行われていたが、父鬼がとくに桃と結びついているところに興味を覚える。
しかし、行基が久米田池を築造(神亀二年(725年)から天平十年(738年))するのにあたり、父鬼より道井孫左衛門外四名が手伝いに出かけてきたという記録が岸和田市池尻の旧家に残っているようで、既にその時代には父鬼の名称があったことがうかがわれます。ですので、鬼伝承の発端としては③説は除外。
①の説には根拠となるものが乏しく、鬼伝承の伝わる他の地域との関連性からの類推に過ぎません。また鬼道という言葉からの論の展開も、それだと日本中に鬼があふれてしまいますし、そもそも「鬼道」という言葉自体も当時の中国が日本の信仰をもって表した表現であり、日本において果たして使われるようなものかどうか…
ただし、七越峠附近には金の延べ棒が埋まっているという口伝があり、これは一族のもの意外秘密にしている鉱山を差す伝承なのかもしれません。そのような跡でも見つかれば、グッと真実味を増すのですけれどね。
よって現在の所、黒猫としては②の説が面白いな、と思う次第です。
ただし、この父鬼は乳滝に住んだという話もあり、②の説が元となって③にあるような落武者等が補強していった側面はあるのかもしれません。
また父鬼の産業を見てみれば、柿栽培がありますが、今の富有柿(甘柿)が出るまでは渋柿を栽培していた様子です。渋柿は食用としても使用されますが、軍需用として渋柿紙が塩硝の煮直し用としても使用されました。
父鬼は山を越えれば直ぐ紀州 和歌山です。
鉄砲で有名な雑賀衆等との繋がりも伝説を補強する要因となったのかもしれませんね。
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鬼-九鬼-
鬼-延命寺-
八坂神社
場所:大阪府和泉市父鬼町280
[36回]
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