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大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
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龍-狭山池-にも載せましたが、こちらにちなむ「大阪伝承地誌集成」の再掲です。
近くに住んでいた綿屋が商用で狭山に行ったとき、狭山池のほとりに美しい娘が悲しそうな顔をして立っていた。
声をかけると、「実はこの池の中に恐ろしいものが落ちているので、取り除いてほしいのですが、どなたさまも引き受けてくれません。」と訴える。
綿屋は、
「そりゃ気の毒に、こんなに深い池ではどなえもなりへん。」と言うと、
「いいえ、水は私がなんとかします。」と着物を着たまま池に飛び込んだ。
みるみる池の水は干上がってしまった。見ると池の底にピカピカ光った鍬が一本落ちていた。
こんなもんかいな、と拾いあげて捨てると、娘は再び現れ、「御礼に何でも差し上げます。」と頭を下げる。
「なんにもほしゅうはないが、村では干魃が続いて綿や稲が枯れてしまいことがある。そんな時に雨が降る方法があったら教えてほしい。」と頼みました。
「おやすいごようです。」と娘はにっこり笑って、胸の中から鱗を三枚出してきて、
「これを村の鎮守様に納めて、お困りの時にお祈りして下さい。」
綿屋は村に戻ってから、若宮八幡に奉納、以来、祈雨の霊験あらたかで、村は繁栄した。
-大阪伝承地誌集成 娘の鱗より-
さてこの旭神社(若宮八幡宮)ですが、もともとは現在の加美小学校近辺にあったようです。
現在の社地は応神天皇を祭神とする若宮八幡宮でしたが,元禄十二年(1699年)に別の場所にあった旭神社をここに遷したようです。
「旭神社誌」によると旭神社は天平五年(733年)頃、若宮八幡宮は天平勝宝六年(754年)頃の創建になるのだとか。
正覚寺合戦のさい畠山政長がここに布陣して敗れ、当社は焼失しり、織田信長が石山本願寺攻めにあたり、ここに本陣を設けたという話もあり、なかなか現在では小さな神社ですが歴史ある神社です。
まずは拝殿を。
この神社は若宮八幡宮と旭神社が並べて立てられており、割り拝殿(真中が通り抜けられる)で、双方を鴬張りの廊下でつないである珍しい造りになっています。
旭神社が遷されてきて以来この造りになったのだとか。
右側が若宮八幡宮。左が旭神社です。
旭神社の拝殿と、拝殿から覗き見た本殿。
若宮八幡宮の拝殿と、拝殿から覗き見た本殿。
狛犬。これも風格ありますね。
手水舎
旭神社誌
ご神木かな?
「正覚寺城跡」の碑も見えます。
ご神木の所におかれていた石像…何でしょう?玄武?
他、境内の様子。
今回の探訪の中で、伝承を読み解く鍵がこちらかなと。
橘樋(たちばなのひ・正覚寺樋) 笠石
神託により平野川(現加美西二丁目付近)に設けられていた。橘樋の笠石である。お告げ(天平時代)により流した「橘」が流れ着いた事により、橘嶋と呼ばれていた。
古来、周辺は平野川が頼りであり、乏しい水を廻って水争いが絶えず、明応六年(1496)には、この樋をめぐり河内守護遊佐氏と誉田氏とが合戦にまで及んだと言う。当社及び正覚寺村の創始と発展は、この樋によるところが大きかった。
正月十一日、古式に則り、樋祭りが斎行され、東方から来た人にのみ神酒がづるまわれる。
やはり、伝承の元は水に絡む事かなぁ…
伝承に残る三枚の鱗は残されているのでしょうか…
<<関連エントリー>>
龍-狭山池-
旭神社(若宮八幡宮)
場所:大阪府大阪市平野区加美正覚寺1-17-30
公式HP