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大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
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久米田池は、 広さ45.6ha、 周囲2.6kmと大阪府最大の満水面積のため池です。
大阪府南部はこの久米田池を始め、 光明池(貯水量に関しては大阪府最大)、 狭山池(日本最古のダム式ため池)、 その他無数の様々な池が点在しています。
久米田池は奈良時代に築造されたとされ、 かの行基によって行われたとされています。
現在でも、 池端に建つ久米田寺は行基が天平6年に開創したと記録に残ります。
さて、 この久米田池築造にあたって乙御前の話が有名です。
民話ですので、 話者によって細部は細々と違いますが、 あらすじは、
久米田池の築造に当たり功績のあった乙御前に、 行基が何か褒美を取らそうと欲しいものを訪ねると、 「久米田池にずっといたい」と言い、 蛇身となって久米田池に入っていった。
以降、 乙御前は久米田池の主となった。
と、 言うものです。
この話は岸和田市のホームページにも掲載されています。
岸和田のむかし話7 牛滝川周辺の話・(2)乙御前は嘆く(田治米)
こちらはもう少し海の方に行った所にある兵主神社の蛇淵と絡めてのお話となっています。
こちらが現在の久米田池。
周囲は整備されており、サイクリングやランニングにはよさそうです。
このように歩道も整備されています。
桶口も再現されてありました。
さて、 久米田池には様々な伝承がありますが、 もう一つ岸和田市のホームページから紹介させていただこうと思います。
岸和田のむかし話7 牛滝川周辺の話・(8)火消し地蔵(池尻)
簡単に纏めると、 久米田池の近辺に元から住んでいた物の怪が、 火の玉となって久米田寺にやって来たが、 行基に追い返された、 という話です。
こちらが現在の火消し地蔵
行基が久米田池の畔に立てたという、久米田寺
と、 これだけならどこにでもあるような2つの民話ですが、 松谷みよ子著の「民話の世界」を読んでいた時に気にかかる箇所を見つけました。
(前略)
その頃私は「日本の伝説」を数巻まとめるために、 折をみては各地を訪ねていた。 ある日、 和泉(大阪府)にいる若い友人に案内され、 和泉の葛の葉伝説のあたりや、 奈良を歩いた折のできごとだった。 とある池のほとりで車をとめて、 「この池にも伝説があるのですよ」という。 では近くのお方にお話を聞きましょうということになり、 私たちは車を降り、 やがて話してくれる人もみつけた。
このあたりは溜池が多い。 飛行機から見ると鏡の破片をちりばめたように、 まるいのやら三角のやら大きいのやら小さいのやらが光っている。 この溜池もその一つで行基さんがつくったというのだから、 ずいぶん古い池なのだった。
戦争前まではこの池のまわりはずうっと桃林で、 春になると桃の花が池に映ってとてもきれいだったという。 池のまわりは三キロ、(中略)
この池は行基さんが掘ったという。 そのとき、 土の人形を使って掘ったそうな。 それが一つのいい伝えで、 つぎは池を掘るとき、 工事中、 まわりの村々から娘たちがでて、 お茶汲みの競争をしたという。 工事が終わったとき、 競争に勝った村の娘に行基さんが褒美には何が欲しいかと聞いた。 するとその娘は「この池が欲しい」といった。 欲しいといわれてもそれは困る、 やるわけにはいかん、 というと娘はざんぶとばかり池にとびこんで大蛇になってしまった。 これが二つ目のいい伝えである。 すると負けた村の娘たちは口惜しがって火の玉となり、 それ、 今あなたが立っているこの土手をごろごろころげながら行基さんのいる寺へ、 寺を焼こうと、 ころがっていったという。 これが三つ目のいい伝えだった。
この話をしてくれた人は、 さてこの話がわかりますかと私を見た。 私が首をかしげているとその人は続けた。 まずですよ、 お茶汲み競争をして、 勝った村の娘が、 この池を欲しいといって池にとびこんで大蛇になったでしょう。 それは池の主になったということなんです。 つまり水利権を取ったということなんですよ。 だからこそ、 負けた村の娘たちは怒って火の玉になり、 ほれ、 あそこに、 池のほとりに寺があるでしょう。 あの寺に行基さんがおったというのですが、 つまり焼討ちをかけて抗議したんですわ。 この話はそういうことなんです。
そこで私は、 ははあ、 それでは土の人形をつかって掘ったというのは、 つまりその、 人手不足だったんですかと愚かな質問をした。 するとその人は声をひそめていったのである。 いや、 いまも土の人形の子孫がひとかたまり、 住んでいます、 と。
私は呆然として、 その人が目で指すあたりを眺め、 もう一度その人をみつめ、 そして、 雷に打たれたようにその言葉の意味を悟った。(後略)
著者はこの池が、 何と言う名前の池かについては触れてはいません。
また、 久米田池にまつわる民話で人形を労役にあてたという話は他に見つけることは出来ませんでした。
しかし、 これを読んで改めて、 岸和田の民話のページを見ると、 乙御前が恋仲になったのは兵主の社から差し出された年若い労役夫の一人である事に気づかされます。
また久米田池と兵主神社の蛇淵は底が繋がっており、 乙御前が歳時を選んで忍び来るという伝承が残るほど、 関係の深さを感じさせます。
兵主となれば河童…この岸和田の兵主神社の祭神には菅原道真の名も見えます。
少し補足させていただきますと、 北九州で河童の神は、 「兵主神」とされている地域があります。
また河童は相撲好きということですが、 「野見宿禰」と「当麻蹴速」が戦った相撲発祥の地とされる穴師坐兵主神社の祭神も「兵主神」です。
「兵主神」は、 渡来民族といわれ製鉄、 水利土木工事の技術に優れた「秦」氏が伝えたとされ、 西日本各地に兵主神社の名で社が建てられています。
「兵主神」は大陸で言うところの「蚩尤」であるといい、 相撲好きの半人半獣の怪物であると伝えられています。 またシュウとは鋳物師という中国語で、 蚩尤は、 漢民族ではなく古代南方中国居住の民族(苗族など)の鋳物神であったとのこと。
さて、 野見宿禰の一族は時代が下り「土師」一族となっていくのですが、 後に一族から「菅原道真」が誕生します。
少し話が変わりますが春日神社の建築時には、 当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、 神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、 人形が河童に化けて人々に害をなし、 工匠の奉行・兵部大輔島田丸がそれを鎮めたので、 それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいいます。
他にも河童に類似する妖怪「ひょうすべ」の由来はあるのですが、 「ひょうすべ」と「菅原道真」の間にはいくつか土地に約定が伝えられています。
「ひょうすべよ 約束せしを忘れるなよ 川立男氏も菅原」
水神としての「ひょうすべ」を避ける、 水難よけの呪い歌です。
これはあくまでも一例で、 細部が異なるものがあちこちに伝えられています。
このように、 「河童」「ひょうすべ」と「兵主神」、 「土師」時代を下っての「菅原」には関係が深いのではないか、 という事が意見としてさかんに挙げられています。
そう、 河童には人形起源説なんてのもあったな…
とまあ、 このような話も思い浮かべつつ。
久米田池には取石池と絡む伝承もあるのですが、 今回はこのような所で。
民話・伝承は面白いけど、 怖いものですね。
<<関連エントリー>>
巳-合掌池(取石池)-
乙御前-兵主神社-
久米田池
場所:大阪府岸和田市池尻町・岡山町