河内国一宮として有名な住吉大社。
実は、日本人にとって最もなじみのある昔話に縁のある神社でもあります。
まずは一寸法師から。
中ごろのことなるに、津の国難波の里に、おほぢとうばと侍り。
うば四十に及ぶまで、子のなきことを悲しみ、住吉に参り、なき子を祈り申すに、大明神あはれとおぼしめして、四十一と申すに、ただならずなりぬれば、おほぢ、喜び限りなし。
御伽草子集-一寸法師-冒頭より
と言う様に、一寸法師は住吉神社にお祈りして授かった子供として描写れています。
その後都へ向かってお椀の船にのって上京していくのですが、細井川の河口からと描写されています。
細江川は古代には「住吉の細江」と呼ばれる入り江であり、「住吉津(すみのえのつ)」があったということなので、一度海に出てから陸沿いに北上、そして淀川を遡るルートで京へ向かったのではないかと勝手に想像しています。細井川を上流までいっても、京には辿りつかないと思いますし。
さて、もう一つの浦島太郎ですが、浦島太郎の伝承は全国各地にあり、当地こそが本場だと主張しています。
その中でも万葉集のなかに浦島太郎伝説の原型と言える話があり、その舞台は大阪の住吉の岸を舞台としています。
春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得〈乎〉良布見者〈古〉之 事曽所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝T 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不為 死不為而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人〈乃〉 吾妹兒尓 告而語久 須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者来南登 言家礼婆 妹之答久 常世邊 復變来而 如今 将相跡奈良婆 此篋 開勿勤常 曽己良久尓 堅目師事乎 墨吉尓 還来而 家見跡〈宅〉毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久 従家出而 三歳之間尓〈垣〉毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯〈如〉本 家者将有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 □[1]袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴〈由〉奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見
万葉集より
読み下し:
春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣舟の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江の 浦島の子が 鰹釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海境を 過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の娘子に たまさかに い漕ぎ向ひ 相とぶらひ 言成りしかば かき結び 常世に至り 海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり ふたり入り居て 老いもせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間の 愚か人の 我妹子に 告りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告らひ 明日のごと 我れは来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この櫛笥 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年の間に 垣もなく 家失せめやと この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若くありし 肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける 水江の 浦島の子が 家ところ見ゆ
大意訳:
水の江の浦島の子が7日ほど鯛や鰹を釣り帰って来ると、海と陸の境で海神の娘と出会った。
二人は語らいて結婚し、常世にある海神の宮で暮らすこととなった。
3年ほど暮らし、父母にこの事を知らせたいと、海神の娘に言ったところ「これを開くな」と篋を渡され、水江に帰ってきた。
海神の宮で過ごした3年の間に家や里は無くなり、見る影もなくなっていた。
箱を開ければ元の家などが戻ると思い開けたところ常世との間に白い雲がわき起こり、浦島の子は白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。
[1]「口」扁にりっとう
-ウィキペディアより-
住吉となれば、かつての住吉津をさすのでしょう。
そして住吉津となれば住吉大社。
河内国一宮で神功皇后が三韓征伐より七道の浜に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族が、住吉三神を祀ったのに始まるといわれる神社です。
そこで祀られているのは住吉大神こと、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の三柱で、言わずもがなの海にまつわる神様です。
海の話、となれば住吉と思い至ったのも良く分かります。
現在、住吉津埋め立てられ住吉公園が設置されています。
住吉神社と共に行ってまいりました。
まずは駅の正面にある鳥居
由緒書きと境内の案内板です。
広いなぁ…
考えてみれば、黒猫は大社とされるものに行くのはこれが初めてで、境内の広さで既におのぼりさん状態でした。
有名な太鼓橋
この橋は飾り物ではなく、右写真のようにここを通って参拝できるようになっています。
一応階段のようになっていますが、足元は要注意です。
太鼓橋を別アングルから。
朝の比較的早い時間にやってきたので、逆光に;;
そして手水を。
恩智神社に続いて、ここでも兎に遭遇。
(左)住吉鳥居
(右)極楽門
(左) 第三本宮と第四本宮
(右) 第一本宮
黒猫が行った事のある神社とは、全然境内の作りも違いますね。
本宮が一~四まであるって;;
境内にやっぱりありました。
一寸法師の記念撮影用の覗き板。
住吉大社の御神田
神田という物の存在は知っていたのですが、初めて見ました。
さすが大社。
この他、境内に摂社、末社も数多く。
その後、かつて住吉津のあった場所にある住吉公園へ
とは言うものの、現在では公園にある池を見て往時の姿を想像することぐらいしかできません。
大阪市内は住吉津だけに限らず大半が埋め立てられており、当時のままの姿を見ることの出来る海岸線を見ることが出来なくなっています。
泉南まで行けば、海岸線が残っているところもあるのですが…
住吉大社
場所:大阪市住吉区住吉2-9-89
www.sumiyoshitaisha.net/[6回]
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まずは一寸法師から。
中ごろのことなるに、津の国難波の里に、おほぢとうばと侍り。
うば四十に及ぶまで、子のなきことを悲しみ、住吉に参り、なき子を祈り申すに、大明神あはれとおぼしめして、四十一と申すに、ただならずなりぬれば、おほぢ、喜び限りなし。
御伽草子集-一寸法師-冒頭より
と言う様に、一寸法師は住吉神社にお祈りして授かった子供として描写れています。
その後都へ向かってお椀の船にのって上京していくのですが、細井川の河口からと描写されています。
細江川は古代には「住吉の細江」と呼ばれる入り江であり、「住吉津(すみのえのつ)」があったということなので、一度海に出てから陸沿いに北上、そして淀川を遡るルートで京へ向かったのではないかと勝手に想像しています。細井川を上流までいっても、京には辿りつかないと思いますし。
さて、もう一つの浦島太郎ですが、浦島太郎の伝承は全国各地にあり、当地こそが本場だと主張しています。
その中でも万葉集のなかに浦島太郎伝説の原型と言える話があり、その舞台は大阪の住吉の岸を舞台としています。
春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得〈乎〉良布見者〈古〉之 事曽所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝T 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不為 死不為而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人〈乃〉 吾妹兒尓 告而語久 須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者来南登 言家礼婆 妹之答久 常世邊 復變来而 如今 将相跡奈良婆 此篋 開勿勤常 曽己良久尓 堅目師事乎 墨吉尓 還来而 家見跡〈宅〉毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久 従家出而 三歳之間尓〈垣〉毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯〈如〉本 家者将有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 □[1]袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴〈由〉奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見
万葉集より
読み下し:
春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣舟の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江の 浦島の子が 鰹釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海境を 過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の娘子に たまさかに い漕ぎ向ひ 相とぶらひ 言成りしかば かき結び 常世に至り 海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり ふたり入り居て 老いもせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間の 愚か人の 我妹子に 告りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告らひ 明日のごと 我れは来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この櫛笥 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年の間に 垣もなく 家失せめやと この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若くありし 肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける 水江の 浦島の子が 家ところ見ゆ
大意訳:
水の江の浦島の子が7日ほど鯛や鰹を釣り帰って来ると、海と陸の境で海神の娘と出会った。
二人は語らいて結婚し、常世にある海神の宮で暮らすこととなった。
3年ほど暮らし、父母にこの事を知らせたいと、海神の娘に言ったところ「これを開くな」と篋を渡され、水江に帰ってきた。
海神の宮で過ごした3年の間に家や里は無くなり、見る影もなくなっていた。
箱を開ければ元の家などが戻ると思い開けたところ常世との間に白い雲がわき起こり、浦島の子は白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。
[1]「口」扁にりっとう
-ウィキペディアより-
住吉となれば、かつての住吉津をさすのでしょう。
そして住吉津となれば住吉大社。
河内国一宮で神功皇后が三韓征伐より七道の浜に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族が、住吉三神を祀ったのに始まるといわれる神社です。
そこで祀られているのは住吉大神こと、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の三柱で、言わずもがなの海にまつわる神様です。
海の話、となれば住吉と思い至ったのも良く分かります。
現在、住吉津埋め立てられ住吉公園が設置されています。
住吉神社と共に行ってまいりました。
まずは駅の正面にある鳥居
由緒書きと境内の案内板です。
広いなぁ…
考えてみれば、黒猫は大社とされるものに行くのはこれが初めてで、境内の広さで既におのぼりさん状態でした。
有名な太鼓橋
この橋は飾り物ではなく、右写真のようにここを通って参拝できるようになっています。
一応階段のようになっていますが、足元は要注意です。
太鼓橋を別アングルから。
朝の比較的早い時間にやってきたので、逆光に;;
そして手水を。
恩智神社に続いて、ここでも兎に遭遇。
(左)住吉鳥居
(右)極楽門
(左) 第三本宮と第四本宮
(右) 第一本宮
黒猫が行った事のある神社とは、全然境内の作りも違いますね。
本宮が一~四まであるって;;
境内にやっぱりありました。
一寸法師の記念撮影用の覗き板。
住吉大社の御神田
神田という物の存在は知っていたのですが、初めて見ました。
さすが大社。
この他、境内に摂社、末社も数多く。
その後、かつて住吉津のあった場所にある住吉公園へ
とは言うものの、現在では公園にある池を見て往時の姿を想像することぐらいしかできません。
大阪市内は住吉津だけに限らず大半が埋め立てられており、当時のままの姿を見ることの出来る海岸線を見ることが出来なくなっています。
泉南まで行けば、海岸線が残っているところもあるのですが…
住吉大社
場所:大阪市住吉区住吉2-9-89
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