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大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
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推古天皇の時代(飛鳥時代)、古代の長柄橋の架橋は難工事で、人柱を捧げなければならないという状況になった。
そのことを垂水(現在の吹田市付近にあたる)の長者・巌氏(いわうじ)に相談したところ、巌氏は「袴に継ぎのある人を人柱にしなさい」と答えた。
しかし皮肉にも、巌氏自身が継ぎのある袴をはいていたため、巌氏が人柱になった。
巌氏の娘は北河内に嫁いだが、父親が人柱になったショックで口をきくことができなくなったため実家に帰されることになった。
夫とともに故郷に向かっている途中、1羽の雉が声を上げて飛び立ったので、夫は雉を射止めた。
その様子を見た巌氏の娘は
「ものいわじ父は長柄の人柱鳴かずば雉も射られざらまし」
と詠んだという。
妻が口をきけるようになったことを喜んだ夫は、雉を手厚く葬って北河内に引き返し、仲良く暮らした。
と、いうものです。
「摂陽群談」や「摂津名所図会」にもこの話を見ることが出来ますが、細部はやや異なる記述も見られます。
それはともかく、大阪にはこの「長柄の人柱」伝説に関する碑等が現在も残されています。
まずは現在架けられている長柄橋を訪ねてきました。
現在の長柄橋は1936年に架けられた橋の基礎を流用し、1983年に架け替えられたものです。
第2次世界大戦の最中、1945年6月5日橋の下に非難していた町民に米軍機が機銃掃射を行い、400人余りの死者を出す事件も発生しています。
実は現在の橋の基部を見れば当時の弾痕が残っていたりします。
東淀川区東三国にある長柄人柱碑
現存していない、かつての長柄橋はかつてこの近辺にあったといわれています。
人柱伝説で犠牲になった巌氏の冥福を祈り、推古天皇が建立したという橋本寺を起源と言う大願寺。
寛仁3年(1019)に後一条天皇が人柱伝説に感銘し、すでに消滅していた長柄橋の橋柱を用いてつくった地蔵尊、巖氏の絵像、橋柱の残木等を寺宝としているとのこと。
長柄橋
場所:大阪市北区本庄東と大阪市東淀川区柴島を結ぶ
長柄人柱碑
場所:大阪市東淀川区東三国5-9
大願寺
場所:大阪市淀川区東三国一丁目4-5