渡辺綱ゆかりの坐摩神社へ赴いた時、町名に関して面白い事柄があったのを思い出したのでご紹介。
坐摩神社は、そもそも神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったことに端を発するといいます。その時代、坐摩神社は、もともともう少し東側にあった渡辺津にありました。
平安時代後期には源融にはじまる嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)が渡辺津に住んで、坐摩神社を掌り渡辺を名字とし、渡辺氏を起こしました。
渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となっていきました。
このような流れから、坐摩神社の世襲宮司は渡辺氏となっていったようです。
そのような歴史ある神社ですが、大阪城建設の際に現在の地に遷座せざるをえなくなりました。
そして、坐摩神社の遷座に合わせて渡辺党もこの地に移り住んだようです。
以降、この土地が渡辺町と呼ばれるようになっていきました。
時代は下って1988年(昭和63年)に旧南区・東区の統合に伴う地名変更が行われました。
その時、「渡辺町」は統合されて消える予定でしたが、渡辺姓の末裔で作る「全国渡辺会」が渡辺の名のルーツである渡辺町の消滅に対し反対運動を起こします。
結局市は苦肉の策により、丁目の次の街区番号に「渡辺」の名を残すことで決着をみました。
よって現在この地は「大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺」という全国的にみても珍しい、姓が町名となっています。
坐摩神社
本当は、茨木童子の一件以降、渡辺氏は家に破風をたてない作りにしたという話を聞き、この地なら渡辺さんの家もあるに違いない!と思ってやってきたのですが…
考えてみたら、平成の大阪市の一等地に一軒家なんてある訳がないですね。
この調査に関しては、完全に空振りに終わりました。
渡辺町の由来の書かれてあるプレートまであります
そして、町名のプレート
坐摩神社
場所:大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺3号
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[6回]
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坐摩神社は、そもそも神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったことに端を発するといいます。その時代、坐摩神社は、もともともう少し東側にあった渡辺津にありました。
平安時代後期には源融にはじまる嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)が渡辺津に住んで、坐摩神社を掌り渡辺を名字とし、渡辺氏を起こしました。
渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となっていきました。
このような流れから、坐摩神社の世襲宮司は渡辺氏となっていったようです。
そのような歴史ある神社ですが、大阪城建設の際に現在の地に遷座せざるをえなくなりました。
そして、坐摩神社の遷座に合わせて渡辺党もこの地に移り住んだようです。
以降、この土地が渡辺町と呼ばれるようになっていきました。
時代は下って1988年(昭和63年)に旧南区・東区の統合に伴う地名変更が行われました。
その時、「渡辺町」は統合されて消える予定でしたが、渡辺姓の末裔で作る「全国渡辺会」が渡辺の名のルーツである渡辺町の消滅に対し反対運動を起こします。
結局市は苦肉の策により、丁目の次の街区番号に「渡辺」の名を残すことで決着をみました。
よって現在この地は「大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺」という全国的にみても珍しい、姓が町名となっています。
坐摩神社
本当は、茨木童子の一件以降、渡辺氏は家に破風をたてない作りにしたという話を聞き、この地なら渡辺さんの家もあるに違いない!と思ってやってきたのですが…
考えてみたら、平成の大阪市の一等地に一軒家なんてある訳がないですね。
この調査に関しては、完全に空振りに終わりました。
渡辺町の由来の書かれてあるプレートまであります
そして、町名のプレート
坐摩神社
場所:大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺3号
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