前回のエントリーに引き続き、今回も茨田堤関連の地を。
『日本書紀』に記された茨田堤の工事に際して、難所となった絶間の内1か所、強頸の絶間跡は現在民家の庭にあるために拝見させていただく事は困難ですが、もう一か所の衫子の絶間跡については、寝屋川市にある太間天満宮にいまも碑文が残されています。
このあたりの地名は太間というのですが、これは絶間がなまったものであるとされているのだそうです。
また絶間という名称自体は今も随所に残されており、例えば
この交差点の名称は「絶間橋北」。
現在でも千数百年前の故事に由来する絶間の名称は現地に残されているのですね。
さて現地の様子です
住宅地の中にあるさほど大きくは無い神社です。
社殿
境内は非常に良く手入れがされており、気持ちの良い神社です。
そして境内の一角にある衫子絶間の石碑
衫子絶間碑
日本書紀 仁徳天皇の十一年(五世紀初)の条に、茨田堤の築造のことが出ていますが、これには、二ヵ所の難所があって、何度工事をやり直してもつながらないので、人柱を立てて堤を完成させようとしました。下の一ヵ所は、武蔵国の、強頚(こわくひ)が犠牲になりました。上の所は、茨田連衫子(むらじころものこ)が指命されましたが、衫子は、機智をもっていけにえになることを免れました。その現場は、ここから、400m東の方と云うことです。
神社の散策を終えた後は東の方をぶらついてみましたが、残念ながらそれらしき跡は見受けられませんでした。
その後、神社のすぐ裏手にあ淀川の堤防を上がってみます。
こちらにも茨田堤の石碑が立てられています。
碑のすぐそばにあった案内板
茨田堤
日本書紀に茨田堤の築造は仁徳天皇十一年とのり、これは河川堤として本邦最初のものである。 築造は難工事で、強頚断間、袗子断門の伝説がよくそれを語っている。
当時淀川は水量も多く、平流れに広い土地と河道としていたが、それを二流に分け、その間に農地を確保したのが茨田堤で、一は現在とあまり変わらず西南流し、一は南流して生駒山の西辺で大和側と合していた。その分岐点がこの碑の建つあたりと考えられる。また土佐日記でいう「わだの泊の分れの所」もこの地点としてよいだろう。
茨田の堤の起点がこの辺りにあった訳ですね。
水量の多い川を人の力で無理矢理2つに分けたわけですから、当然この辺りにあった衫子絶間は、氾濫しやすい場所となったであろうことは想像に難くありません。
太間天満宮
場所:大阪府寝屋川市太間町10
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このあたりの地名は太間というのですが、これは絶間がなまったものであるとされているのだそうです。
また絶間という名称自体は今も随所に残されており、例えば
この交差点の名称は「絶間橋北」。
現在でも千数百年前の故事に由来する絶間の名称は現地に残されているのですね。
さて現地の様子です
住宅地の中にあるさほど大きくは無い神社です。
社殿
境内は非常に良く手入れがされており、気持ちの良い神社です。
そして境内の一角にある衫子絶間の石碑
衫子絶間碑
日本書紀 仁徳天皇の十一年(五世紀初)の条に、茨田堤の築造のことが出ていますが、これには、二ヵ所の難所があって、何度工事をやり直してもつながらないので、人柱を立てて堤を完成させようとしました。下の一ヵ所は、武蔵国の、強頚(こわくひ)が犠牲になりました。上の所は、茨田連衫子(むらじころものこ)が指命されましたが、衫子は、機智をもっていけにえになることを免れました。その現場は、ここから、400m東の方と云うことです。
神社の散策を終えた後は東の方をぶらついてみましたが、残念ながらそれらしき跡は見受けられませんでした。
その後、神社のすぐ裏手にあ淀川の堤防を上がってみます。
こちらにも茨田堤の石碑が立てられています。
碑のすぐそばにあった案内板
茨田堤
日本書紀に茨田堤の築造は仁徳天皇十一年とのり、これは河川堤として本邦最初のものである。 築造は難工事で、強頚断間、袗子断門の伝説がよくそれを語っている。
当時淀川は水量も多く、平流れに広い土地と河道としていたが、それを二流に分け、その間に農地を確保したのが茨田堤で、一は現在とあまり変わらず西南流し、一は南流して生駒山の西辺で大和側と合していた。その分岐点がこの碑の建つあたりと考えられる。また土佐日記でいう「わだの泊の分れの所」もこの地点としてよいだろう。
茨田の堤の起点がこの辺りにあった訳ですね。
水量の多い川を人の力で無理矢理2つに分けたわけですから、当然この辺りにあった衫子絶間は、氾濫しやすい場所となったであろうことは想像に難くありません。
太間天満宮
場所:大阪府寝屋川市太間町10
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