源義経が兄頼朝との戦に際し、義経は幾度も助けられ、それゆえ源九郎の名を贈ったと伝えられる有名な狐がいます。
それが源九郎狐であり、私の住む大阪にある生國魂神社にも勧請された源九郎稲荷社がありますので前々から訪ねたいとは考えていたのです。
そこで先だって奈良へ遊びに行った際に、源九郎稲荷神社にも足を運んできました。
wikipediaによると源九郎狐には以下のような伝説があるとの事です。
忠臣狐伝説
義経が兄頼朝に追われ、吉野山まで逃げる道中、佐藤忠信に化けた白狐が、静御前を守り通した。義経はその白狐の忠義に感服した。狐の意中の物は、親の皮で出来た御前の鼓であったが、それを知った義経は、自分の名を与えて「源九郎」と名乗ることを許した。
妖刀子狐丸伝説
菅田明神の境内に住む小狐が、近くの淵で村人を苦しめている大蛇を源九郎狐の加勢を得て退治した。大蛇の尾から宝剣が見つかり、村人はこの宝剣を「小狐丸」と名づけ、天理の石上神宮へ奉納した。
元和の鎮火伝説
元和元年(1615年)、豊臣方大野治房による郡山城攻撃が行われた際城下も焼け、その中心へと火が迫ってきたのを見た洞泉寺住職天誉和尚が、源九郎狐に祈願をしたところ、突然大雨が降り大火を免れた。
綿帽子を買った狐伝説
大和郡山の柳三丁目に帽子屋があり、ある冬の夜婦人が綿帽子を三つ買いに来た。代金を源九郎神社へ取りに来て欲しいと言われたが、神社では誰も心当たりがないという。主人が不審に思っていると、境内から綿帽子をかぶった三匹の小狐が現れた。
境内の様子。
この時には家族総出で訪ねていきましたので、娘と息子と共に社殿を。
息子に娘が参拝の仕方をレクチャー中。
拝殿を通して本殿を。
社務所脇にあった略縁起
大和源九郎稲荷神社の略縁起
童謡に「大和の大和の源九郎さん遊びましょう」というのは当社のことで、その名は広く伝わり神徳広大であります。いまその御徳を古書から抜粋いたしますと、
一、当社の祭神は宇迦之御魂神(保食社ともいう)で、伊勢外宮・伏見稲荷大社の御主神と御同体であり、万民の生活上一日も欠く事のできない五穀豊饒・商売繁昌・家内安全・厄除開運・交通安全の守護神で、あまねく世人の崇敬する所であります。
一、天智天皇の白鳳年間、平群の真鳥が叛逆を企て、帝位を奪おうとした時、大伴金道麿が逆賊誅伐の勅命を承わり天地神明を念じ、特に寛平稲荷(当社祭神のはじめの御名)を祈って出陣した。明神はたちまち武人と化し、数多の白狐を遣い、この大敵真鳥をち平らげたので天下は平静となった。
(大伴真鳥実記14冊の中巻八)
源九郎稲荷の名の由来
千本桜の狐忠信というのは、この源九郎稲荷の化身である九郎判官義経は日頃深くこの明神を信仰し、神護により、しばしば奇異の戦功を著されたことは、人のよく知る所である。その奥羽に下られた時、訣別の徴として源九郎の名を贈られたというのが源九郎稲荷と称する所以である。
(真鳥実記巻八、二十三丁)
○ 緋おどしをかたみにのこす源九郎(古句)
一、天正年間、大和大納言豊臣秀長卿(秀吉の異母弟百二十万石)もまた深くこの神を崇敬し、郡山城築城の際、その守護神として、遠く吉野川のほとりよりこの地に移し給いて奉斉せられました。その後の城主・町民にも信仰厚く、盛大な祭典を執行し、献納の品々が多かった。(洞泉寺記録)
一、元和元乙卯年四月二十七日夜、豊臣の家臣大野治房が数万の軍勢を率いて大和に入り、郡山城を攻撃した。時の城主、筒井定慶は籠城叶わず終に落城し、この時、巽の方に払炎龍が水を吐いたので兵火を免がれた。これは全く源九郎稲荷の加護によるものである。(洞泉寺縁起)
一、幕末の郡山藩主、柳沢保申公にも常々御参詣せられ「保食社」の額を奉納して、御神徳に感応せられました。
その尊崇の深く神徳景仰の大いなることが偲ばれ、日本三社稲荷の名称が冠せられている。
社殿脇にも由緒書きが
大和源九郎稲荷の由緒大要
「大和の大和の源九郎さん遊びましょう」と童謡にうたわれて其の名広く国々に伝わり。「大和の大和の源九郎さん遊びましょう」と童謡にうたわれて其の名広く国々に伝わり。神徳愈高く崇敬信徒少なからず祭神は民衆生活の守護神たる宇迦之御魂神にして往昔大伴氏の逆徒真鳥を誅伐して天下の乱を防ぎしも此の神の守護与りて力ありき。又武勇絶倫なりし九郎判官源義経平素深く此の神を信仰し数度の戦場にて擁護の霊験著しかりしにより遂に源九郎稲荷の名を負い給えり。又千本桜の狐忠信とて世に伝うろも此の神の御事なり。
後天正年間に至り大和大納言豊臣秀長郷郡山城主の時深く崇敬し城の守護神として斎祀られ戦火の災厄を免れ給う。
依て開運厄除五穀豊穣商売繁盛交通安全あらゆる産業を守護し給う神として古今遠近より来り詣ずるもの四時絶えず。是由緒の大要なり。
これは民話などとは無関係の話なのですが、この源九郎稲荷神社は2010年夏に宮司さんが亡くなられてから暫くは神社を管理するものもなく荒れる一方だったようですが、近隣の方々の有志の手によって復興されたという経緯もあるようで、ブログにて公表もされています。
源九郎稲荷神社奮闘記(とよ(台与)の倖せまねき(夢願う・誓う・信じる・叶う))
黒猫一家と話をしてくれた初老の男性もそういった方々のお一人だったのでしょう。
頭の下がる思いです。
伝承地巡りなんて遊びも、こういった方々の努力があってこそ出来るものですね。
源九郎稲荷神社
場所:奈良県大和郡山市洞泉寺町15
源九郎稲荷神社のブログ
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wikipediaによると源九郎狐には以下のような伝説があるとの事です。
忠臣狐伝説
義経が兄頼朝に追われ、吉野山まで逃げる道中、佐藤忠信に化けた白狐が、静御前を守り通した。義経はその白狐の忠義に感服した。狐の意中の物は、親の皮で出来た御前の鼓であったが、それを知った義経は、自分の名を与えて「源九郎」と名乗ることを許した。
妖刀子狐丸伝説
菅田明神の境内に住む小狐が、近くの淵で村人を苦しめている大蛇を源九郎狐の加勢を得て退治した。大蛇の尾から宝剣が見つかり、村人はこの宝剣を「小狐丸」と名づけ、天理の石上神宮へ奉納した。
元和の鎮火伝説
元和元年(1615年)、豊臣方大野治房による郡山城攻撃が行われた際城下も焼け、その中心へと火が迫ってきたのを見た洞泉寺住職天誉和尚が、源九郎狐に祈願をしたところ、突然大雨が降り大火を免れた。
綿帽子を買った狐伝説
大和郡山の柳三丁目に帽子屋があり、ある冬の夜婦人が綿帽子を三つ買いに来た。代金を源九郎神社へ取りに来て欲しいと言われたが、神社では誰も心当たりがないという。主人が不審に思っていると、境内から綿帽子をかぶった三匹の小狐が現れた。
境内の様子。
この時には家族総出で訪ねていきましたので、娘と息子と共に社殿を。
息子に娘が参拝の仕方をレクチャー中。
拝殿を通して本殿を。
社務所脇にあった略縁起
大和源九郎稲荷神社の略縁起
童謡に「大和の大和の源九郎さん遊びましょう」というのは当社のことで、その名は広く伝わり神徳広大であります。いまその御徳を古書から抜粋いたしますと、
一、当社の祭神は宇迦之御魂神(保食社ともいう)で、伊勢外宮・伏見稲荷大社の御主神と御同体であり、万民の生活上一日も欠く事のできない五穀豊饒・商売繁昌・家内安全・厄除開運・交通安全の守護神で、あまねく世人の崇敬する所であります。
一、天智天皇の白鳳年間、平群の真鳥が叛逆を企て、帝位を奪おうとした時、大伴金道麿が逆賊誅伐の勅命を承わり天地神明を念じ、特に寛平稲荷(当社祭神のはじめの御名)を祈って出陣した。明神はたちまち武人と化し、数多の白狐を遣い、この大敵真鳥をち平らげたので天下は平静となった。
(大伴真鳥実記14冊の中巻八)
源九郎稲荷の名の由来
千本桜の狐忠信というのは、この源九郎稲荷の化身である九郎判官義経は日頃深くこの明神を信仰し、神護により、しばしば奇異の戦功を著されたことは、人のよく知る所である。その奥羽に下られた時、訣別の徴として源九郎の名を贈られたというのが源九郎稲荷と称する所以である。
(真鳥実記巻八、二十三丁)
○ 緋おどしをかたみにのこす源九郎(古句)
一、天正年間、大和大納言豊臣秀長卿(秀吉の異母弟百二十万石)もまた深くこの神を崇敬し、郡山城築城の際、その守護神として、遠く吉野川のほとりよりこの地に移し給いて奉斉せられました。その後の城主・町民にも信仰厚く、盛大な祭典を執行し、献納の品々が多かった。(洞泉寺記録)
一、元和元乙卯年四月二十七日夜、豊臣の家臣大野治房が数万の軍勢を率いて大和に入り、郡山城を攻撃した。時の城主、筒井定慶は籠城叶わず終に落城し、この時、巽の方に払炎龍が水を吐いたので兵火を免がれた。これは全く源九郎稲荷の加護によるものである。(洞泉寺縁起)
一、幕末の郡山藩主、柳沢保申公にも常々御参詣せられ「保食社」の額を奉納して、御神徳に感応せられました。
その尊崇の深く神徳景仰の大いなることが偲ばれ、日本三社稲荷の名称が冠せられている。
社殿脇にも由緒書きが
大和源九郎稲荷の由緒大要
「大和の大和の源九郎さん遊びましょう」と童謡にうたわれて其の名広く国々に伝わり。「大和の大和の源九郎さん遊びましょう」と童謡にうたわれて其の名広く国々に伝わり。神徳愈高く崇敬信徒少なからず祭神は民衆生活の守護神たる宇迦之御魂神にして往昔大伴氏の逆徒真鳥を誅伐して天下の乱を防ぎしも此の神の守護与りて力ありき。又武勇絶倫なりし九郎判官源義経平素深く此の神を信仰し数度の戦場にて擁護の霊験著しかりしにより遂に源九郎稲荷の名を負い給えり。又千本桜の狐忠信とて世に伝うろも此の神の御事なり。
後天正年間に至り大和大納言豊臣秀長郷郡山城主の時深く崇敬し城の守護神として斎祀られ戦火の災厄を免れ給う。
依て開運厄除五穀豊穣商売繁盛交通安全あらゆる産業を守護し給う神として古今遠近より来り詣ずるもの四時絶えず。是由緒の大要なり。
これは民話などとは無関係の話なのですが、この源九郎稲荷神社は2010年夏に宮司さんが亡くなられてから暫くは神社を管理するものもなく荒れる一方だったようですが、近隣の方々の有志の手によって復興されたという経緯もあるようで、ブログにて公表もされています。
源九郎稲荷神社奮闘記(とよ(台与)の倖せまねき(夢願う・誓う・信じる・叶う))
黒猫一家と話をしてくれた初老の男性もそういった方々のお一人だったのでしょう。
頭の下がる思いです。
伝承地巡りなんて遊びも、こういった方々の努力があってこそ出来るものですね。
源九郎稲荷神社
場所:奈良県大和郡山市洞泉寺町15
源九郎稲荷神社のブログ
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