いわゆる、白鳥伝説というものがあります。
日本書紀などによると、
「日本武尊は遠征の帰り道、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなり白鳥となって大和琴弾原(ことひきはら)を経由して河内の国の旧市邑(ふるいちむら)に飛来し、その後、天に昇られた」
と伝えられており、これに由来する史跡が三重から大阪にかけて随所に点在しています。
この古墳もそれらの内の一つで、宮内庁により「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」として第12代景行天皇皇子の日本武尊の陵に治定されています。
正式には、「軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)」とされているようですが、白鳥陵古墳 (はくちょうりょうこふん)、前の山古墳とも呼ばれます。
この白鳥伝説に由来する古墳としては、まず日本武尊が亡くなられたという伊勢の能褒野(現在の三重県亀山市)が一つ、次に白鳥となって最初に降り立った大和琴弾原(奈良県御所市)に一つ、そしてもう一度降り立った旧市邑という土地が現在のこの地近辺であったとされています。
この白鳥伝説は神代の事ですので、幾つか異なった形態の伝承があるようですが、この古墳の近くにある白鳥神社の社伝では、「羽を曳くようにして埴生野(はにゅうの)を越えて百舌鳥(もず)の方へ飛び立った」とされているようで、この伝承により羽曳野市の名前の由来となったようです。
近くにある白鳥神社
さて、現地の様子です。
周囲は濠に囲まれています
濠の北側にあった案内板
白鳥陵古墳(前の山古墳)
白鳥陵古墳は、墳丘長190mの前方後円墳である。古墳が造られた年代は、前方部が後円部より高い墳丘の形や、発見された埴輪の特徴から古墳時代後期(約1,500年前)と考えられている。この古墳は現在、宮内庁によって景行天皇の皇子であった「日本武尊」の陵墓とされている。また「記紀」には日本武尊の白鳥伝説が記されている。(白鳥伝説)日本武尊が全国各地に遠征し、その帰途伊勢の能褒野で息をひきとった。武尊は、白鳥に姿を変え大和の琴弾原を経由し古市に飛来したことが日本書紀に記されている。その後、埴生の丘に羽を曳くがごとく飛び去ったという伝説である。この白鳥伝説が「羽曳野」の地名の由来になっている。
古墳西側、前方部正面に当る場所
遥拝所が設けられています。
宮内庁設置の案内板
軽里大塚古墳(白鳥陵古墳)
場所:大阪府羽曳野市軽里3丁目
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この白鳥伝説に由来する古墳としては、まず日本武尊が亡くなられたという伊勢の能褒野(現在の三重県亀山市)が一つ、次に白鳥となって最初に降り立った大和琴弾原(奈良県御所市)に一つ、そしてもう一度降り立った旧市邑という土地が現在のこの地近辺であったとされています。
この白鳥伝説は神代の事ですので、幾つか異なった形態の伝承があるようですが、この古墳の近くにある白鳥神社の社伝では、「羽を曳くようにして埴生野(はにゅうの)を越えて百舌鳥(もず)の方へ飛び立った」とされているようで、この伝承により羽曳野市の名前の由来となったようです。
近くにある白鳥神社
さて、現地の様子です。
周囲は濠に囲まれています
濠の北側にあった案内板
白鳥陵古墳(前の山古墳)
白鳥陵古墳は、墳丘長190mの前方後円墳である。古墳が造られた年代は、前方部が後円部より高い墳丘の形や、発見された埴輪の特徴から古墳時代後期(約1,500年前)と考えられている。この古墳は現在、宮内庁によって景行天皇の皇子であった「日本武尊」の陵墓とされている。また「記紀」には日本武尊の白鳥伝説が記されている。(白鳥伝説)日本武尊が全国各地に遠征し、その帰途伊勢の能褒野で息をひきとった。武尊は、白鳥に姿を変え大和の琴弾原を経由し古市に飛来したことが日本書紀に記されている。その後、埴生の丘に羽を曳くがごとく飛び去ったという伝説である。この白鳥伝説が「羽曳野」の地名の由来になっている。
古墳西側、前方部正面に当る場所
遥拝所が設けられています。
宮内庁設置の案内板
軽里大塚古墳(白鳥陵古墳)
場所:大阪府羽曳野市軽里3丁目
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