妖怪や民話の伝承地、という訳ではないのですが、有名な戦国武将 真田幸村が戦没したと伝えられる場所がありますので、備忘録代わりに。
真田幸村自体は様々な活躍と共に語られる伝説的な戦国武将です。その終焉の地として有名なこちらの神社ですが、実は大阪市内随所に点在する真田の抜穴では?と云われている穴の内の一つが境内に残されています。
真田の抜穴はフィクションであるとも言われていますが、そもそもこのブログは民話などの伝承の収集、紹介を主目的としていますので、良しとしておきましょう。
南側入り口
すぐ下の写真にある境内地図を見てみると、ここが参道になっているのようので、こちらから入るのが正解でしょうか?
入口近辺に建てられていた案内板と境内地図
安居神社由緒略記
鎮座地 大阪市天王寺区逢阪一丁目三番二十四号
御祭神 少彦名神
菅原道眞公
祭日 例祭 四月二十五日 月次祭 毎月一日 十五日 二十五日
幸村祭 五月
夏祭 七月二十五日
秋祭 十月二十五日
少彦名神を奉祀したのは古文書が散逸したので現在は詳かではないが、非常に古い時代の事であると伝えられている。この神は医薬禁厭(医薬・薬方・まじない)智慧の祖神として、その霊験はまことにあらたかな神である。
菅原道眞公の奉祀は公筑紫へ左遷される途上、海上浪荒く暫くこの地に立ち寄って、憩われた旧跡である所以を畏み、後四十年を経た天慶五年(942年)、此処にその御神霊をお祀りしたと伝えられている。
菅公の御神徳は誠の権化であり、また学問文化の神として人々を守護し導き給うのである。
当神社の御神徳を厚く蒙った人々は昔から多く、中にも大丸の業祖下村彦右衛門氏は大きな御加護を賜りて繁栄されたことは有名であり、当神社に対する信仰は極めて篤く大丸天神と称せられる所以である。
境内に古より、癇鎮めの井と称する清冽なる水湧出する井戸があり霊水として広く知られているが、現在は四囲の状況禍され枯渇の状態にある。
又、大阪夏の陣における眞田幸村戦死の地と伝えられる石碑が建っている。
昭和二十年太平洋戦争の災禍をうけ、一切の建物は烏有に帰したが、大丸を始め奉賛者の寄進により同二十六年春復興され現在、種々の祭典が執行されている。
西側門
鳥居が特徴的
こちらにも案内書が
安居神社
御祭神 少彦名神
菅原道真公
祭日 例祭 四月二十五日
夏祭 七月二十五日
少彦名神を奉祀したのは、古文書が散逸したので、現在は詳かではないが非常に古い時代の事であると伝えられている。
この神は医薬禁厭(医薬・薬方・まじない)智慧の祖神として、その霊験はまことにあらたかな神である。
菅原道眞公の奉祀は、公筑紫へ左遷される途上海上浪荒く暫くこの地に立ち寄って憩われた旧跡である所以を畏み、後四十年を経た天慶五年此処にその御神霊をお祀りしたと伝えられている。
菅公の御神徳は誠の権化であり、また学問文化の神として人々を守護し導き給うのである。
当神社の御神徳を厚く蒙った人々は昔から多く、中にも大丸の業祖下村彦右衛門氏は大きな御加護を賜りて繁栄されたことは有名である。
南側の案内板とほぼ同一の内容でした。
特徴的な石鳥居を潜って、神社側を。
本殿
本殿に向かって右手に真田幸村没地関係の碑などがありました。
眞田幸村公之像
幸村公はこの境内で無念の死を遂げました
その生き方は生きる人間の本義を貫いた人として多くの人に愛されています
この地から幸村公ははるか故郷 信州上田を偲び また父昌幸公を慕い
そして大阪城に思いを馳せていたのかもしれません
幸村公の遺徳を偲び ここに銅像を建立しました。
この銅像にお手をお触れ下さい そしてその徳を授かって頂ければ喜ばしく思います
安居神社 宮司
こちらが二代目 さなだ松です。
眞田幸村陣歿の旧跡
元和元年大阪夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて大阪城を攻めた。ここに於て大阪の兵は城の既に恃むべからざるを知って出でて戦い、五月六日幸村は後藤基次、薄田兼相等と大和口を防がんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が戦死したので殿軍となって伊達正宗の兵と戦い、翌七日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、ついに当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢四十九歳であった。当時の松は既に枯死したが、社殿復興を機に昭和二十六年四月二十四日これを記念して植樹された。
例年五月に幸村祭が盛大に行われる。
ここではこの神社の境内で戦死されたと伝えられているようですが、近くの田で戦死したとの説もあるようです。
その他、寺務所を覗いてみると
眞田幸村十勇士のポスターや記事も掲示されていました。
そういえば2016年の大河ドラマは真田幸村主役の真田丸だそうですね。
真田丸とは大坂の陣にて真田幸村が築いた出城、真田丸に由来した命名だとか。
三光神社とかこの安居神社辺りは間違いなく描写されるでしょうね。
南側案内板に書かれていた癇鎮めの井も発見
かんしずめの井(安井の清水)
この水を飲めば癇の虫が治まるところからこの名がつけられました。
古来、霊水として広く知られています。
現在は残念ながら癇鎮めの井には近づくことが出来ないようになっていました。
井戸自体も枯れてしまっているとの事。
そして真田の抜穴とも伝えられる穴はこちらかな?
少し分かりにくいですが、写真の真ん中辺りが目的の穴かな?
左手のお社は摂社の金山彦神社
現在は入口は石の扉で封鎖されています。
金山彦神社近影
大阪市の随所に伝えられる真田の抜穴というのは、調べてみたら徳川勢の陣奥深くにあったり、それこそ徳川勢が陣の只中にあったりだとかしている為に、そもそも抜穴伝説とは講談の中で生み出されたもので実際にはそのようなモノは無かったという説や、逆に徳川勢が大阪城を攻め落とすために掘ったものだ、近世で抜穴とされていたものは知られていなかった太閤下水の一つではなかったか、など様々な説が飛び交っています。或いは単純に狐などの動物が利用していた自然のモノなのかも。
それぞれの抜穴だと伝えられる穴は、本当はどういう目的の穴であったのかは研究者に譲りますが、こういう身近な場所に謎のモノがあるというのは楽しいものですね。
安居神社
場所:大阪市天王寺区逢阪1丁目3−24
より大きな地図で 黒猫による大阪府妖怪・伝承地地図 を表示
http://
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真田幸村自体は様々な活躍と共に語られる伝説的な戦国武将です。その終焉の地として有名なこちらの神社ですが、実は大阪市内随所に点在する真田の抜穴では?と云われている穴の内の一つが境内に残されています。
真田の抜穴はフィクションであるとも言われていますが、そもそもこのブログは民話などの伝承の収集、紹介を主目的としていますので、良しとしておきましょう。
南側入り口
すぐ下の写真にある境内地図を見てみると、ここが参道になっているのようので、こちらから入るのが正解でしょうか?
入口近辺に建てられていた案内板と境内地図
安居神社由緒略記
鎮座地 大阪市天王寺区逢阪一丁目三番二十四号
御祭神 少彦名神
菅原道眞公
祭日 例祭 四月二十五日 月次祭 毎月一日 十五日 二十五日
幸村祭 五月
夏祭 七月二十五日
秋祭 十月二十五日
少彦名神を奉祀したのは古文書が散逸したので現在は詳かではないが、非常に古い時代の事であると伝えられている。この神は医薬禁厭(医薬・薬方・まじない)智慧の祖神として、その霊験はまことにあらたかな神である。
菅原道眞公の奉祀は公筑紫へ左遷される途上、海上浪荒く暫くこの地に立ち寄って、憩われた旧跡である所以を畏み、後四十年を経た天慶五年(942年)、此処にその御神霊をお祀りしたと伝えられている。
菅公の御神徳は誠の権化であり、また学問文化の神として人々を守護し導き給うのである。
当神社の御神徳を厚く蒙った人々は昔から多く、中にも大丸の業祖下村彦右衛門氏は大きな御加護を賜りて繁栄されたことは有名であり、当神社に対する信仰は極めて篤く大丸天神と称せられる所以である。
境内に古より、癇鎮めの井と称する清冽なる水湧出する井戸があり霊水として広く知られているが、現在は四囲の状況禍され枯渇の状態にある。
又、大阪夏の陣における眞田幸村戦死の地と伝えられる石碑が建っている。
昭和二十年太平洋戦争の災禍をうけ、一切の建物は烏有に帰したが、大丸を始め奉賛者の寄進により同二十六年春復興され現在、種々の祭典が執行されている。
西側門
鳥居が特徴的
こちらにも案内書が
安居神社
御祭神 少彦名神
菅原道真公
祭日 例祭 四月二十五日
夏祭 七月二十五日
少彦名神を奉祀したのは、古文書が散逸したので、現在は詳かではないが非常に古い時代の事であると伝えられている。
この神は医薬禁厭(医薬・薬方・まじない)智慧の祖神として、その霊験はまことにあらたかな神である。
菅原道眞公の奉祀は、公筑紫へ左遷される途上海上浪荒く暫くこの地に立ち寄って憩われた旧跡である所以を畏み、後四十年を経た天慶五年此処にその御神霊をお祀りしたと伝えられている。
菅公の御神徳は誠の権化であり、また学問文化の神として人々を守護し導き給うのである。
当神社の御神徳を厚く蒙った人々は昔から多く、中にも大丸の業祖下村彦右衛門氏は大きな御加護を賜りて繁栄されたことは有名である。
南側の案内板とほぼ同一の内容でした。
特徴的な石鳥居を潜って、神社側を。
本殿
本殿に向かって右手に真田幸村没地関係の碑などがありました。
眞田幸村公之像
幸村公はこの境内で無念の死を遂げました
その生き方は生きる人間の本義を貫いた人として多くの人に愛されています
この地から幸村公ははるか故郷 信州上田を偲び また父昌幸公を慕い
そして大阪城に思いを馳せていたのかもしれません
幸村公の遺徳を偲び ここに銅像を建立しました。
この銅像にお手をお触れ下さい そしてその徳を授かって頂ければ喜ばしく思います
安居神社 宮司
こちらが二代目 さなだ松です。
眞田幸村陣歿の旧跡
元和元年大阪夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて大阪城を攻めた。ここに於て大阪の兵は城の既に恃むべからざるを知って出でて戦い、五月六日幸村は後藤基次、薄田兼相等と大和口を防がんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が戦死したので殿軍となって伊達正宗の兵と戦い、翌七日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、ついに当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢四十九歳であった。当時の松は既に枯死したが、社殿復興を機に昭和二十六年四月二十四日これを記念して植樹された。
例年五月に幸村祭が盛大に行われる。
ここではこの神社の境内で戦死されたと伝えられているようですが、近くの田で戦死したとの説もあるようです。
その他、寺務所を覗いてみると
眞田幸村十勇士のポスターや記事も掲示されていました。
そういえば2016年の大河ドラマは真田幸村主役の真田丸だそうですね。
真田丸とは大坂の陣にて真田幸村が築いた出城、真田丸に由来した命名だとか。
三光神社とかこの安居神社辺りは間違いなく描写されるでしょうね。
南側案内板に書かれていた癇鎮めの井も発見
かんしずめの井(安井の清水)
この水を飲めば癇の虫が治まるところからこの名がつけられました。
古来、霊水として広く知られています。
現在は残念ながら癇鎮めの井には近づくことが出来ないようになっていました。
井戸自体も枯れてしまっているとの事。
そして真田の抜穴とも伝えられる穴はこちらかな?
少し分かりにくいですが、写真の真ん中辺りが目的の穴かな?
左手のお社は摂社の金山彦神社
現在は入口は石の扉で封鎖されています。
金山彦神社近影
大阪市の随所に伝えられる真田の抜穴というのは、調べてみたら徳川勢の陣奥深くにあったり、それこそ徳川勢が陣の只中にあったりだとかしている為に、そもそも抜穴伝説とは講談の中で生み出されたもので実際にはそのようなモノは無かったという説や、逆に徳川勢が大阪城を攻め落とすために掘ったものだ、近世で抜穴とされていたものは知られていなかった太閤下水の一つではなかったか、など様々な説が飛び交っています。或いは単純に狐などの動物が利用していた自然のモノなのかも。
それぞれの抜穴だと伝えられる穴は、本当はどういう目的の穴であったのかは研究者に譲りますが、こういう身近な場所に謎のモノがあるというのは楽しいものですね。
安居神社
場所:大阪市天王寺区逢阪1丁目3−24
より大きな地図で 黒猫による大阪府妖怪・伝承地地図 を表示
http://
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