直ぐ前のエントリーでも紹介しましたが、大阪府に伝わる雁塔物語、もう一つの伝承地である大阪市東成区の法明寺のご紹介。
話の筋は四条畷市の雁塚に伝わっているものと全く同じものです。
東成区のホームページに載せられている内容を引用させていただきます。
■ 雁塚
法明寺境内に雁塚と呼ばれる二基の石塔があります。一基は弘長2年(1262)他の一基は延元4年(1339)と記されています。この石塚には次のような伝説があります。「その昔、清原刑部丞正次という弓の名手がある冬の日に家来をともなって狩りに出かけましたが、その日は一羽も獲物がとれません。夕方帰りがけに一群の雁に出合ったので、先頭の一羽を射ち落としました。するとどうしたことかその雁には頭がありません。その周辺を探しましたが見つからず、そのまま帰りました。次の冬に狩りに出て一羽の雌の雁を射ち落としました。すると羽の下から乾いた雄の雁頭が出てきました」。
この話を聞いた法明上人は、雁の夫婦愛に心うたれ、その冥福を祈るために四重の石塔を建立したのが雁塚であるといわれています。
四条畷市の雁塚は文明年間(1469-1486)とされていますので、碑文の年号を見る限りこの東成区の雁塚の方がどうやら古い物であるようです。
しかしながら、河内名所図会には俯瞰図のような形の絵が載せられているのですが、それを見る限り河内名所図会に記された雁塚は間違いなく四条畷市の物のようです。
名所図会を記す当時に収集した伝聞の中では、四条畷の物の方が有名だった、という事でしょうか?
その意味を考えていくことも面白いかとは思いますが、ここでは塚の紹介に止めさせていただきます。
寺門
寺門にあった現地案内板
法明寺の由来
当寺は花園天皇文保二年(一三一八)法明上人の創建である。上人は弘安二年(一二七七)当地に生れ、高野、比叡両山に上って、真言の秘宝、天台の教観を極めるも、末世の凡夫生死出離の要諦は浄土の法門、弥陀の本願による外なしと感じ是より念仏三昧に意を決し故里の当地に帰り、両親菩提の為の草庵を結ぶ、之法明寺の創りである。
上人は後醍醐天皇の御代、良忍上人によって創められた融通念仏宗の大念仏寺を再興し、後、当寺に隠遁し、長瀬北陀草で荼毘に附せり。後、正保年間に至り堂宇荒廃甚しく慶安元年(一六四八)浄土宗の僧善誉夢白之を再建し浄土宗知恩末となり現在に至る。
なお、境内左手の墓地中央附近に四層の石塔が二基あり、雁塚と伝えられている。
本堂
そしてこちら雁塔になります
現地案内板
雁塚の由来
当時開山上人の俗弟あり弓矢の達者にして或年中冬の頃空高く一行の雁鳴きわたりけるを見付け給ひ持ちたる弓に矢をつがひ引きはなちける、程なく一つの雁落ちけるを立ちよりて見給ふに首より射切りしが其の頭見へざりければ其のままにして立帰りけらし、然るに翌年又々同じ頃田面はるかに一つの雁ゐけるを射ころせしが其の羽がひより干からびたる雁の頭落ちけり、これ不思議なる事にやと思惟し給ふけるに旧年この辺りにて射ころせし雁の頭これならんと思えば、鳥類とても親子夫婦の恩愛浅からぬことを感じ落涙し給ふ。
かの鳥の死がいを法明上人の御庵室の傍にうずみ志るしにとて塚を建てるが、ここに雁塚と云いつたふ。
寺伝の写しでしょうか?案内文の文体が古いですね。
この寺を開山された法明上人という方、余程奇譚に縁のある方のようです。
この法明寺の雁塚もそうですが、この地に草庵を建てられて間もない元亨元年(1321)、他でもないこの草庵に石清水八幡大士が来現して、「永らく融通念仏の法燈を伝授する器を待っていたが、あなたこそその人材である」と告げ融通念仏の口伝を授与されます。
融通念仏の法燈を伝授、というのは平野区にある大念佛寺に関わってくるお話です。
大念佛寺
大念佛寺とは、1127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したお寺です。
平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最初の宗派で日本最初の念仏道場といわれています。
それから良忍上人の後継者がこの念仏の勧進をますます盛んにしていきましたが、大念佛寺に伝わる宗門の法燈(血脈ともいう)は、第六世 良鎮上人が寿永元年(1182)に没して後、良い後継者に恵まれなかったためしばらくの間絶えてしまい、融通念仏の法儀、宗要の密意、霊宝の悉くは石清水八幡宮の男山の社殿に収蔵されてしまっていたのです。
要するに、法明上人に念仏信仰の根本道場である大念佛寺を再興しなさい、とお告げがあった、という訳です。
その上、社殿に預かっていた霊宝のすべてを返還する旨を伝えたとされます。
伝承の上ではそういった経緯で法明上人は大念佛寺の法燈を引き継ぎ、現在の平野の惣(郷村)を中心に活動して念仏共同体として講を組織し、大念仏教団の基礎を築いていくことになります。
そして大念佛寺を再興していく中でも、
このブログの大念佛寺の記事にもあるように、亀鉦にまつわる奇譚の主役にもなったりします。
大念佛寺を再興した後、法明上人は、寺の由緒を読む限り再びこの法明寺の元となった草庵に戻ってこられたようですね。貞和五年(1349)6月13日71歳で亡くなられたようです。今でも東大阪にお墓が現存しているのだとか。
さて、法明上人は弘安二年(1279)にこの寺の近辺で生まれたとされていることから、弘長二年(1262)と刻まれている方の雁寺は伝承で語られる内容と食い違いが生じてしまいます。
伝承の記述をそのまま受け取るのであれば、延元四年(1339)と刻まれている方が伝承の雁塚なのでしょう。
<<関連エントリー>>
雁塔物語-四条畷市・雁塚-
法明寺
場所:大阪市東成区深江南3丁目16-28
より大きな地図で 黒猫による大阪府妖怪・伝承地地図 を表示
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[2回]
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話の筋は四条畷市の雁塚に伝わっているものと全く同じものです。
東成区のホームページに載せられている内容を引用させていただきます。
■ 雁塚
法明寺境内に雁塚と呼ばれる二基の石塔があります。一基は弘長2年(1262)他の一基は延元4年(1339)と記されています。この石塚には次のような伝説があります。「その昔、清原刑部丞正次という弓の名手がある冬の日に家来をともなって狩りに出かけましたが、その日は一羽も獲物がとれません。夕方帰りがけに一群の雁に出合ったので、先頭の一羽を射ち落としました。するとどうしたことかその雁には頭がありません。その周辺を探しましたが見つからず、そのまま帰りました。次の冬に狩りに出て一羽の雌の雁を射ち落としました。すると羽の下から乾いた雄の雁頭が出てきました」。
この話を聞いた法明上人は、雁の夫婦愛に心うたれ、その冥福を祈るために四重の石塔を建立したのが雁塚であるといわれています。
四条畷市の雁塚は文明年間(1469-1486)とされていますので、碑文の年号を見る限りこの東成区の雁塚の方がどうやら古い物であるようです。
しかしながら、河内名所図会には俯瞰図のような形の絵が載せられているのですが、それを見る限り河内名所図会に記された雁塚は間違いなく四条畷市の物のようです。
名所図会を記す当時に収集した伝聞の中では、四条畷の物の方が有名だった、という事でしょうか?
その意味を考えていくことも面白いかとは思いますが、ここでは塚の紹介に止めさせていただきます。
寺門
寺門にあった現地案内板
法明寺の由来
当寺は花園天皇文保二年(一三一八)法明上人の創建である。上人は弘安二年(一二七七)当地に生れ、高野、比叡両山に上って、真言の秘宝、天台の教観を極めるも、末世の凡夫生死出離の要諦は浄土の法門、弥陀の本願による外なしと感じ是より念仏三昧に意を決し故里の当地に帰り、両親菩提の為の草庵を結ぶ、之法明寺の創りである。
上人は後醍醐天皇の御代、良忍上人によって創められた融通念仏宗の大念仏寺を再興し、後、当寺に隠遁し、長瀬北陀草で荼毘に附せり。後、正保年間に至り堂宇荒廃甚しく慶安元年(一六四八)浄土宗の僧善誉夢白之を再建し浄土宗知恩末となり現在に至る。
なお、境内左手の墓地中央附近に四層の石塔が二基あり、雁塚と伝えられている。
本堂
そしてこちら雁塔になります
現地案内板
雁塚の由来
当時開山上人の俗弟あり弓矢の達者にして或年中冬の頃空高く一行の雁鳴きわたりけるを見付け給ひ持ちたる弓に矢をつがひ引きはなちける、程なく一つの雁落ちけるを立ちよりて見給ふに首より射切りしが其の頭見へざりければ其のままにして立帰りけらし、然るに翌年又々同じ頃田面はるかに一つの雁ゐけるを射ころせしが其の羽がひより干からびたる雁の頭落ちけり、これ不思議なる事にやと思惟し給ふけるに旧年この辺りにて射ころせし雁の頭これならんと思えば、鳥類とても親子夫婦の恩愛浅からぬことを感じ落涙し給ふ。
かの鳥の死がいを法明上人の御庵室の傍にうずみ志るしにとて塚を建てるが、ここに雁塚と云いつたふ。
寺伝の写しでしょうか?案内文の文体が古いですね。
この寺を開山された法明上人という方、余程奇譚に縁のある方のようです。
この法明寺の雁塚もそうですが、この地に草庵を建てられて間もない元亨元年(1321)、他でもないこの草庵に石清水八幡大士が来現して、「永らく融通念仏の法燈を伝授する器を待っていたが、あなたこそその人材である」と告げ融通念仏の口伝を授与されます。
融通念仏の法燈を伝授、というのは平野区にある大念佛寺に関わってくるお話です。
大念佛寺
大念佛寺とは、1127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したお寺です。
平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最初の宗派で日本最初の念仏道場といわれています。
それから良忍上人の後継者がこの念仏の勧進をますます盛んにしていきましたが、大念佛寺に伝わる宗門の法燈(血脈ともいう)は、第六世 良鎮上人が寿永元年(1182)に没して後、良い後継者に恵まれなかったためしばらくの間絶えてしまい、融通念仏の法儀、宗要の密意、霊宝の悉くは石清水八幡宮の男山の社殿に収蔵されてしまっていたのです。
要するに、法明上人に念仏信仰の根本道場である大念佛寺を再興しなさい、とお告げがあった、という訳です。
その上、社殿に預かっていた霊宝のすべてを返還する旨を伝えたとされます。
伝承の上ではそういった経緯で法明上人は大念佛寺の法燈を引き継ぎ、現在の平野の惣(郷村)を中心に活動して念仏共同体として講を組織し、大念仏教団の基礎を築いていくことになります。
そして大念佛寺を再興していく中でも、
このブログの大念佛寺の記事にもあるように、亀鉦にまつわる奇譚の主役にもなったりします。
大念佛寺を再興した後、法明上人は、寺の由緒を読む限り再びこの法明寺の元となった草庵に戻ってこられたようですね。貞和五年(1349)6月13日71歳で亡くなられたようです。今でも東大阪にお墓が現存しているのだとか。
さて、法明上人は弘安二年(1279)にこの寺の近辺で生まれたとされていることから、弘長二年(1262)と刻まれている方の雁寺は伝承で語られる内容と食い違いが生じてしまいます。
伝承の記述をそのまま受け取るのであれば、延元四年(1339)と刻まれている方が伝承の雁塚なのでしょう。
<<関連エントリー>>
雁塔物語-四条畷市・雁塚-
法明寺
場所:大阪市東成区深江南3丁目16-28
より大きな地図で 黒猫による大阪府妖怪・伝承地地図 を表示
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