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長野に万治の石仏と呼ばれる有名な石仏があるとの話を以前から聞いていましたので、長野を旅行した際に足を運んできました。





この石仏のある場所は御柱祭で有名な諏訪大社下社春宮のすぐ近くになります。
諏訪信仰の大本である諏訪大社自体についても非常に面白いのですが、何分訪問できたのが18時頃で日も落ちようとした時間帯、加えて全部で4社ある内の下社の春宮にしか立ち寄れていませんので、諏訪信仰についての、諏訪大社についての記事はまたの機会に譲りたいと思います。
どうやら元々から諏訪地方に存在していたとみられる信仰(モレヤ神、チカト神、ソソウ神、ミシャグチ神というような存在と云われている)に、国譲りに際して出雲の争いで敗れた建御名方神がこの地に追い詰められて服従し、土着信仰と習合していくことで諏訪信仰の根幹が形成されていく、というあらましの様で、祭祀も独特のものがありとても興味深い内容なだけに残念です。
加えて周辺地域にも様々な風習も残っているようで、書きはじめるとかなりの分量になりそうな内容となっています。

とはいえ、諏訪大社の下社の風景もざっとだけ。

下社のすぐ手前にある駐車場にあった周辺マップ。
御柱祭の行われる場所も近そうです。いつかは見に行ってみたいものです。
世間では諏訪大社といえば6年に一度の御柱祭が有名だとは思いますが、他にも御神渡り、蛙狩神事、御頭祭、御船祭、御射山祭というような神事も有名です。
鹿の頭(現代では剥製となっているようですが)を捧げる御頭祭も古い祭祀の形態がそのまま残っている神事でしょうから、これまた一度は見に来たいものです。


鳥居をくぐって境内へ入ります。


中央に位置する神楽殿
相変わらずオーブがよく映ります;;


春宮の社殿


社殿前ですが、奥に御柱が見えます。


これが御柱祭で使用される御柱
御柱全体を写した写真はちょっとピントがあっておらず不掲載に;;

御柱
御柱は寅年と申年の7年目毎に御宝殿の造営と共に建替えられる御神木で社殿の四隅に建立されています。この春宮一之御柱は長さ十七米余 直径一米余の樅の樹で霧ヶ峰高原に続く東俣國有林に於いて伐採され、数千人の氏子の奉仕により曳行されました。
御柱祭は天下の奇祭として有名であり次回は平成二十八丙申年に行われます


由緒書き

諏訪大社下社春宮
 幣拝殿・左右片拝殿
 重要文化財 昭和五十八年十二月二十六日 指定
諏訪大社は建御名方富命と八坂刀売命を 祀り、上社は建御名方富命(彦神)を下社は八坂刀売命(女神)を主祭神としている。
下社の祭神は、二月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御舟祭で秋宮に遷座し、翌 二月一日に春宮に帰座される。
下社の中心となる建築は、正面中央にあり拝殿と門を兼ねたような形式の幣拝殿、その左右にある回廊形式の片拝殿、それらの背後にある、東西宝殿からなる。東西の宝殿は茅葺・ 切妻造・平の簡素で古風な形式をもち、申寅の七年ごとに新築する式年造替制度がとられている。
右のような社殿形式は諏訪大社に特有のものであり、また、その幣拝殿と左右片拝殿に似た形式は、長野県内の諏訪神を祀るいくつかの神社でも用いられている。
現在の春宮の幣拝殿は安永八年(一七七九)に 完成したと考えられる。大工棟梁は高島藩に仕えた大工棟梁 伊藤儀左衛門の弟である柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重(一七四七~一八〇〇)であった。
幣拝殿は、間口の柱間が一間、奥行が二間で、背後の壁面に扉口を設ける二階は四方がふきはなちで、屋根は切妻造・平入の銅板葺(元は檜皮葺)で、正面は軒唐破風をつける。
左右の方拝殿は、梁行の柱間が一間・桁行が五間で、屋根は片流れの銅板葺である。
幣拝殿の建築様式の特徴は各所につけられた建築彫刻の数の多さとその躍動感にあふれた表現である。正面の腰羽目の波、虹梁の上の牡丹、唐獅子、唐破風内部の飛竜、一階内部の小壁の牡丹、唐獅子、扉脇の竹、鶏で名作が多く、建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前がよくうかがえる。

他にも境内には摂末社もありましたが、境内散策は程々にして石仏の元へと向かいます。
周辺マップを見れば春宮の西側を流れる砥川の対岸にあるようです。

写真では結構明るく映っていますが、実際にはもうかなり薄暗くなりつつある時間帯した。
いわゆる黄昏時、という時間帯ですね。
黄昏は、誰そ彼が転じたのではと柳田國男も書いていたように思いますが、ちょうどそんな感じの時間帯で少し離れれば人の顔が見えにくくなるような光の加減の時間帯でした。
よって、子供たちの腰が引け気味だったこともあり、妻が先陣を切って向かっていたり。









 
(左)
万治の石仏と伝説
  南無阿弥陀仏万治三年(一六六〇)十一月一日
  願主明誉浄光誉廣春
伝説によると諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時、この石を材料にしようと、ノミを入れたところ傷口から血が流れ 出したので、石工達は恐れをなし仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)
その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は完成したというのである。石工達は、この石に阿弥陀如来をまつ って記念とした。尚、この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町 字石仏となっている。

 石には「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉慶春」また胸にはいくつかの謎(なぞ)の紋様が彫られている。
 向って右から太陽・雷・雲・磐座(いわくら)・月などで、これは大宇宙の総てを現し、右端には逆マン字が刻まれている。
 これは大日如来を教主とする密教の曼荼羅で、阿弥陀如来と大日如来を一体の石仏に共存させた「同体異仏」を信仰する密教集団の弾誓上人を祖とする浄土宗の一派である。「南無阿弥陀仏」と唱えれば、現世でこの身このまま成仏できると説き、民衆に即身成仏による仏としての自覚を与えた。これは今までに例のない念仏思想で「仏頭授受」を伝えるものと言われている。
 石仏は浄土宗の弥陀定印を結び、願主は浄土宗に帰依した人の法名で、兄弟かまたは師弟のつながりをもっていて、その二人がこの石仏を造立したのでないかと推定されている。

(右)
観光協会と商工会議所が提唱する
「万治の石仏」お参りの仕方

一、正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる。
二、石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する。
三、正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。
(春宮ともゆかりのある石仏ですので春宮へもお参り下さい。)

ノミの跡が残っている、というので後ろに回ってみましたが・・・

このボコボコした箇所が其れなのでしょうか?
余りよく分かりませんでした。

近くには、この万治の石仏の評価を高める切欠の一つにもなったとされる、岡本太郎氏の碑もあるとの事で、そちらにも足を向けます。


岡本太郎碑


峡の田に座して石仏のどかなり 正人
万治三年(1660年)敬虔な心の石工たちに刻まれてから村人たちに阿弥陀様と親しみ崇められて来たが、近年岡本太郎先生にその特異な石佛としての存在が評価され世の注目を浴びている。
「万治の石仏」
揮毫 岡本太郎画伯

さて、実はこの万治の石仏ですが、首が伸びだ、という話があったりします。
それも古い時代の話ではなく、平成に入ってからの話です。
といっても、民話のような話ではないのですけどね。
wikipediaにその経緯が書かれていました。

首が伸びる
1991年8月に一度頭部が落下しており一度支柱で固定し修複したが、その後ある写真家が毎年撮った写真を見たところ、首が伸びている事が分かった。2007年にテレビ番組で紹介され観光客も増えたが、下諏訪観光協会は「周辺の安全確保」ためとしてまた修復することにし、2008年3月4日に修復作業が行われ、頭部の下から水や泥、賽銭25円が発見された。首が伸びた原因は、以前の修複時につけた支柱に水が溜まり、氷になって斜めになり、その繰り返しで頭部が上昇したとされる。修復前に測定したところ、正面で4cmで左右は6~7cm上昇していた。

どうやら2007年にTBSの朝ズバで放送されて、一躍有名になった話のようです。
現在では元の位置に戻っているようですが、もし、この話が近代以前に起きたのであれば、これも怪異譚の仲間入りを果たす結果になったことでしょうね。


万治の石仏
場所:長野県下諏訪町東山田小字石仏
万治の石仏(下諏訪観光協会HP)

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妖怪と酒を愛する一男一女の父。
昨今、文献漁りも行っているが、昔の人の書が達筆すぎて苦心中

 

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