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家族と長野を旅行していたときに立ち寄った、大王わさび農場内に祭られている魏石鬼 八面大王についてご紹介。






実はこの大王わさび農場、妻と結婚して初めて国内旅行をしていた際に十数年前にふらりと立ち寄った場所であったのですが、4人に増えた家族と共に再訪した形になります。

この農場の名前にある「大王」は敷地内にある大王神社に由来し、この神社は民話に登場する八面大王の胴体が埋葬されているとされています。

まずはわさび園の様子。



こちらの農場に訪問したのは平成24年5月4日。
緯度が高いことに加えて標高も高いこともあり、まだ桜が咲いていました。
わさび田の上を覆っている黒いものは寒冷紗というもので、直射日光に弱いわさびを保護するために日差しの強い4月から9月末まで覆うものだそうです。

こちらの農場は観光農場として整備されており、随所に土産物屋や軽食コーナー、体験コーナーなどがあります。
黒猫一家も、子供とともにわさび漬けの体験を楽しみにとある建物に入ったところ、このような民話が壁面に張られていました。

延暦というから今からおよそ千二百年も昔のこと
この安曇の里には魏石鬼 八面大王という首領がいた
現住民族の長として畏れ慕われていた
  -大和朝廷が全国統一を成しとげてゆく時代の話-


中央政権-大和朝廷-は東北に侵略を進めるにあたり信濃を足がかりとした
たくさんの貢物 はては無理難題を押しつけ住民を苦しめた


大王は平和な里の暮しと住民を守ろうと心をくだく
優れた武器と倍する軍勢に刃向うつもりはないが ふりかかる火の粉は払わねば・・・


太刀や弓矢を持つ男ばかりでなく女子供まで殺されて村里は次々と焼き払われていく
大王を慕うわずかの部下と有明山のふもとの砦で力の限り戦い ついに矢倒れる

長い長い攻防戦に疲れはてた大王の頬には刀の傷あとも深く淋しい陰を残して横たわる。
夏草がそっと隠した。

こちらでは中央と戦い力尽きた英雄として描かれています。

そしてそんな農場の一角にあるのがこちらの大王神社。

拝殿、になるのかな?


拝殿から橋を渡ったところに小祠?塚?があります。
いずれにせよ大王の胴体が祀られている場所ですね。


望遠で。


拝殿脇にあった大王神社由緒

大王神社由緒
今を去る千二百年前(延暦年間)安曇平野に繁栄した原住民族の王を、人呼んで魏石鬼 八面大王と称した。後に大王の偉業を顕彰して建てられたのが大王神社である。
折りしも南方より侵攻し来る大陸族との間に激烈なる攻防戦が繰り広げられ、大王は一族を率いて勇戦敢斗大いに侵入者を悩ました。然し優勢を誇る大陸族の前には遂に抗し難く、大王は捕らえられ処刑された。大王の復活を恐れる余り遺骸は分断され、その胴体を葬ったのが当大王山であると言われている。

さて歴史のページを捲ってみると、古代、奈良で成立した大和朝廷は朝廷に服さぬ原住民(蝦夷:えみし)に対して帰順するように働きかけていました。
蝦夷自体は日本書紀、中国の「宋書」倭国伝の記述から古墳時代から認識されていたとみられているようですが(異論もある)、その時期の中央政権との関係までは分かっていません。
飛鳥時代ごろから蝦夷との勢力圏の境に城柵を設置するなど、緊張感が高まっていたことを匂わせる記述があるほか、658年には阿倍比羅夫により蝦夷討伐のための遠征があったと記されています。
774年(宝亀5年)に按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられてから三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討(蝦夷に対して朝廷が行った征討)の時代となります。組織立った蝦夷征討は811年(弘仁2年)まで続けられ、一般的には4期に分けられているようです。
この魏石鬼 八面大王の伝承にある延暦年間に行われた蝦狄征討は、紀古佐美によるもの(朝廷側壊走)の他、大伴弟麻呂、坂上田村麻呂によって行われています。
これは蝦狄征討の第3期と区分される時期で、この結果蝦夷勢力は敗れ、有名なアテルイ(阿弖流爲、阿弖利爲)が坂上田村麻呂に降伏し、戦争は一段落することになります。

さて、魏石鬼 八面大王は坂上田村麻呂に討たれたと伝えられています。
こちらの伝承の他、松本藩により享保年間に編纂された地誌「信府統記」(第十七)や 「仁科濫觴記」にて伝承が語られているようですが、信府統記、仁科濫觴記では付近を荒らしまわった鬼族として描写されているようです。
見方によって、英雄として取り扱われたり鬼とされたりするようですね。
ちなみにこちらの神社には胴体が葬られているとされているようですが、近辺には首、耳、足がそれぞれ埋められた、とされる場所もあるようです。

さて、この農場内には他にも八面大王に関連するものがあるようです。
とはいっても、予め書いておきますが、現代に造られたものであるようですが。

まずは大王神社からわさび田に渡された橋を渡ると洞窟が2つあります。


左手が大王窟、右手が開運洞と呼ぶそうです。
大王窟は大王が最後にたてこもったといわれている、有明山の麓、宮城の岩屋を再現したものとの事です。


大王窟入り口脇にも案内板が

わさび田を守りつづける八面大王
 その昔、桓武天皇(西暦七八五~八〇五年)の頃魏石鬼(ぎしき)八面大王という世にもすぐれた怪力無双の首領が、この地「安曇野」を治めていました。 全国統一を目指す中央政権は、東北侵略をすすめるにあたって、信濃の国を足掛かりとし、沢山の貢物や無理難題を押しつけ住民を苦しめました。大王は坂上田村麻呂の率いる優れた武器を持つ軍勢に刃向かうつもりはなかったものの、戦いは大刃や矢を持つ男ばかりか、女、子供まで巻き込み次々と村々は焼き払われていきます。追い詰められた大王は、わずかばかりの部下をともない有明山のふもとの岩屋にこもって力の限り戦いましたが、ついに山鳥の三十三斑の尾羽で作った矢にあたり倒れてしまいました。
 八面大王は余りにも強かったため再び生きかえらぬようにと遺体はバラバラにされ埋められました。当農場の一角には胴体が埋められたと言われており、 現在は大王神社として祀られています。
 「大王農場」の名前も、この故事にちなんでつけられたものです。そこで大王が住んでいたと言われる有明山の麓、宮城の岩屋をそこに再現し、空高く積みあげられた築山を「大王さまの見張り台」と名付けました。
 頂上からは、わさび田と北アルプスが一望できます。

折角ですので入ってみましょう。

大王窟


一番奥には2体の仏像?


こちらが開運洞


こちらの一番奥には七福神が彫られた石があります。
公式ホームページによるとこの石に触れると幸せになるとか。
これは八面大王関係にはなかったですね

上の案内板に書かれた大王さまの見張り台という場所にも行ってみます。

八面大王の見張り台(太陽の石)という標識が。
石組みの上に大きな球状の荒彫り石(白みかげ石)があります。
とのこと。


こちらが大王さまの見張り台


向かいに案内書きが貼られていました。

太陽の石由緒
(八面大王の見張り台)
大王農場の先駆者(開拓者)である初代深澤勇布(1886~1941)は運命のそすべてを魏石鬼 八面大王に委ねたが、これを継いだ二代深澤勇布は大王農場の精神の拠りどころ「農場の心」を、まさしく太陽に求めた。
二代勇布は晩年に「八面大王の見張り台」と称する石積みの頂上に球状の白御影石を荒彫りしたものを置いた。それは文字通り「太陽」を表している。
崇拝した道元禅師像(細川宗英作青銅製)をこの見張り台の西側向かいの「アルプス展望の小径」の一角に安置したが、その際、道元大師の視線をこの「太陽の石」と結んでいる。
二代勇布の心からなる着想であった。
尚、下方にある「大王洞」「開運洞」もやはり二代勇布の発想によって設置された。
大王わさび農場をもっと知ろう隊識


太陽の石、引いては八面大王の見張り台に関しては大王縁と言うよりは、もっと原初的な太陽信仰、アミニズムに根差すものという方がしっくりくるかもしれません。

さっそく登ってみましょう。



これが太陽の石。
ここに掛けられた思いを考えたら、上に石を積むのはかなり勘違いしているような;;
ちょっと控えてほしいものですね。


八面大王の見張り台から北アルプスを望む。
写真よりも肉眼の方がよく見えるような・・・肉眼の感動を写真で表現することはなかなか難しいですね。


大王わさび農場
場所:長野県安曇野市穂高1692
公式HP

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プロフィール

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黒猫
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自己紹介:
妖怪と酒を愛する一男一女の父。
昨今、文献漁りも行っているが、昔の人の書が達筆すぎて苦心中

 

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