全国に約3万社あるといわれている稲荷神社、その総本山が京都市伏見区にある伏見稲荷大社です。
和銅年間(708~715年)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まるといわれ、秦氏にゆかり深い神社です。
この地に社が鎮座することになった由緒は以下のように伝えられているようです。
秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)達の先祖である伊侶巨秦公は稲を多く持ち富裕であったが、稲を舂いて作った餅を的にすると、その餅が白鳥となって稲荷山に飛翔して子を産み社となった。伊侶巨秦公の子孫は先祖の過ちを認め、その社の木を抜いて家に植え寿命長久を祈った。
伏見稲荷大社-wikipedia-より
伏見稲荷大社の公式HPを見てみても、もう少し詳しく書かれてはありますが、だいたい同じ内容となっています。
伏見稲荷大社-伊奈利ご鎮座説話-
さて、この餅を的にした、という話はここ伏見稲荷大社の起源譚だけに見られるものではなく、「風土記」にはこのような説話が記されていたりします。
餅の的
昔、豐後ノ國球珠ノ郡ニヒロキ野ノアル所ニ、大分ノ郡ニスム人、ソノ野ニキタリテ、家造リ、田耕リテ、スミケリ。アリツキテ家トミ、タノシカリケリ。酒ノミアソビケルニ、トリアヘズ弓ヲイケルニ、マトノナカリケルニヤ、餅ヲクヽリテ、的ニシテイケルホドニ、ソノ餅、白キ鳥ニナリテ飛ビサリニケリ。ソレヨリ後、次第ニオトロヘテ、マドヒウセニケリ。アトハムナシキ野ニナリタリケルヲ、天平年中ニ速見ノ郡ニスミケル訓迩ト云ケル人、サシモヨクニギハヒタリシ所ノアセニケルヲ、アタラシトヤ思ヒケン、又コヽニワタリテ田ヲツクリタリケルホドニ、ソノ苗ミナカレウセケレバ、オドロキオソレテ、又モツクラズステニケリト云ヘル事アリ。
こちらの説話では餅を的にして射ると白鳥になって飛び去ってしまった、という所までは伏見稲荷大社の起源譚と同一の流れなのですが、それより後、次第に衰え、やがては無人の地になってしまったと全く逆の結末を迎える話となっているのです。
伊侶巨秦公の子孫は餅を的にすると言う祖先の過ちを認めて祀った所が「風土記」の説話と異なる点で、餅、ひいては稲の霊性を表したものであると受け取れます。
さて、かつては山中の三つの峯に社があったようなのですが、応仁の乱にて焼失してしまったようです。
その戦禍の過ぎ去った15世紀後半に、神仏習合の下に伏見稲荷本願所に真言宗東寺の末寺の愛染寺が神宮寺として建立されたようです。
神宮寺とは、それまで神道しかなかったところに仏教が伝来してきて以来、その受容をめぐって時には戦争なども行われながらも日本人が受け入れていったさいに生まれてきた考え方の一つで、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、解脱を欲しているという考えから、神祇の為に作られた寺院です。
これに伴い荼吉尼天が稲荷神とが同一視されるようになり、稲荷山でも信仰されていく事になります。
以降、長らく神宮寺として建立された愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進、出開帳を管理していくことになりましたが、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって1868年(慶応4年)に愛染寺や社内の仏殿、本殿内の仏像類は廃され、現在に至ります。
ですので、現在は稲荷山の麓に本殿があるのですが、稲荷山の山中にある3つの峯も信仰の重要な場所となっているのです。
さて、現地の様子です。
門前にはこのように屋台が並んでおり、祭りが無くとも賑わっています。
祭りのさいには、この道も物凄い数の参拝客で溢れかえる事になります。
ちなみに初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)神社となっているのだとか。
楼門とその両側にいる神使である狐。
稲荷神社といえば狐ですね。
楼門近くにあった境内の地図
非常に広い境内をこちらを見て回っていく事にします。
外拝殿
社殿
たくさんの願掛け鳥居が吊るされていました。
絵馬のような感覚ですね。
そう、伏見稲荷大社といえば千本鳥居。
稲荷山には信者から奉納された約1万基の鳥居があるそうで、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっています。
願い事が「通る」或いは「通った」御礼という意味から、江戸時代以降、鳥居が奉納されるようになったのだそうです。
これより千本鳥居の参道を通り抜け、3つの峯に向かいます。
道中、そこかしこに祀られた無数の小さな祠があります。
これらは「お塚」と呼ばれ、これまたその数1万基、あるいはそれ以上もあるのだとか。
中には下の写真ように幾つかの「お塚」がかたまり、小山のようになっている場所もあります。
三の峰
二の峰
そしてこちらが頂上、一の峰になります。
子供達と途中の茶屋で稲荷寿司をいただきながらのんびり上がってきましたので、大体2時間ぐらい要したと思います。
ここから下山になるのですが、
ちょうど良い感じに日が暮れ始めました。
実は伏見稲荷大社は拝観料の必要が無く、加えて閉門時間がありませんので、夜間にも千本鳥居のある参道を楽しむことが出来るようになっているのです。
かくして黒猫一家も、日中とはうってかわった雰囲気の支配する参道を楽しんできました。
写真ではかなり暗く写ってしまっていますが随所に照明が灯されており、歩くのには不自由しません。
京都の町の明かりを見る事の出来る場所もあります。
「お塚」も夜に見ると幻想的です。
本殿に戻ってきました。
楼門
最後にお狐さまに挨拶して、この地を後にしました。
伏見稲荷大社
場所:京都市伏見区深草藪之内町68
より大きな地図で 黒猫による京都府妖怪・伝承地地図 を表示
http://
[1回]
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和銅年間(708~715年)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まるといわれ、秦氏にゆかり深い神社です。
この地に社が鎮座することになった由緒は以下のように伝えられているようです。
秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)達の先祖である伊侶巨秦公は稲を多く持ち富裕であったが、稲を舂いて作った餅を的にすると、その餅が白鳥となって稲荷山に飛翔して子を産み社となった。伊侶巨秦公の子孫は先祖の過ちを認め、その社の木を抜いて家に植え寿命長久を祈った。
伏見稲荷大社-wikipedia-より
伏見稲荷大社の公式HPを見てみても、もう少し詳しく書かれてはありますが、だいたい同じ内容となっています。
伏見稲荷大社-伊奈利ご鎮座説話-
さて、この餅を的にした、という話はここ伏見稲荷大社の起源譚だけに見られるものではなく、「風土記」にはこのような説話が記されていたりします。
餅の的
昔、豐後ノ國球珠ノ郡ニヒロキ野ノアル所ニ、大分ノ郡ニスム人、ソノ野ニキタリテ、家造リ、田耕リテ、スミケリ。アリツキテ家トミ、タノシカリケリ。酒ノミアソビケルニ、トリアヘズ弓ヲイケルニ、マトノナカリケルニヤ、餅ヲクヽリテ、的ニシテイケルホドニ、ソノ餅、白キ鳥ニナリテ飛ビサリニケリ。ソレヨリ後、次第ニオトロヘテ、マドヒウセニケリ。アトハムナシキ野ニナリタリケルヲ、天平年中ニ速見ノ郡ニスミケル訓迩ト云ケル人、サシモヨクニギハヒタリシ所ノアセニケルヲ、アタラシトヤ思ヒケン、又コヽニワタリテ田ヲツクリタリケルホドニ、ソノ苗ミナカレウセケレバ、オドロキオソレテ、又モツクラズステニケリト云ヘル事アリ。
こちらの説話では餅を的にして射ると白鳥になって飛び去ってしまった、という所までは伏見稲荷大社の起源譚と同一の流れなのですが、それより後、次第に衰え、やがては無人の地になってしまったと全く逆の結末を迎える話となっているのです。
伊侶巨秦公の子孫は餅を的にすると言う祖先の過ちを認めて祀った所が「風土記」の説話と異なる点で、餅、ひいては稲の霊性を表したものであると受け取れます。
さて、かつては山中の三つの峯に社があったようなのですが、応仁の乱にて焼失してしまったようです。
その戦禍の過ぎ去った15世紀後半に、神仏習合の下に伏見稲荷本願所に真言宗東寺の末寺の愛染寺が神宮寺として建立されたようです。
神宮寺とは、それまで神道しかなかったところに仏教が伝来してきて以来、その受容をめぐって時には戦争なども行われながらも日本人が受け入れていったさいに生まれてきた考え方の一つで、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、解脱を欲しているという考えから、神祇の為に作られた寺院です。
これに伴い荼吉尼天が稲荷神とが同一視されるようになり、稲荷山でも信仰されていく事になります。
以降、長らく神宮寺として建立された愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進、出開帳を管理していくことになりましたが、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって1868年(慶応4年)に愛染寺や社内の仏殿、本殿内の仏像類は廃され、現在に至ります。
ですので、現在は稲荷山の麓に本殿があるのですが、稲荷山の山中にある3つの峯も信仰の重要な場所となっているのです。
さて、現地の様子です。
門前にはこのように屋台が並んでおり、祭りが無くとも賑わっています。
祭りのさいには、この道も物凄い数の参拝客で溢れかえる事になります。
ちなみに初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)神社となっているのだとか。
楼門とその両側にいる神使である狐。
稲荷神社といえば狐ですね。
楼門近くにあった境内の地図
非常に広い境内をこちらを見て回っていく事にします。
外拝殿
社殿
たくさんの願掛け鳥居が吊るされていました。
絵馬のような感覚ですね。
そう、伏見稲荷大社といえば千本鳥居。
稲荷山には信者から奉納された約1万基の鳥居があるそうで、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっています。
願い事が「通る」或いは「通った」御礼という意味から、江戸時代以降、鳥居が奉納されるようになったのだそうです。
これより千本鳥居の参道を通り抜け、3つの峯に向かいます。
道中、そこかしこに祀られた無数の小さな祠があります。
これらは「お塚」と呼ばれ、これまたその数1万基、あるいはそれ以上もあるのだとか。
中には下の写真ように幾つかの「お塚」がかたまり、小山のようになっている場所もあります。
三の峰
二の峰
そしてこちらが頂上、一の峰になります。
子供達と途中の茶屋で稲荷寿司をいただきながらのんびり上がってきましたので、大体2時間ぐらい要したと思います。
ここから下山になるのですが、
ちょうど良い感じに日が暮れ始めました。
実は伏見稲荷大社は拝観料の必要が無く、加えて閉門時間がありませんので、夜間にも千本鳥居のある参道を楽しむことが出来るようになっているのです。
かくして黒猫一家も、日中とはうってかわった雰囲気の支配する参道を楽しんできました。
写真ではかなり暗く写ってしまっていますが随所に照明が灯されており、歩くのには不自由しません。
京都の町の明かりを見る事の出来る場所もあります。
「お塚」も夜に見ると幻想的です。
本殿に戻ってきました。
楼門
最後にお狐さまに挨拶して、この地を後にしました。
伏見稲荷大社
場所:京都市伏見区深草藪之内町68
より大きな地図で 黒猫による京都府妖怪・伝承地地図 を表示
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