こちらも妖怪や奇憚が伝わっていると言うわけではないのですが、興味を引かれた場所ですのでメモ代わりに。
和歌山県随一の観光地である白浜。
中でも円月島は白浜のシンボル的な観光スポットであり、写真などを見た事のない人は殆ど居ないのではないかと思います。
大阪に住む黒猫一家も年に数度、白浜に遊びに出かけていますが、その円月島近辺で遊んでいた時に見つけました。
円月島に程近い砂浜。左手の島が円月島、右手が番所山になります。
グラスボートの発着場にもなっています。グラスボートからは海女さんショーも楽しめます。
あと余談ですが、この砂浜は結構貝殻拾いには良い場所かも。
宝貝の貝殻とか結構拾うことが出来ます。
本当はこの「南方熊楠記念館」に行きたかったのですが、子供達に振られてしまったので足を運ぶ事叶わず;;
せめてどんな場所かだけでもと思い近くまで行こうとした時に見つけました。
看板の右手、のぼりとの間に洞窟があったのです。そしてその洞窟の奥になにやら祀られている様子。
ここは円月島は本当に近い場所です。
訪ねて行った時はたまたま何らかの工事を行っていましたが、写真に写る防波堤のようなものの上を歩いていけば直ぐ近くまで行く事が出来ます。
もう風雨、潮の為か文字が殆ど読めないぐらい消えかかってはいますが案内板がありました。
かろうじて読み取れる事を羅列すると、
ここの名前は番所山不動堂ということ。
祭神は成田山不動明王であること。
祭祀紀元は昭和8年9月16日であることぐらい。
ただ後は御神像佛師が誰々であるとか誰によって開眼されたとかそういうこと程度しか書いていない様子でした。
そして洞窟を抜けて行くと・・・
番所山不動堂がありました。
さて帰宅後、由来を調べてみたのですがどうにも出てこず。
ただ、祭祀紀元が昭和8年9月16日との事で比較的新しいものの様です。
とはいえ古くからあった何らかの社、小祠などを元にする場合もあったりしますので、元々何かあったのかもしれません。
最も祭神が成田不動明王とされていますので、現在のモノは千葉県成田市の成田山新勝寺への信仰に寄るものであるのは明白です。
明治維新降、成田山新勝寺はお札を通じて、民衆の戦争に深く関わっています。
この寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていました。
満州事変から1945年の敗戦に至るまで、武運長久の祈願、お札を作っていたりしました。
また陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納したり、真珠湾攻撃にさいして大金を献納するなど当時の政治体制にも協力、布教活動を行っていました。
加えてこの不動堂の置かれていた番所山について調べてみると面白い事も分かってきます。
江戸初期の寛永20年(1643年)、紀州藩は外国船の渡来をおそれて鎖国を守る幕府の意に従って沿岸のの警備のために、紀州藩沿岸に十数ケ所の遠見番所を設けていました。
そして浦方への報告を敏速に行えるよう、要所に狼煙台を置いた。白浜の番所はその一つで瀬戸埼番所といわれていました。この瀬戸崎番所が置かれていた場所が、他でもないこの番所山なのだそうです。
瀬戸埼番所は、紀州藩 藩租の頼宣公がこの番所傍の「桔梗平」(現白浜水族館の場所)に別荘を建てて、しばしば来遊して水軍の鯨船を訓練したり、紀州藩の他の番所は土地の庄屋らに見張らせていましたが、瀬戸番所だけは田辺に住む与力に見張らせたりと、他より重要視していた節が見られるのだそうです。
番所山は重要な場所だったのですね。
とはいえ外国の船を発見した、という話は皆無とは言わないまでも殆ど無く、基本的には閑職であったようだと言われています。そして鎖国体制が終焉したという事もあり番所自体は明治2年に閉鎖されます。330年も異国からの招かざる来訪者を見張っていた歴史のある場所だったのですね。
これらを考え合わせると戦争へ向かう日本の中で、武運長久、出征する兵士たちが生きて戻れるようにとの願掛けの場として、かつて異国からの来訪を見張る場所であった場所に近隣住民の誓願によって建立された、というあたりがこのお堂建立の理由かなと想像を巡らせたりいたします。
番所山不動堂
場所:和歌山県西牟婁郡白浜町臨海
より大きな地図で 黒猫による和歌山県妖怪・伝承地地図 を表示
http://
[1回]
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和歌山県随一の観光地である白浜。
中でも円月島は白浜のシンボル的な観光スポットであり、写真などを見た事のない人は殆ど居ないのではないかと思います。
大阪に住む黒猫一家も年に数度、白浜に遊びに出かけていますが、その円月島近辺で遊んでいた時に見つけました。
円月島に程近い砂浜。左手の島が円月島、右手が番所山になります。
グラスボートの発着場にもなっています。グラスボートからは海女さんショーも楽しめます。
あと余談ですが、この砂浜は結構貝殻拾いには良い場所かも。
宝貝の貝殻とか結構拾うことが出来ます。
本当はこの「南方熊楠記念館」に行きたかったのですが、子供達に振られてしまったので足を運ぶ事叶わず;;
せめてどんな場所かだけでもと思い近くまで行こうとした時に見つけました。
看板の右手、のぼりとの間に洞窟があったのです。そしてその洞窟の奥になにやら祀られている様子。
ここは円月島は本当に近い場所です。
訪ねて行った時はたまたま何らかの工事を行っていましたが、写真に写る防波堤のようなものの上を歩いていけば直ぐ近くまで行く事が出来ます。
もう風雨、潮の為か文字が殆ど読めないぐらい消えかかってはいますが案内板がありました。
かろうじて読み取れる事を羅列すると、
ここの名前は番所山不動堂ということ。
祭神は成田山不動明王であること。
祭祀紀元は昭和8年9月16日であることぐらい。
ただ後は御神像佛師が誰々であるとか誰によって開眼されたとかそういうこと程度しか書いていない様子でした。
そして洞窟を抜けて行くと・・・
番所山不動堂がありました。
さて帰宅後、由来を調べてみたのですがどうにも出てこず。
ただ、祭祀紀元が昭和8年9月16日との事で比較的新しいものの様です。
とはいえ古くからあった何らかの社、小祠などを元にする場合もあったりしますので、元々何かあったのかもしれません。
最も祭神が成田不動明王とされていますので、現在のモノは千葉県成田市の成田山新勝寺への信仰に寄るものであるのは明白です。
明治維新降、成田山新勝寺はお札を通じて、民衆の戦争に深く関わっています。
この寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていました。
満州事変から1945年の敗戦に至るまで、武運長久の祈願、お札を作っていたりしました。
また陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納したり、真珠湾攻撃にさいして大金を献納するなど当時の政治体制にも協力、布教活動を行っていました。
加えてこの不動堂の置かれていた番所山について調べてみると面白い事も分かってきます。
江戸初期の寛永20年(1643年)、紀州藩は外国船の渡来をおそれて鎖国を守る幕府の意に従って沿岸のの警備のために、紀州藩沿岸に十数ケ所の遠見番所を設けていました。
そして浦方への報告を敏速に行えるよう、要所に狼煙台を置いた。白浜の番所はその一つで瀬戸埼番所といわれていました。この瀬戸崎番所が置かれていた場所が、他でもないこの番所山なのだそうです。
瀬戸埼番所は、紀州藩 藩租の頼宣公がこの番所傍の「桔梗平」(現白浜水族館の場所)に別荘を建てて、しばしば来遊して水軍の鯨船を訓練したり、紀州藩の他の番所は土地の庄屋らに見張らせていましたが、瀬戸番所だけは田辺に住む与力に見張らせたりと、他より重要視していた節が見られるのだそうです。
番所山は重要な場所だったのですね。
とはいえ外国の船を発見した、という話は皆無とは言わないまでも殆ど無く、基本的には閑職であったようだと言われています。そして鎖国体制が終焉したという事もあり番所自体は明治2年に閉鎖されます。330年も異国からの招かざる来訪者を見張っていた歴史のある場所だったのですね。
これらを考え合わせると戦争へ向かう日本の中で、武運長久、出征する兵士たちが生きて戻れるようにとの願掛けの場として、かつて異国からの来訪を見張る場所であった場所に近隣住民の誓願によって建立された、というあたりがこのお堂建立の理由かなと想像を巡らせたりいたします。
番所山不動堂
場所:和歌山県西牟婁郡白浜町臨海
より大きな地図で 黒猫による和歌山県妖怪・伝承地地図 を表示
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