予め宣告。今回は妖怪や伝承関係の場所ではありません。
妖怪関係の伝承地を回るついでに見かけに立ち寄った日神社(にちじんじゃ)について覚書のようなものです。
場所は日高川の畔にあります。
日高川の傍にありますので奥行きはそんなにない神社です。
拝殿
拝殿裏にある摂末社
本殿
(看板左側)
県指定文化財
建造物 日神社本殿 一棟
一間社隅木入春日造軒唐破風附檜皮葺 附棟札八枚
社伝によれば、日神社は、仁安2年(1167)吉田少将範秀が伊勢神宮の分霊を奉斎したのにはじまるといわれます。
現在の本殿は、様式手法からみて、江戸時代後期に再建されたもので、紅梁頭貫ばな支輪等、随所に地方色の強い彫刻を施しており、この地方にすぐれた技術者のいたことが知られます。
(看板右側)
町指定文化財
建造物 日神社 摂社 若宮神社 一間社隅木入春日造檜皮葺
日神社 摂社 稲荷神社 一間社隅木入春日造檜皮葺
日神社 厳島神社 一間社流造銅板葺
若宮神社、稲荷神社は小規模な春日造神社であり、構造形式はごく一般的なものであります。雲気をはく龍の庇木鼻、笈型を大きくおく背面の妻飾りは立派なも ので、本殿の脇をかためるには恥のない意匠をみせています。建造期は、本殿より少し下がって18世紀中期から後期ごろのものとみられます。
厳島神社は小規模な一間社流造で、千鳥破風、軒唐破風を付けてややはでに見せていますが、細部の意匠はごくおとなしいつくりです。絵様などをみますと、建立年代は本殿とそう変わらない時期と推定されます。
本殿裏にあった厳島神社とその案内書き
町指定文化財
建造物 厳島神(弁財天社) 一間社流作
厳島神社はもともと弁財天社として祀られていたものであるが、明治42年の神社合祀の際に、周辺の11社を合祀し現在の厳島神社となっている。元禄7(1694)年の田辺領神社改帳では若一権現(日神社)の末社として、若宮大明神社、稲荷大明神社とともに、「弁財天社」として厳島神社のことが載せられている。享保10(1725)年の田辺領在々神社改帳では「弁財天女」と寛政4(1792)年の田辺領神社書上帳でも「弁財天」として名前が載っている。
弁財天は七福神のひとりであり、その起源は古代インドの水神であるサラスヴァーティーであると考えられる。もともと河川の神という性格であったのが、日本でそのまま受け継がれている。そのことから弁財天は主に水辺で祀られることが多く、それは本社においても例外ではない。厳島神社が池の中島に祀られていることはその由緒を考えるうえで重要なものである。また、毎年3月3日の桃の節句には地元女性会(敬神婦人会)による祭礼が執り行われ、女性の守護神として信仰の対象となっている。
この神社で一番目を引いたのはこちら
県指定 有形民俗文化財
津波警告板
(昭和40(1965)年9月20日指定)
宝永4(1707)年10月4日の正午に、紀南地方を襲った宝永地震による被害をもっとも正確に記してる資料である。この地震は今日強く注意を呼びかけら れている南海地震、東南海地震、東海地震が同時に起こったものと考えられており、歴史上最大規模の地震ともいわれる。縦33.6cm、横60.6cm、厚 さ2.1cmの欅の板の墨書されている。これは高瀬村(現 白浜町富田)の村民が自分たちの体験を草堂寺中興第三世松岩令貞和尚に依頼し書いてもらったものである。
この警告板はもともと飛鳥神社へ奉納されていたものであるが、明治42(1909)年10月の神社合祀の際に現在の日神社へ移管されたものだと考えられる。
(表面)要約文
宝永4年(1707)年丁亥夏6月大きさ1寸から1寸余の害虫が無数に発生して稲を喰い荒らし、農民は大変憂慮したが、翌月になると退散した。同年冬10 月4日(陽暦10月28日)午の刻(正午頃)大地震が起こり、ゆれること1時間ばかり、大地山河破裂し民屋人家が倒壊破損した。その物凄さは天柱が折れ地 軸がくだけるようで、老若男女は天地が傾覆するかと思い、精神が迷乱して死生を知る者は1人も無い。そのような時に海上にわかに鳴りどよめいて白浪が天を つく勢いで山を崩し地をうがった。
このような時に人々は地震津波の襲来を聞いて驚き騒ぎ、気も魂も身にそわず、はだしで直に小倉山や飛鳥山に逃 げ上り身命を全うし、あるいは途中で大波にただよい流され半死半生で山に着き、幸いにして死を免れる者、あるいは家財に心を寄せ家を出ることおくれ濁浪に 溺れ没する者百数十人を出した。富田のうち、高瀬、芝、伊勢谷、溝端、高井、吉田、中村、西野(才野)は1軒残らず流出してたちまちにして野原となった。 嗚呼、前業のためであるのか、それとも天運のためか、天災とはいいながら前代未聞の珍事である。後代もし大地震があったら必ず津波高潮が来襲するものと知 り、早く覚悟して油断してはならない。後人の警めとするため地震津波の状況を記しておくものである。
宝永四年十月記し了る也。
右飛鳥宮の裡に納め置く。毎歳祭礼の節中見聞すべし。
(裏面)要約文
表書之通往古も有之様聞伝候へ共、此辺諸寺諸社相在記録も無之、世人々逃申事及平滞命失ひ申人々も多く有之候に付、板を削、草堂寺西塔大和尚様を御頼申、如斯書記、当社に申候。
毎年御祭礼之節皆々見聞罷成、大地震せは津波入来海と心得、無無断むすの山へ揚り可申事。
一 御祭礼社投御幣捧申県覚、寛文延宝の此又右衛門、次に又左門、次に五郎衛門、次に又右衛門、次に五郎左衛門、次に佐太夫、次に由□、元文申より又右衛門。
今回は妖怪や伝承がらみではなく、この所関心の高い地震に関する古い記録があったのでメモ代わりに記事にしてみた次第。
南海地震は既に何時来てもおかしくないと言われています。私の住む大阪も無縁の話ではないので取り上げてみました。
日神社
場所:和歌山県西牟婁郡白浜町富田1177
より大きな地図で 黒猫による和歌山県妖怪・伝承地地図 を表示
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場所は日高川の畔にあります。
日高川の傍にありますので奥行きはそんなにない神社です。
拝殿
拝殿裏にある摂末社
本殿
(看板左側)
県指定文化財
建造物 日神社本殿 一棟
一間社隅木入春日造軒唐破風附檜皮葺 附棟札八枚
社伝によれば、日神社は、仁安2年(1167)吉田少将範秀が伊勢神宮の分霊を奉斎したのにはじまるといわれます。
現在の本殿は、様式手法からみて、江戸時代後期に再建されたもので、紅梁頭貫ばな支輪等、随所に地方色の強い彫刻を施しており、この地方にすぐれた技術者のいたことが知られます。
(看板右側)
町指定文化財
建造物 日神社 摂社 若宮神社 一間社隅木入春日造檜皮葺
日神社 摂社 稲荷神社 一間社隅木入春日造檜皮葺
日神社 厳島神社 一間社流造銅板葺
若宮神社、稲荷神社は小規模な春日造神社であり、構造形式はごく一般的なものであります。雲気をはく龍の庇木鼻、笈型を大きくおく背面の妻飾りは立派なも ので、本殿の脇をかためるには恥のない意匠をみせています。建造期は、本殿より少し下がって18世紀中期から後期ごろのものとみられます。
厳島神社は小規模な一間社流造で、千鳥破風、軒唐破風を付けてややはでに見せていますが、細部の意匠はごくおとなしいつくりです。絵様などをみますと、建立年代は本殿とそう変わらない時期と推定されます。
本殿裏にあった厳島神社とその案内書き
町指定文化財
建造物 厳島神(弁財天社) 一間社流作
厳島神社はもともと弁財天社として祀られていたものであるが、明治42年の神社合祀の際に、周辺の11社を合祀し現在の厳島神社となっている。元禄7(1694)年の田辺領神社改帳では若一権現(日神社)の末社として、若宮大明神社、稲荷大明神社とともに、「弁財天社」として厳島神社のことが載せられている。享保10(1725)年の田辺領在々神社改帳では「弁財天女」と寛政4(1792)年の田辺領神社書上帳でも「弁財天」として名前が載っている。
弁財天は七福神のひとりであり、その起源は古代インドの水神であるサラスヴァーティーであると考えられる。もともと河川の神という性格であったのが、日本でそのまま受け継がれている。そのことから弁財天は主に水辺で祀られることが多く、それは本社においても例外ではない。厳島神社が池の中島に祀られていることはその由緒を考えるうえで重要なものである。また、毎年3月3日の桃の節句には地元女性会(敬神婦人会)による祭礼が執り行われ、女性の守護神として信仰の対象となっている。
この神社で一番目を引いたのはこちら
県指定 有形民俗文化財
津波警告板
(昭和40(1965)年9月20日指定)
宝永4(1707)年10月4日の正午に、紀南地方を襲った宝永地震による被害をもっとも正確に記してる資料である。この地震は今日強く注意を呼びかけら れている南海地震、東南海地震、東海地震が同時に起こったものと考えられており、歴史上最大規模の地震ともいわれる。縦33.6cm、横60.6cm、厚 さ2.1cmの欅の板の墨書されている。これは高瀬村(現 白浜町富田)の村民が自分たちの体験を草堂寺中興第三世松岩令貞和尚に依頼し書いてもらったものである。
この警告板はもともと飛鳥神社へ奉納されていたものであるが、明治42(1909)年10月の神社合祀の際に現在の日神社へ移管されたものだと考えられる。
(表面)要約文
宝永4年(1707)年丁亥夏6月大きさ1寸から1寸余の害虫が無数に発生して稲を喰い荒らし、農民は大変憂慮したが、翌月になると退散した。同年冬10 月4日(陽暦10月28日)午の刻(正午頃)大地震が起こり、ゆれること1時間ばかり、大地山河破裂し民屋人家が倒壊破損した。その物凄さは天柱が折れ地 軸がくだけるようで、老若男女は天地が傾覆するかと思い、精神が迷乱して死生を知る者は1人も無い。そのような時に海上にわかに鳴りどよめいて白浪が天を つく勢いで山を崩し地をうがった。
このような時に人々は地震津波の襲来を聞いて驚き騒ぎ、気も魂も身にそわず、はだしで直に小倉山や飛鳥山に逃 げ上り身命を全うし、あるいは途中で大波にただよい流され半死半生で山に着き、幸いにして死を免れる者、あるいは家財に心を寄せ家を出ることおくれ濁浪に 溺れ没する者百数十人を出した。富田のうち、高瀬、芝、伊勢谷、溝端、高井、吉田、中村、西野(才野)は1軒残らず流出してたちまちにして野原となった。 嗚呼、前業のためであるのか、それとも天運のためか、天災とはいいながら前代未聞の珍事である。後代もし大地震があったら必ず津波高潮が来襲するものと知 り、早く覚悟して油断してはならない。後人の警めとするため地震津波の状況を記しておくものである。
宝永四年十月記し了る也。
右飛鳥宮の裡に納め置く。毎歳祭礼の節中見聞すべし。
(裏面)要約文
表書之通往古も有之様聞伝候へ共、此辺諸寺諸社相在記録も無之、世人々逃申事及平滞命失ひ申人々も多く有之候に付、板を削、草堂寺西塔大和尚様を御頼申、如斯書記、当社に申候。
毎年御祭礼之節皆々見聞罷成、大地震せは津波入来海と心得、無無断むすの山へ揚り可申事。
一 御祭礼社投御幣捧申県覚、寛文延宝の此又右衛門、次に又左門、次に五郎衛門、次に又右衛門、次に五郎左衛門、次に佐太夫、次に由□、元文申より又右衛門。
今回は妖怪や伝承がらみではなく、この所関心の高い地震に関する古い記録があったのでメモ代わりに記事にしてみた次第。
南海地震は既に何時来てもおかしくないと言われています。私の住む大阪も無縁の話ではないので取り上げてみました。
日神社
場所:和歌山県西牟婁郡白浜町富田1177
より大きな地図で 黒猫による和歌山県妖怪・伝承地地図 を表示
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