[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
長野には源平合戦の折、平家の落ち武者が数多く流れ着いてきたと言われています。三谷保桑能の一族もそのような家柄だったようです。
保桑能がこの地に来たときにはまだ少年だったようで、この地で育ち、やがて地元では名を知らぬ者のいない弓の名手となったようです。そのころの様々な話が民話となって今に至るも地元に残されており、「河内滝畑の民話」でもいくつも目にすることができます。
ホソノオの蛇退治
ホソノオの蛇退治ちゅうてね、蛇を退治してね、その蛇の頭を持って来て、光滝寺に置いてあったんですよ。光滝寺に「天狗の間」っちゅうのがあって、そこに網を被せてね、ぼくら子供の時分にありましたよ。やっぱり、目はガラスはめてあったんですよ。
それ、いつの間にかなくなってしもうてねェ。
ホソノオはな、ヘンコツ(偏屈)もんや。人の世話になるのォ嫌いでな、そして猟が好きやね。夏は川い行き、冬は山い行くのな、そいでその、夜昼かまわんのやな、でその昔、凍豆腐をな、買いに行ったちゅうんや。ところがな、そのォ、凍豆腐やでェ、ところがどこい行ったんか、ミズノミちゅうから、どのへん行ったんかなァ、分かれへんけどもなァ、とにかく夜さりな、行ったんや。そんでそこで、とにかく不思議なことがあったらしいんや。不思議なことがあったんやけど、そうゆう不思議な、こうゆうことあったちゅうこと人にゆうたら、自分の命をちぢめられるちゅう戒めを受けたんか、そのことな、とうとう言わひんだ。自分ではな、不思議なことに出会うとるんやけど、とうとうゆわなんだゆうてな、死ぬまでな。
まあ、夜っちゅうのはな、獣の世界やもんな。
うん、なァ。
よく民話では、他言しないようにとの戒めを受けたにも関らず他人に漏らしてしまい、幸せが逃げていってしまうストーリーラインのものを目にしますが、こちらでは黙秘しきったようですね。珍しい形と思われます。
ホソノオが遭遇した不思議なこととはいったい何だったのでしょうね。
この後、ホソノオに関する話が六編ほども収録されています。
その中には横谷の集落から氏神である住吉さんまで矢文(内容は「所用があるため今日は座に出席できません」)を飛ばしたとか、矢を真上に射った所、三日三晩落ちてこなかったとか、弓にまつわる話が多かったです。
妖怪や不思議なものに関するものは以下の話が面白いでしょうか。
ホソノオ2
この天狗さんの話でね、滝畑でミタニホソノオという弓の名人がおって、あれヨコダニ(横谷)ですなァ。で、その弓の名人がある日、弓を持って狩りに出かけたところがその日に限って、兎一匹、きじ一匹出んかったと。
ほで、その山の上のほうへどんどん上がっていったら、頂上に大きな木があって、その木と木の間でワニグチがぶらんぶらんしてたと。
ほで、妙なとこでワニグチがぶらんぶらんしとると思て、ひとつこれでも土産に射て帰ろうかというので、それで近づいて行ってそのワニグチを射たと。そしたらやっぱり名人ですからうまいこと当たって、ワニグチが下へ落ちたと。さあうまいこと射たというんで拾いに行ったら、運悪うそのワニグチが峰の向こう側へ落ちたと。
ほで、えらい深い谷で、谷川が流れとって、もう拾いに行く道もなし、こらァしもたとゆうんで、ほて家へ帰ろうと思うて振り向いたら、腰痛おこって動けんよになったと。ほいで這うようにして家い帰ったところがどないしても動けん、飯も食えんと。
ほで、こらあ温泉でも行こうかちゅうて、どこの温泉か知らんが行ったと。ほて、温泉に近づいたら向こうから白い衣を着て赤ら顔の鼻の高い人がやって来て、そして、「お、ミタニ、お前も来たんか。」と。ほいて向こうから声かけたと。で、おかしいと思いながら行ったら、「お前も腰痛治しに来たんやろからわしの隣あいとるから、そこい入れ。詳しい話は今おいておきましょう。」とゆうんで、おかしいと思うて詳しい話を聞いたら、天狗がワニグチの姿をしていたところが、ホソノオがそれを誤って射たと。ほで、天狗が怪我したわけでしょう。ほで怒ってミタニホソノオも同じように腰痛おこさしたと。
こんなことで、わしの腰痛治る時分にゃお前の腰痛も治るやろって、はよから温泉療治をやったという。
(この後はホソノオがいかに矢が巧かったかという話なので省略)
話の中に出て来るワニグチとは、恐らく仏堂の軒先等に吊り下げる法具の一種の「鰐口」の事でしょうか?
山中の木に鰐口がぶら下がっていると、そりゃ話の種に土産にでもしたくなりますね。
ホソノオ5
ミタニな、ホソノオ屋敷ちゅうとこあんや。そりゃあな、ホソノオの猫退治ちゅうてな、ホソノオがな、畑に行って仕事ォしとるときに、猫がな、親に化けて来たんやって。ほて、家に帰ってみたらな、親は家におったんやって。ほで、猫がオラに化けたんかちゅうことになってな、ホソノオがな、その猫ォ退治したんやってな、そう聞いとるな。
(この後は槍の稽古していたホソノオの槍場の話など、別の話になるので省略)
ホソノオ6
ホソノオの屋敷がのォ、無うなったんはの、昔のォ、縁の下にこっくらいのしィろい(白い)狸がおったんやってェの。ほての、力持ちで弓の上手な人がおってのォ、「こんなとこに狸めがおったんや」ちゅうての、そん狸を射殺してんやてェ。ほったらの、その家が無うなってしもうたちゅうんやのォ。
ホソノオ6に語られた白狸の話はホソノオ1という話でも触れられていて、話のあらましは6と同じなのですが、「そん狸を射て殺してしもたでんな、家が絶えてしもうたちゅうこっちゃ。その白狸はな、神さんかなんぞやったんやろかい、そんな話かて聞いとるな。」と続けられています。
そして最後に「ホソノオの内墓はうっかり入ると祟るちゅうんや。」と括られています。
このような保桑能に関する話は「大阪伝承地誌集成」にも見る事が出来ました。
上の物と文体はかなり違い、要約のみという感じでしたが。
さてこうした話を下調べした上で現地に向かったのですが、赤子淵の記事でも書いたとおり、「自然休養村滝畑湖畔観光」にあった駐車場に停めさせていただき、徒歩で向かっていきます。
こちらには地図なども設置されていますし、この近辺の伝承地を訪ねるにあたっての基点としては非常に便利でした。
ここから歩いていくわけですが、
川のほとりを何かが飛んだな、と思い目を凝らすとカワセミの姿を写真に収めることが出来ました。
やはり滝畑は自然が豊かです。
川沿いの道を歩く事10分程でしょうか、キャンプ場へ向かう道の光滝寺参道と書かれた道があるので、直ぐにそれと分かります。
こちらを歩いて登っていきます。
分岐して直ぐのところに鉄の柵で車両は通れないようにしてありましたが、人は入れるようにしてありましたので気にせず奥へと参道を登っていきます。
そして登りきったところにあった門・・・なのですが連なる塀が有りませんので何のためにあるのでしょう?
ともあれ、この先が光滝寺の境内になるようです。
境内に入って直ぐにあった「炭焼不動堂」とその現地案内板。
炭焼不動堂
寺伝によると天慶六年三月(一〇四四年前)一夜不動明王が賣炭翁に化現して當寺の住持常操大僧都に白炭の製法を授けた。常操はこれを村人に伝えたので全村こぞって白炭を製するようになり、その後工夫をこらし、ツツジの梢を曲げて花鳥の姿を造り姿そのまゝに焼いたので花炭或は光滝炭とも称えられた。
戦国末から江戸時代にかけて茶道の隆盛に伴い堺方面に移出され茶席の白炭を滝畑炭と称されるまでになった。
幕末には狭山北条藩の専売品となる。
この不動堂は元背後の山腹鎮守屋敷に在ったが明治の初めにこの所に移築されたと云う。
厨子内に安置するのは弘法大師作と伝えられる丈、八尺余の不動明王の尊像である。
(本堂は庫裏の下方にあります、どうぞお参り下さい)
案内板の通り、庫裏の下方に向かいます。
(左) やや下り坂になった先に本堂が見えます。
(右) こちらにも案内板が。
市指定文化財
光滝寺境内
文化財の種類 名勝
番号 名二
指定年月日 昭和四十四年四月十七日
光滝寺は、飛鳥時代に欽明天皇の願いによって、行満上人が開いたといわれています。境内の裏手に光滝と呼ばれる滝があり、この滝にちなんで、寺の名前がつけられました。本尊は不動明王です。修験道とのつながりが深く、江戸時代には葛城修験二十八宿の第十四宿であり、西国第四番目の札所である槇尾山施福寺の奥院となっていました。
現在、境内には本堂、庫裏、炭焼不動堂が配置されています。本尊の不動明王立像は、複数の木製の部品を組み立てて造られており、このような造りは寄木造りと呼ばれています。
寺の周囲は、国定公園となっており、境内にも、動植物の種類が多く、境内の斜面地にシラカシを主とした常緑樹がしげっており、ヤブツバキ、アラカシ、タラヨウ、ネズミモチ、イヌガヤなどもみられます。湿気が多いため樹幹に着生するシダ類やラン類も多く生えています。
河内長野市教育委員会
平成十五年三月
そして本堂の方へ向かっていって、写真を撮ったつもりなのですが・・・何故か本堂の写真が無い・・・
アレレ?取り逃してしまったのか、あるいは大蛇の妖力が写真の記録を妨害したのかw
自分のミスを認めたくないので、きっと後者が原因なのでしょう^^ おのれ、大蛇めw
庫裏と本堂の間に渡り廊下が渡されていました。
本堂右手、渡り廊下の下にも何か祀られていましたが由緒不明。
本堂左手脇にあった小社。
中には丸い石が収められていました。何なのでしょう?
さらに本堂の裏手に回ってみました。
そこに興味深いものが。
写真の通り「龍王大神」と刻まれている石碑を確認。
上で紹介した話の通り、かつて三谷保桑能が退治し、持ち帰り、光滝寺の天狗の間に収められていたという大蛇の首は失われたとのことでしたが、どうやらそれを祀っているとおぼしき碑は現存してあることを確認いたしました。
最も修験道との関係が深く、滝の近くにある宿場として使われてきた寺なので、単純に光滝に棲まうと考えられていた龍を祀ったモノなのかも知れないのですが。
あいにく寺務所等に人の姿が無かったので確認することは出来ませんでした。
折角なので、寺の名前の由来にもなった光滝にも足を運んでみます。