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大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
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いくつか面白い話が載せられていたのですが、なかでも「千塚」に関して語られているものが興味を引きましたので、ついでに伝承地にも足を運んできています。
まずはその民話から。内容は黒猫が適当に編集しています。
埋められた鬼の手
宇多大森の里に夜ごと鬼が現れ年若い女を見つければ捉えて食らうなどの悪さをし、周辺の民は大変困っていました。
これを聞いた源頼光は、頼光四天王の一人である渡辺綱に鬼退治を命じました。
命を受けた渡辺綱は早速その地に向かいます。ちょうどその晩は闇夜だった事もあり、女物の着物をかぶるなど女装して宇多大森の里に向かっていきました。
待つこと暫く。怪しい風が吹き始めた丑三つ時の頃合、渡辺綱が周囲の様子を油断なく伺っていたところ、急に大きな手が現れ、女装した綱のえりがみをつかみました。
大きな手はそのまま綱を空中に引き上げようとしましたが、慌てることなくこれに斬りつけると、叫び声が上がり綱は振り落とされてしまいます。
同時に雲に乗った鬼が彼方へ逃げていくのが見えました。
しかし、刀で切りつけられた鬼の腕がそこに転がっており、綱は鬼を取り逃した事を悔しがりながらも、鬼の腕を土産に鬼退治を命じた頼光の元に返ります。
しかし、或いは鬼がこの腕を取り戻しにくるかも知れないので、ひつに収めて警戒させていました。
この後は「太平記」や「平家物語 剣巻」と同じような展開となります。
頼光の母に化けた鬼が手を見にやってきますが、正体を現したところで切りかかられ遁走していきます。
ただ、こちらの民話では綱の手元に鬼の手が残されたままであったとされ、高安の里の大きな木の下に埋めて、再び鬼に取り返されないようにしたと伝えられています。
このようなことから、この塚は「手塚」と呼ばれていましたが、今では古墳が多いことから「千塚」と呼ばれるようになりました。
出典は「河内鑑名所記」(1679年刊)のようですので、「古典籍総合データベース」で検索したところ、幸いにも原書がデータベース化されていましたので読みすすめてみると5巻に「手塚」として件の記述がありました。
河内鑑名所記
内容を読んでみると、いくらか違いのある点がありました。
原文では「鬼」ではなく「牛鬼」と記されています。
また、最後のくだりで民話では鬼が逃げた事になっていますが、原文では空が明るくなった頃に落ちて死んだとされていました。
そして鬼の手は石に封じられこの塚を手塚と呼んだ、という所で結ばれています。
大阪で牛鬼の話というのは珍しいですね。
ただ鬼の描写に牛鬼である要素があまりなく、あまり牛鬼という感じを受けません。
民話集の編者もその辺りを鑑みて、あえて鬼としたのかも知れませんね。
また、千塚という土地に関しては別の伝承も残されています。
これによると、旱魃に苦しめられたときに旅の陰陽師に天気の様子を占ってみてもらったのだそうです。
陰陽師は残念ながらと前置きをした上で、北の方から火の雨が降ってきて地上のものは残さず焼き尽くされるだろう、だからこの災いから逃げる方法を考えなさい、と告げると村から立ち去ったのだそうです。
この占いを聞いた村人たちは、近隣の村へ逃げたりしたほか、山麓に穴を掘ってやり過ごす事ができるようにしたのだそうです。
果たして、村人たちがそのような避難先から天の様子をうかがっていると、占いの通り、北の方から火の雨が降ってきて村も畑も全て焼き尽くしてしまったのだそうです。
村人たちは全てを失いましたが、命だけは助かった事を感謝し、この恐ろしい様子を語り伝えることにしたのだとか。
千塚はその時に村人たちが掘った穴が今に残されているのだと結ばれています。
これまた出典は「河内鑑名所記」のようですので原文を確認してみたところ、やはり5巻に「服部川千塚」として記述されていました。
民話集では「手塚」が「千塚」に転じたとされていましたが、「河内鑑名所記」には「手塚」と「服部川千塚」と分けられて書いてあるので、当時は別の塚として認識されていたのかもしれません。
このあたりのことを調べてみた所、正保郷帳(正保年間(1644年 - 1648年)或いはその少し後)の写しとされる河内国一国村高控帳によると、この時期には「千塚」の地名は確認できず、山畑地区とともに大窪村に含まれていたと考えられるのだとか。
その後、3か村に分村されたとされる正保年間から寛文年間あたりで村名として千塚が登場しだしたと見られているようです。
しかし、その名前の由来として旧高安郡の千塚、山畑、大窪、服部川、郡川地区あたりには古墳時代後期の小規模の古墳が多数存在しており、これらの総称として「高安千塚」(たかやすせんづか)と呼ばれていたのではないかとも言われているようで、村名とは別に現代で言うところの古墳群をさす言葉として「千塚」という言葉があった可能性も高いのでしょう。
よって民話集では「手塚」が転じて「千塚」になったという論で書かれていましたが、
・実際に民話集のように「千塚」という名前の由来になった
・今は知られていない「手塚」がかつてあった
のどちらかなのでしょう。
最も、この地に付いては高安古墳群があり、現在でも200基程の古墳群が現存している地です。
その多さからこのあたりを「千塚」と呼ぶようになったというのが意見としては主流となっており、「手塚」が「千塚」になった、という説には厳しい状況かもしれません。
高安古墳群とは、高安地区中部(千塚、山畑、大窪、服部川、郡川あたり)辺りにある古墳群で、現在は上述の通り200基ほどが残されているようですが、大正時代に行われた調査でかつては600基程あったと見られているのだそうです。
「千塚」という名に相応しい土地といえるのでしょう。
さて火の雨の話ですが、単純に読むと隕石の落下でもあったかのような記述ですが、勉強不足なだけかもしれませんが八尾に隕石が落下して被害をもたらしたという話は聞きません。
八尾近辺は古くから栄えていた土地ですので、或いは戦争で村が焼かれた事を暗喩しているのかも知れません。
「河内鑑名所記」が刊行された時期に比較的近い年代でも、1615年に大阪夏の陣で「八尾・若江の戦い」が行われています。
最も、「八尾・若江の戦い」ではもう少し西にある長瀬川堤近辺が主戦場であったようですが。
さて、現地案内です。
まずは下調べを行った「八尾市立 歴史民族資料館」。
入館料200円。
館内は写真撮影禁止なので、この記事で紹介した民話は殴り書きのメモをもとに起稿した次第です;;
場所は、奇しくも八尾市千塚三丁目180番1号という民話で語られた「千塚」の一角に立てられています。
資料館の前。或いはこの中に「手塚」が残されていたのかも・・・
資料館の前にあった付近の案内板。
これを元に直ぐ近くにある古墳に向かって見ます。
どの古墳を訪ねても良かったのですが、歴史民俗資料館の比較的近くに、知る人ぞ知る「河内ドルメン」と呼ばれる古墳があります。良い機会なので訪ねてみる事にしました。
ちなみにドルメンと言うのは支石墓(しせきぼ)のことで、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種のことです。
基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとります。
世界各地にこの様式の墓を見ることができますが、わけても朝鮮半島において数多くのドルメンが残されており、世界中にあるドルメンのうち、実に半分ほどが朝鮮半島で見ることが出来るといわれています。
日本においても九州地方でみることが出来るようですが、少数にとどまり、弥生時代前期が終わる頃には姿を消していった埋葬様式であると言われています。
さて、そのようなドルメンが何故この地に?と言うことですが・・・
大変紛らわしいのですが、実はこの古墳はドルメンではないらしい、という事になっています。
そもそも、明治時代初期に エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)が古墳などを調査・スケッチをし、その成果を「日本におけるドルメン」として紹介していますがその中の一つです。
それ以降、俗称として「河内ドルメン」という名が定着してしまいましたが、正式には「大窪・山畑36号墳」と言います。
その後、この近辺の埋葬様式等も含めた調査の結果、様式は定かではないものの古墳の墳丘の盛土が失われ、石室が完全に露出した状態のものであるとされているのだそうです。
この古墳は、以前は相当に辿りつくのが困難であったといわれていますが、数年前に直ぐ近くを「農免道路」が通ることになった事が大きく、アクセスは容易になりました。
言ってしまえば石室の大半がなくなり入口の枠組みのみが残っているという状態の古墳ですから、余り重要視されていない事もあり、案内等があるわけでもないので場所を見つけるのは少し手間が掛かるかもしれません。
附近で私が見つけたのは、唯一歴史民俗資料館前の案内板だけという状態でした。
辿り着くためには直感が要求されるでしょう。
(左) 農免道路から「河内ドルメン」を望む
(右) 「河内ドルメン」を少しアップ
近づくにはこの道を抜けていかなくてはなりません。
藪を抜けた先に漸く見えてきました。
河内ドルメンを両側面から
(左) 河内ドルメン脇から河内平野を望む
(右) 河内ドルメンに潜り込んで
古墳としての価値が少ないため、直接触ることも出来ます。
何が良いと言うわけではありませんが、何となく気に入った古墳となりました。
今回は高安古墳群の中で手近なところに寄りましたが、もう少し南に行くと、それこそ飽きるほど古墳を見ることもできるようです。
高安古墳群の画像
「千塚」の雰囲気を楽しむために高安古墳群を散策するのも良さそうです。
八尾市立 歴史民俗資料館
場所:大阪府八尾市千塚三丁目180番1号
大窪・山畑36号墳(河内ドルメン)
場所:大阪府八尾市山畑