ノヅチ(野槌)とは、本来「野の精霊(野つ霊:のつち)」を意味していたそうです。
もともとの「野つ霊」が、「野槌」へと変化していった過程の中で、いつの間にか槌に良く似た姿をしている、という属性が追加されてきたようです。
江戸期に石燕によって描かれた「今昔画図続百鬼」では、その姿と共に、
野槌は草木の霊をいふ。又沙石集に見えたる野づちといへるものは、目も鼻もなき物也といへり。
という注釈がつけられています。
枚方市に、このノヅチが主だと伝えられる場所「禁野車塚古墳」がありますので、いつものように現地に足を運んできました。
枚方市伝承文化保存懇話会編纂の「ひらかた昔ばなし」に以下の記述がありました。
ノヅチ伝説と禁野車塚
天の川下流の河畔に、北河内で屈指の大きさをもつ前方後円墳「禁野車塚」があります。この古墳にはいくつかの伝説がありましたが、この古墳を開発と盗掘から守ってくれたのはノヅチ伝説でした。
この塚にむやみに侵入したり悪さをする者には、この塚の主であるノヅチすなわちツチノコがたたりを与えるというのです。昭和四十年代、この古墳のまわりには水田がひろがり、秋には刈り取った稲の束がいくつも稲掛けにかけられて、稲刈りのすんだあとの田に並んでいました。
「ツチノコは胴の短いずんぐりとしたいきものらしい」、「いやそれは違う大きな蛇なのだ」。いつのまにか古墳の主はノヅチにされてしまいましたが、もちろん被葬者がノヅチというわけではありません。この土地の主というぐらいの意味だから、土地の精霊とでも考えておけばいいでしょう。
思えば水辺の精霊は、その正体が蛇であることがよくあります。河畔のこの古墳をその消滅から防ぐために、蛇にも似ているというノヅチを登場させたのは、土俗の信仰に生きた先人たちのすぐれた知恵があったことでしょう。
たとえそこが古墳であっても平気で潰すことが、このころ開発という名目で横行していました。ノヅチのたたりなどへとも思わない時代になり、今この古墳は国史跡として保存されました。
記述されている内容を見るに、ノヅチがツチノコの別称として語られているようです。
まだ訪ねていくことが出来ていないのですが、大阪府の南部ではツチノコは「コロ」と呼ぶようで同じ大阪府下とはいえ差があるのも面白いものです。
また、ツチノコはノヅチに似ていることから名づけられたという、ノヅチとツチノコは別の妖怪あるいは生物という説もありますが、ここではそれに言及せずに伝承で語られるまま受け取るようにいたします。
(左) 史跡 禁野車塚古墳
(右) 現地案内板
史跡 禁野車塚古墳
全長110メートルの前方後円墳で、牧野車塚古墳とともに枚方市内では屈指の大型古墳です。後円部の直径57メートル、同高さ9.9メートル、前方部の幅40メートルを測り、前方部を西に向けています。前方部はかなり削られていますが、後円部は二段に築成された様子が観察でき、葺石と埴輪の存在も認められています。内部構造や副葬品などについては明らかではありませんが、後円部上に板石が存在することから、主体部は竪穴式石室である可能性があります。
したがってこの古墳が築造された時期は、予想される主体部と墳丘の状態から4世紀末~5世紀初頭頃と推定できます。この地が淀川と天野川の合流点を臨むという良好な立地条件から、この地域の交通権を掌握した首長の墓と考えられます。
前方部分は現在公園になっています。
前方部の公園部分から後円部へ行ってみます
残念ながら左写真のような「文化財につき、この先 立入禁止」の立て札と、両写真に写っている虎ロープで立ち入ることが出来ないようにされていました。
それでも写真に写っているように、立ち入ろうと思えば簡単に入っていくことも可能ですが、やはりそういうことをするつもりは無いので散策がてら他の場所を見てまわります。
周囲を回りながら後円部を
後円部南側にあった、新しく立てられた様子の現地案内板。
史跡 禁野車塚古墳
禁野車塚古墳は、天野川右岸の低位段丘上に築造された前方部を西に向けた前方後円墳です。
1966年に墳丘測定、70年に範囲確認調査が実施され、埋葬施設は不明ながら、その規模は全長110m、後円部径57m、同高9.9m、前方部幅40mと、北河内屈指であり、4世紀中ごろの築造と推定され、天野川水系の古墳時代を考える上で不可欠の古墳として72年に現状の墳丘部分が国史跡に指定されました。
2006年には後円部南東側(現在地)で範囲確認調査が実施され、現地表下約2.5mにおいて後円部墳丘裾を検出することができ、後円部径が60m前後と、従来考えていたよりも大型になることが判明し、2007年に古墳南側の既存の公園部分と合わせて史跡の追加指定を受けました。
そして2008年の再測定調査の結果、全長120m、後円部径63m、前方部幅55mという規模の復元案が提示されるようになりました。また倒卵型気味の後円部に撥型(ばちがた)の前方部が取付き、後円部から前方部に至るスロープも明瞭であるという墳形の特徴が、奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)等に類似し、築造時期も4世紀初頭以前に遡る可能性が浮上するに至っています。
このように禁野車塚古墳は、大阪府内でも数少ない、最古クラスの前方後円墳であり、淀川左岸の古墳時代のはじまりを解明する上でも極めて重要な古墳と言うことができます。
箸墓古墳と類似ですか。。。
娘が学校で、学級新聞のテーマとして卑弥呼を取り上げてみたい、と言ってきたので、つい先日箸墓古墳も行って来た所なので、ちょっと縁を感じてしまいました。
ちなみに、「禁野車塚」という名称については、惟喬親王が車を乗り捨てた所であるがために車塚という伝説があるほか、或いは三韓より渡来せるものの多数が死んだ時、その中の高貴な者を葬ったという伝説があるのだそうです。
そういえば枚方市には真偽の程は議論の余地が大いにありそうですが、王仁の墓などと伝えられるものがある他、渡来人に関する話が随所に残されています。
そちらにも足を運んでみたいものです。
<<関連エントリー>>
妖怪等種類別エントリー一覧 (蛇・巳の項目)
禁野車塚古墳
場所:大阪府枚方市宮之阪5-381
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枚方市伝承文化保存懇話会編纂の「ひらかた昔ばなし」に以下の記述がありました。
ノヅチ伝説と禁野車塚
天の川下流の河畔に、北河内で屈指の大きさをもつ前方後円墳「禁野車塚」があります。この古墳にはいくつかの伝説がありましたが、この古墳を開発と盗掘から守ってくれたのはノヅチ伝説でした。
この塚にむやみに侵入したり悪さをする者には、この塚の主であるノヅチすなわちツチノコがたたりを与えるというのです。昭和四十年代、この古墳のまわりには水田がひろがり、秋には刈り取った稲の束がいくつも稲掛けにかけられて、稲刈りのすんだあとの田に並んでいました。
「ツチノコは胴の短いずんぐりとしたいきものらしい」、「いやそれは違う大きな蛇なのだ」。いつのまにか古墳の主はノヅチにされてしまいましたが、もちろん被葬者がノヅチというわけではありません。この土地の主というぐらいの意味だから、土地の精霊とでも考えておけばいいでしょう。
思えば水辺の精霊は、その正体が蛇であることがよくあります。河畔のこの古墳をその消滅から防ぐために、蛇にも似ているというノヅチを登場させたのは、土俗の信仰に生きた先人たちのすぐれた知恵があったことでしょう。
たとえそこが古墳であっても平気で潰すことが、このころ開発という名目で横行していました。ノヅチのたたりなどへとも思わない時代になり、今この古墳は国史跡として保存されました。
記述されている内容を見るに、ノヅチがツチノコの別称として語られているようです。
まだ訪ねていくことが出来ていないのですが、大阪府の南部ではツチノコは「コロ」と呼ぶようで同じ大阪府下とはいえ差があるのも面白いものです。
また、ツチノコはノヅチに似ていることから名づけられたという、ノヅチとツチノコは別の妖怪あるいは生物という説もありますが、ここではそれに言及せずに伝承で語られるまま受け取るようにいたします。
(左) 史跡 禁野車塚古墳
(右) 現地案内板
史跡 禁野車塚古墳
全長110メートルの前方後円墳で、牧野車塚古墳とともに枚方市内では屈指の大型古墳です。後円部の直径57メートル、同高さ9.9メートル、前方部の幅40メートルを測り、前方部を西に向けています。前方部はかなり削られていますが、後円部は二段に築成された様子が観察でき、葺石と埴輪の存在も認められています。内部構造や副葬品などについては明らかではありませんが、後円部上に板石が存在することから、主体部は竪穴式石室である可能性があります。
したがってこの古墳が築造された時期は、予想される主体部と墳丘の状態から4世紀末~5世紀初頭頃と推定できます。この地が淀川と天野川の合流点を臨むという良好な立地条件から、この地域の交通権を掌握した首長の墓と考えられます。
前方部分は現在公園になっています。
前方部の公園部分から後円部へ行ってみます
残念ながら左写真のような「文化財につき、この先 立入禁止」の立て札と、両写真に写っている虎ロープで立ち入ることが出来ないようにされていました。
それでも写真に写っているように、立ち入ろうと思えば簡単に入っていくことも可能ですが、やはりそういうことをするつもりは無いので散策がてら他の場所を見てまわります。
周囲を回りながら後円部を
後円部南側にあった、新しく立てられた様子の現地案内板。
史跡 禁野車塚古墳
禁野車塚古墳は、天野川右岸の低位段丘上に築造された前方部を西に向けた前方後円墳です。
1966年に墳丘測定、70年に範囲確認調査が実施され、埋葬施設は不明ながら、その規模は全長110m、後円部径57m、同高9.9m、前方部幅40mと、北河内屈指であり、4世紀中ごろの築造と推定され、天野川水系の古墳時代を考える上で不可欠の古墳として72年に現状の墳丘部分が国史跡に指定されました。
2006年には後円部南東側(現在地)で範囲確認調査が実施され、現地表下約2.5mにおいて後円部墳丘裾を検出することができ、後円部径が60m前後と、従来考えていたよりも大型になることが判明し、2007年に古墳南側の既存の公園部分と合わせて史跡の追加指定を受けました。
そして2008年の再測定調査の結果、全長120m、後円部径63m、前方部幅55mという規模の復元案が提示されるようになりました。また倒卵型気味の後円部に撥型(ばちがた)の前方部が取付き、後円部から前方部に至るスロープも明瞭であるという墳形の特徴が、奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)等に類似し、築造時期も4世紀初頭以前に遡る可能性が浮上するに至っています。
このように禁野車塚古墳は、大阪府内でも数少ない、最古クラスの前方後円墳であり、淀川左岸の古墳時代のはじまりを解明する上でも極めて重要な古墳と言うことができます。
箸墓古墳と類似ですか。。。
娘が学校で、学級新聞のテーマとして卑弥呼を取り上げてみたい、と言ってきたので、つい先日箸墓古墳も行って来た所なので、ちょっと縁を感じてしまいました。
ちなみに、「禁野車塚」という名称については、惟喬親王が車を乗り捨てた所であるがために車塚という伝説があるほか、或いは三韓より渡来せるものの多数が死んだ時、その中の高貴な者を葬ったという伝説があるのだそうです。
そういえば枚方市には真偽の程は議論の余地が大いにありそうですが、王仁の墓などと伝えられるものがある他、渡来人に関する話が随所に残されています。
そちらにも足を運んでみたいものです。
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禁野車塚古墳
場所:大阪府枚方市宮之阪5-381
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