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大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
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「源平盛衰記」の記述に拠るとされていますが、黒猫が原文を確認したところ、やや事情が異なるようです。
源平盛衰記 巻一の該当箇所の記述です。
清盛捕化鳥並一族官位昇進附禿童並王莽事
〔去程に〕夢見て、七日と申夜は、内裏に伺候したりけり。夜半計に及て、南殿に鵺の音して、一鳥ひめき渡たり。藤侍従秀方、折節番にておはしけるが、殿上より高声に、人や候\と被召けり。左衛門佐にて間近候ければ、清盛と答。南殿に朝敵あり、罷出て搦よと仰す。清盛こはいかに、目に見る者也とも、飛行自在にて天を翔けらん者をば、争か取べき、況暗さはくらし体も見えず、音計あらん者を、角とれと仰出さるゝ事の浅猿さよ、如何がはせんと思けるが、急度思直て、実や綸言と号せばや、様ある事也、天竺には号勅定、獅子を取大臣もあり、漢家には宣旨の使と名乗て、荒たる虎をとる者も有けり、我朝には任叡慮雲に響雷を取臣下も有けり、延喜御宇には、池の汀の鷺を取たる蔵人もあり、末代といへ共、日月地に墜給はず、争例を追ざるべき、取て進せばやと思ければ、畏てとて、音に付て踊懸る処に、、此鳥騒て左衛門佐の左の袖の内に飛入、則取て進せたり。叡覧あれば実に小き鳥也、何鳥と云事を不知食、癖物なりとて有御評定。よく\見れば毛じゆう也。毛じゆうとは、鼠の唐名也。加様の者までも皇居に懸念をなしけるにや、博士召せとて召れたり。占申けるは、此事漢家本朝に希也、但垂仁天皇三年二月二日、毛じゆう皇居に其変をなす、武者所蒙仰とらんとしけるに、不取得して門外に飛出ぬ、此故に七年の大疫癘、七年の大飢饉、七年の大兵乱なりければ、廿一年の間、上下万人其愁絶ず、而るを清盛綸言の下に、朝威を重じて怪鳥を取事を得たり、尤吉事に候、天下十六箇年の間、風雨時に随ひ、寒暑おりを不可■と奏し申ければ、偖は希代の吉相にやとて、南台の竹を召、中に篭て、清水寺の岡に埋れたり。御悩の時に勅使立て、被含宣命時、毛じゆう一竹が塚と云は是也。
こちらの妖退治の主役は平清盛。
さて、よく読めば「鵺の音して」とされているのみで、妖怪として知られる「鵺」ではない様子。
「鵺の音して」というのは、鵺鳥の声を聞いたという事でしょう。
そして実際に捉えたところ、実に小さい鳥であった(実に小き鳥也)、その上、「よくよく見れば毛じゆう也。毛じゆうとは、鼠の唐名也」と続く訳ですから。
それにしても、毛じゅうとは、鼠の中国での名である、とされている割に、「此事漢家本朝に希也、但垂仁天皇三年二月二日、毛じゆう皇居に其変をなす、武者所蒙仰とらんとしけるに、不取得して門外に飛出ぬ、此故に七年の大疫癘、七年の大飢饉、七年の大兵乱なりければ、廿一年の間、上下万人其愁絶ず」と中々厄介なモノのようです。
やはり鼠とは別の妖と考えるべきでしょう。最も本来であれば「鵺」と称すべきではなく、鵺鳥の声を出す「毛じゅう」と呼ぶべき妖怪であるように思われます。
さて、この妖。退治された後は竹の中に入れられ、清水寺の岡に埋められたとあります。
そして、その場所は「毛じゆう一竹が塚」と名付けられたようです。
さて平成の現在、この「毛じゆう一竹が塚」こと「毛朱一竹塚」というのが何処にあるのかというと・・・
実は大正時代まで残っていたようなのですが、残念ながら失われてしまったようです。
そしてかつてあったその場所とは、観光客の賑わう「三寧坂(三年坂)」であるとの事です。
京都へ遊びにいきがてら、早速足を運んでまいりました。
実は黒猫一家が清水に遊びに行くのは今年2度目になります。
前回、清水寺を目指して行ったのはよいのですが、清水坂にある土産物屋の物量攻撃に破れ、拝観時間が終わってしまい、すごすごと引返してしまったのです。
そして2度目のこの日、清水寺を目指して向かっている最中、三寧坂(三年坂)の写真もキッチリ撮影してきました。
三寧坂(三年坂)を登りきったところにある碑。
名前の由来には諸説あるようです。
大同三年(807年)に完成したから三年坂という説と、この坂の上の清水にある子安観音へ「お産が寧かでありますように」と祈願するために登る坂であることから産寧坂と呼ばれるようになったという説が有力なのだとか。
あとよく言われるのが、この坂で転ぶと三年後に死んでしまうという話。
確かこの直ぐ近くにある二年坂にも類話があったような気もします。
鵺或いは毛じゅうとは直接関係がないとは思いますが、妖怪が埋められていると伝えられている地で、このような都市伝説が作られているというのも面白いものです。
さて、それにしても何故この地に鵺が埋められたのかという事ですが・・・
実は清水寺のある地というのは、古来から葬送の地であったことが知られています。
そしてその方法というのが、鳥葬や風葬と呼ばれる形式のもので、清水坂の右手の谷間がまさにその地であり、「鳥辺野」と呼ばれています。
つまり「毛朱一竹塚」はそういった鳥葬の地の北側の岡に位置するのであり、実に小さい鳥であった「毛じゅう」が弔われるにはある意味最適な場所であったのかもしれません。
この地の西側には六道の辻があり、此方と彼方の境界として京の人々に意識されてきたようですし、この地は彼方の領域だったのでしょう。
清水への参拝客で賑わう清水坂の人込を眺めながら、道行く人はそういった葬送の歴史は知らないのであろうなぁ、と思いつつ、黒猫も家族と清水坂を楽しんできました。
三寧坂(三年坂)
場所:京都府京都市東山区清水
PS:黒猫一家による、この度の第二次清水寺攻略作戦も、敵軍土産物屋の物量作戦により、残念ながら失敗に終わる。
近く、入念な作戦検討の上、第三次清水寺攻略作戦の実施を誓い、鳥辺野の地を後にした・・・合掌orz