井戸の起こりとして水神である竜が教えた、僧が法力で、という話は良く聞きくことができます。
堺市堺区にある開口神社の西門近くにある金竜井にも、まさにそのような話が伝えられています。
「大阪伝承地誌集成」に「金竜井のおこり」として以下の話が記されています。
いつのころからか堺の町は旱魃に見舞われた。灼熱の太陽が遠慮なく直射する毎日で、田畑は涸れ草木は枯れ始め人々は喘ぎ、青いのは紺碧の大空のみである。
雨乞い祈祷を何度も訴えられた海会寺の和尚広智は、永年の修法で得たあらゆる秘術を尽くして祈祷したが、一滴の水も落ちてこない。
大半の井戸は干し上がり、水を求めてさまよう人たちの声を聞きながら、己の未熟さを嘆くばかりであった。
そんなある日の暮、白髪金面の老人が訪れる。
老人は今まで歩いてきた人生を振り返ると残虐非道の限り、貪欲のため他人を憎み呪い傷つけてこの年に達した、もう死にたいと涙を流して畳に頭をこすりつける。
柔和な微笑を浮かべて一言も口をはさまず聴き入っていた広智は、長い長い身の上話が済むと、穏やかな口調で雨乞い祈祷もできぬ愚かしさを話し、
「人間はみんなそんなものです。どうぞ過去は忘れてください。過ぎたことなど今さらどうにもならない。さっぱいと捨てることです。そうすれば明日が見えてきます。」
と禅の妙諦を教える。
ようやく晴れやかな顔になった老人は、
「お蔭で生きる勇気が湧いてきました。御礼に和尚さまがお困りの水を差し上げましょう」と、懐中から数枚の鵜の羽を取り出し、
「これを庭に撒いて、翌朝白露のおりている羽の下を掘りなさい」と教えて去る。
翌朝広智が調べると、ふしぎなことに一枚だけ白露がある。
早速掘らせてみると、たちまち清冽な水がこんこんと吹き出した。
村人たちは大喜び、争って並び容器に水を詰めて持帰る。
広智は老人に知らせて御礼をいおうと寺男に探させるがわからない。
何日か経って寺男は、叢を老人とは思えぬ速度で歩いている老人をみつけた。
まるで滑っていくようだ。
あわてて追いかけたが叢が深くなり、大きな古池の前で見失った。
「ひゃあ!」寺男は飛び上がった。
金鱗を輝かせた巨大な大蛇が池水を蹴散らして消えていく。
海会寺は現在南旅篭町東三丁(堺区)にあるが、元弘二年(1332)広智(乾峰)和尚を開山に創建されたのは、現在の開口神社(堺区甲斐町東一丁目)西門前である。
大蛇が教えた井戸は「金龍井」と呼ばれ、井戸のみ同神社西門前に保存される。
また、大蛇の棲家だった古池は現存しないが、市之町東二丁(堺区)あたりにあり、埋め立てられた後も永く「蛇谷町」の町名になっていた。
開口神社公式ホームページのコンテンツ「
ご由緒と伝説」内にも「金竜井の由来」として類似の話が記されています。
また、同
開口神社公式ホームページ「
ご由緒と伝説」に、「みむらん坊」という天狗話も残されているようです。
詳細(そんなに長い話ではありませんが)は公式HPを参照していただくとして、概略だけでも書くと、
木戸、原、開口村の三村の社が合併したころ、この村人のことを「みむらん坊」と言われたそうです。
その中に一人、一日千里を移動することの出来る、と豪語するものがおり、その者のことを「みむらん坊天狗」と言ったそうです。
「みむらん坊天狗」は神社本殿前の楠の上に住んでいたようですが、ある日奈良の天狗との勝負に負けたことが切欠で、その天狗の下に行ってしまったのだそうです。
吉野山に今でも立派な朱塗りの桜門があるそうですが、それは「みむらん坊天狗」がこの神社にあった大門をそこに運んだものだと伝えられているそうだ。
というものです。
木戸、原、開口村の三村の社が併合されたのは天永四年(1113年)とされますので、平安時代の頃の話です。
しかし伝承にある吉野山の桜門とは、どの寺の門のことであるのかはちょっと分かりませんでした。
将来、吉野山の方に訪ねていく機会があって、そこで聞く話とこの話が繋がることがあれば良いな、と期待をよせつつ・・・
東門と現地案内板
開口神社は、神功皇后により創建されたと伝えられ、奈良時代には開口水門姫神社とも称せられています。港を護る役割をもち、最古の国道といわれる竹内街道・長尾街道の西端にありました。
また、行基により、念仏寺も建立されたといわれています。
その後、平安末期の天永4年(1113)、開口村・木戸村・原村の三村の神社が合わさって、三村宮(又は三村明神)とも称されました。
念仏寺の通称が「大寺」であったため、念仏寺が廃寺となった今も、堺の人々は「大寺さん」と愛着をこめて呼んでいます。
明治時代には、本神社境内に、現在の堺市役所、大阪府立三国丘高等学校、大阪府立泉陽高等学校、堺市立第一幼稚園などが置かれたこともありました。
堺にゆかりの深い絵師、土佐光起が本神社の創建を描いた「大寺縁起」や古くから伝来する「伏見天皇宸輪御歌集」、「短刀(銘吉光)」は、重要文化財に指定されています。
開口神社の社殿。
「みむらん坊天狗」が棲んだという楠は、この写真に収められている範囲にあったのでしょうね。
そして西門すぐ脇にある金竜井へ。
境内からは、少し分かりにくいですが西門から続く参道(?)と民家の間にある小路を進むと、金竜井前に行く事が出来ます。
また後から気が付いたのですが、商店街側からも行く事が出来るようになっていました。
海会寺金龍井
臨済宗東福寺派海会寺は、元弘2年(1332)、洞院公賢(1291~1360)が草創し、乾峯士曇(1285~1361)を招いて開山とした寺院です。
天正13年(1585)頃までは甲斐町東にあり、その後大町東に移転し、さらに慶長20年(1615)大阪夏の陣の大火以降現在の南旅篭町東に移転しました。
海会寺金龍井(海会寺井)の名称は、海会寺がこの甲斐町東付近にあった頃時代に掘られたこと、乾峯士曇が干ばつのときに龍神に祈ったところ、老人に化身した鬼面龍神が現れ井戸を掘る場所をおしえたという由緒があることにちなんでいます。
室町時代の記録「角虎道人文集」には、この井戸は「泉南第一の井戸」であると書かれています。また江戸時代の記録「全堺詳志」には「豆腐製造」に、同じく江戸時代の記録である「和泉志」には「茶の湯」に適した水を出す井戸であると書かれています。このように古くから名水を産する井戸として広く知られていたことが分かります。
1992年10月
堺市教育委員会
この現地案内板に記載されている伝承は、少し公式ホームページ等に記されている伝承と異なりますね。
最後に、かつて蛇谷があった場所という、市之町東二丁付近ですが、
(開口神社北東角より撮影)
ご覧のように谷であった面影はなく、宅地造成されていました。
開口神社
場所:大阪府堺市堺区甲斐町東2-1-29
公式ホームページ
より大きな地図で 大阪近郊妖怪・伝承地図 を表示[2回]
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「大阪伝承地誌集成」に「金竜井のおこり」として以下の話が記されています。
いつのころからか堺の町は旱魃に見舞われた。灼熱の太陽が遠慮なく直射する毎日で、田畑は涸れ草木は枯れ始め人々は喘ぎ、青いのは紺碧の大空のみである。
雨乞い祈祷を何度も訴えられた海会寺の和尚広智は、永年の修法で得たあらゆる秘術を尽くして祈祷したが、一滴の水も落ちてこない。
大半の井戸は干し上がり、水を求めてさまよう人たちの声を聞きながら、己の未熟さを嘆くばかりであった。
そんなある日の暮、白髪金面の老人が訪れる。
老人は今まで歩いてきた人生を振り返ると残虐非道の限り、貪欲のため他人を憎み呪い傷つけてこの年に達した、もう死にたいと涙を流して畳に頭をこすりつける。
柔和な微笑を浮かべて一言も口をはさまず聴き入っていた広智は、長い長い身の上話が済むと、穏やかな口調で雨乞い祈祷もできぬ愚かしさを話し、
「人間はみんなそんなものです。どうぞ過去は忘れてください。過ぎたことなど今さらどうにもならない。さっぱいと捨てることです。そうすれば明日が見えてきます。」
と禅の妙諦を教える。
ようやく晴れやかな顔になった老人は、
「お蔭で生きる勇気が湧いてきました。御礼に和尚さまがお困りの水を差し上げましょう」と、懐中から数枚の鵜の羽を取り出し、
「これを庭に撒いて、翌朝白露のおりている羽の下を掘りなさい」と教えて去る。
翌朝広智が調べると、ふしぎなことに一枚だけ白露がある。
早速掘らせてみると、たちまち清冽な水がこんこんと吹き出した。
村人たちは大喜び、争って並び容器に水を詰めて持帰る。
広智は老人に知らせて御礼をいおうと寺男に探させるがわからない。
何日か経って寺男は、叢を老人とは思えぬ速度で歩いている老人をみつけた。
まるで滑っていくようだ。
あわてて追いかけたが叢が深くなり、大きな古池の前で見失った。
「ひゃあ!」寺男は飛び上がった。
金鱗を輝かせた巨大な大蛇が池水を蹴散らして消えていく。
海会寺は現在南旅篭町東三丁(堺区)にあるが、元弘二年(1332)広智(乾峰)和尚を開山に創建されたのは、現在の開口神社(堺区甲斐町東一丁目)西門前である。
大蛇が教えた井戸は「金龍井」と呼ばれ、井戸のみ同神社西門前に保存される。
また、大蛇の棲家だった古池は現存しないが、市之町東二丁(堺区)あたりにあり、埋め立てられた後も永く「蛇谷町」の町名になっていた。
開口神社公式ホームページのコンテンツ「
ご由緒と伝説」内にも「金竜井の由来」として類似の話が記されています。
また、同
開口神社公式ホームページ「
ご由緒と伝説」に、「みむらん坊」という天狗話も残されているようです。
詳細(そんなに長い話ではありませんが)は公式HPを参照していただくとして、概略だけでも書くと、
木戸、原、開口村の三村の社が合併したころ、この村人のことを「みむらん坊」と言われたそうです。
その中に一人、一日千里を移動することの出来る、と豪語するものがおり、その者のことを「みむらん坊天狗」と言ったそうです。
「みむらん坊天狗」は神社本殿前の楠の上に住んでいたようですが、ある日奈良の天狗との勝負に負けたことが切欠で、その天狗の下に行ってしまったのだそうです。
吉野山に今でも立派な朱塗りの桜門があるそうですが、それは「みむらん坊天狗」がこの神社にあった大門をそこに運んだものだと伝えられているそうだ。
というものです。
木戸、原、開口村の三村の社が併合されたのは天永四年(1113年)とされますので、平安時代の頃の話です。
しかし伝承にある吉野山の桜門とは、どの寺の門のことであるのかはちょっと分かりませんでした。
将来、吉野山の方に訪ねていく機会があって、そこで聞く話とこの話が繋がることがあれば良いな、と期待をよせつつ・・・
東門と現地案内板
開口神社は、神功皇后により創建されたと伝えられ、奈良時代には開口水門姫神社とも称せられています。港を護る役割をもち、最古の国道といわれる竹内街道・長尾街道の西端にありました。
また、行基により、念仏寺も建立されたといわれています。
その後、平安末期の天永4年(1113)、開口村・木戸村・原村の三村の神社が合わさって、三村宮(又は三村明神)とも称されました。
念仏寺の通称が「大寺」であったため、念仏寺が廃寺となった今も、堺の人々は「大寺さん」と愛着をこめて呼んでいます。
明治時代には、本神社境内に、現在の堺市役所、大阪府立三国丘高等学校、大阪府立泉陽高等学校、堺市立第一幼稚園などが置かれたこともありました。
堺にゆかりの深い絵師、土佐光起が本神社の創建を描いた「大寺縁起」や古くから伝来する「伏見天皇宸輪御歌集」、「短刀(銘吉光)」は、重要文化財に指定されています。
開口神社の社殿。
「みむらん坊天狗」が棲んだという楠は、この写真に収められている範囲にあったのでしょうね。
そして西門すぐ脇にある金竜井へ。
境内からは、少し分かりにくいですが西門から続く参道(?)と民家の間にある小路を進むと、金竜井前に行く事が出来ます。
また後から気が付いたのですが、商店街側からも行く事が出来るようになっていました。
海会寺金龍井
臨済宗東福寺派海会寺は、元弘2年(1332)、洞院公賢(1291~1360)が草創し、乾峯士曇(1285~1361)を招いて開山とした寺院です。
天正13年(1585)頃までは甲斐町東にあり、その後大町東に移転し、さらに慶長20年(1615)大阪夏の陣の大火以降現在の南旅篭町東に移転しました。
海会寺金龍井(海会寺井)の名称は、海会寺がこの甲斐町東付近にあった頃時代に掘られたこと、乾峯士曇が干ばつのときに龍神に祈ったところ、老人に化身した鬼面龍神が現れ井戸を掘る場所をおしえたという由緒があることにちなんでいます。
室町時代の記録「角虎道人文集」には、この井戸は「泉南第一の井戸」であると書かれています。また江戸時代の記録「全堺詳志」には「豆腐製造」に、同じく江戸時代の記録である「和泉志」には「茶の湯」に適した水を出す井戸であると書かれています。このように古くから名水を産する井戸として広く知られていたことが分かります。
1992年10月
堺市教育委員会
この現地案内板に記載されている伝承は、少し公式ホームページ等に記されている伝承と異なりますね。
最後に、かつて蛇谷があった場所という、市之町東二丁付近ですが、
(開口神社北東角より撮影)
ご覧のように谷であった面影はなく、宅地造成されていました。
開口神社
場所:大阪府堺市堺区甲斐町東2-1-29
公式ホームページ
より大きな地図で 大阪近郊妖怪・伝承地図 を表示[2回]
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