この所、かみさんの仕事が忙しいらしく、土曜日も仕事に出かけることが多いです。
よって、今度は下の息子と一日過ごすのに、黒猫の趣味に付き合せて堺市の伝承地をふらふらしてきました。
まず目指したのは、大蘇鉄で有名な妙国寺です。
息子はまだ2歳なので、一日中家にいるとぐずり出すので、散歩もかねてのお出かけです。
今回は、恵比寿町から阪堺線(路面電車)を利用して現地へ向かいました。
これなら運転手さんのすぐ脇で風景を見ることが出来ますし、子供受けすると思ったのですが・・・
ただ、のんびり電車の旅をするのは良かったのですが、のんびりしすぎて息子は寝付いてしまいました。
最寄り駅である、「妙国寺前」で下車。少し歩くと下のように道に碑も立っているのですぐ分かりました。
(左) 右 そてつ
(左) 左 とさのさむらいはらきりのはか
黒猫の主目的は泣き蘇鉄ですが、妙國寺といえば幕末の堺事件で土佐藩士11人が切腹した場としても知られています。
妙國寺到着です。
妙國寺
この大ソテツは、織田信長によって安土城へと移植されたのですが、毎夜「堺へ帰ろう、妙國寺へ帰ろう」とすすり泣き、激怒した信長が、ソテツを切ったところ切り口から鮮血が流れ、さすがの信長も気味が悪くなり、当寺に返されたといわれています。
妙國寺は、永禄5年(1562)、堺を支配した三好四兄弟の一人、三好実休(義賢)と日珖上人の尽力により建てられました。日珖上人は、堺の豪商、油屋(伊達)常言の息子です。堺での日蓮宗の代表的な寺院として、商人や来堺した戦国武将たちの信奉を受け、朝廷より勅願寺と定められました。境内には国の天然記念物に指定されている大ソテツがあります。また、幕末フランス兵との間でおこった「堺事件」において、十一人の土佐藩士が切腹した場所でもあります。
堺事件
慶応4年(1868)、当時は外国に対して開港地となっていなかったにもかかわらず、堺港に上陸してきたフランス兵と、堺の警備にあたっていた土佐藩士との間で争いが起こり、フランス人多数が死傷しました。この事件は国際問題となり、責任を追及された土佐藩士十一名がここ妙國寺の境内にて切腹しました。彼らは北側にある宝珠院に葬られました。この事件を題材に、森鴎外の作品をはじめとして多くの小説などが書かれています。
山門をくぐり、山内に入っていきます。
大蘇鉄を拝観する為には受付まで、と看板が上がっているので、早速受け付けに。
受付で拝観料400円を払い、いろいろお話を伺わせていただくことが出来ました。
また、宝物殿も見せていただくことが出来ました。
宝物殿の中には切腹した土佐藩士の遺品や遺髪まで残されていました。
黒猫はいわゆる零感と呼ばれる、霊感というものに鈍感なクチですが、それでも背筋に何かくるものを感じました。
他、秀吉の朝鮮出兵の際、加藤清正が奉納したという朝鮮王子の持っていたという直剣も見せていただくことが出来ました。
この直剣、白木で柄と鞘が拵えられていたのですが、直剣に白木のそれらというのは非常に違和感がありますね。
しかし、ガイドの方がこの剣の説明をして頂けたのですが、日本の古い絵図にこの剣に良く似た直剣が描かれているのをもって、日本の直剣が朝鮮半島に渡り、それを朝鮮の王族が帯剣していたのかも、という説の説明もされていたのですが・・・
しかし黒猫の拙い知識では、秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮半島の兵士たちは主に直剣を携えていたのでは?
また、製造場所の来歴を知りたいのであれば、鋳造か鍛造かだけでも調べてみるのは難しいものなのでしょうか。朝鮮半島を含む大陸製は鋳造、日本であればこの時期はほぼ鍛造では?
考古学では青銅器等の出土品のそれらを推定するときには、肉眼による形状判断と、X線透過写真による確認、成分分析などから行うらしいのですが・・・
どうも絵画等から形状が似ているから云々、というのは何も裏づけがなく、説にもなっていないように思います。
さて、宝物殿を案内していただいた後、いよいよ庭園を案内していただくことが出来ました。
この蘇鉄に関しては、信長が気味悪がり堺に返した後の後日談もあるようで、頂いたパンフレットに記されていました。
日珖聖人は切り刻まれた鉄蔦を哀れに思い、境内に植えなおし、一千部の法華経を読まれ、満願の日に青い芽が吹き出し、その夜、夢枕に蛇身の白髪老人が現れ「供養忝なし、報恩のため三つの誓を立てん、女には生みの苦しみを和らげ、苦難(刀難)には、その災厄を逃れしめ、福運のえしきものには福徳を授くく可し」と、お礼を申され、姿を消されました、妙國寺勧請の宇賀徳正龍神(通称・宇賀神)様です。
これが堺の龍神信仰の始まりであり、また鉄蔦が蘇えった事から、蘇鉄蔦・蘇鉄蕉と呼ばれ、いつ頃からか蘇鉄と言われるようになりました。
樹木に龍神が宿る龍神信仰・巳信仰は日本全国にそれこそ無数にありますが、蘇鉄に龍神が宿る、というのは非常に珍しい気がします。
また、当然の事ながら堺事件にて切腹された方々の碑などもありました。
妙國寺
場所:堺市堺区材木町東4丁1-4
より大きな地図で 大阪近郊妖怪・伝承地図 を表示[4回]
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息子はまだ2歳なので、一日中家にいるとぐずり出すので、散歩もかねてのお出かけです。
今回は、恵比寿町から阪堺線(路面電車)を利用して現地へ向かいました。
これなら運転手さんのすぐ脇で風景を見ることが出来ますし、子供受けすると思ったのですが・・・
ただ、のんびり電車の旅をするのは良かったのですが、のんびりしすぎて息子は寝付いてしまいました。
最寄り駅である、「妙国寺前」で下車。少し歩くと下のように道に碑も立っているのですぐ分かりました。
(左) 右 そてつ
(左) 左 とさのさむらいはらきりのはか
黒猫の主目的は泣き蘇鉄ですが、妙國寺といえば幕末の堺事件で土佐藩士11人が切腹した場としても知られています。
妙國寺到着です。
妙國寺
この大ソテツは、織田信長によって安土城へと移植されたのですが、毎夜「堺へ帰ろう、妙國寺へ帰ろう」とすすり泣き、激怒した信長が、ソテツを切ったところ切り口から鮮血が流れ、さすがの信長も気味が悪くなり、当寺に返されたといわれています。
妙國寺は、永禄5年(1562)、堺を支配した三好四兄弟の一人、三好実休(義賢)と日珖上人の尽力により建てられました。日珖上人は、堺の豪商、油屋(伊達)常言の息子です。堺での日蓮宗の代表的な寺院として、商人や来堺した戦国武将たちの信奉を受け、朝廷より勅願寺と定められました。境内には国の天然記念物に指定されている大ソテツがあります。また、幕末フランス兵との間でおこった「堺事件」において、十一人の土佐藩士が切腹した場所でもあります。
堺事件
慶応4年(1868)、当時は外国に対して開港地となっていなかったにもかかわらず、堺港に上陸してきたフランス兵と、堺の警備にあたっていた土佐藩士との間で争いが起こり、フランス人多数が死傷しました。この事件は国際問題となり、責任を追及された土佐藩士十一名がここ妙國寺の境内にて切腹しました。彼らは北側にある宝珠院に葬られました。この事件を題材に、森鴎外の作品をはじめとして多くの小説などが書かれています。
山門をくぐり、山内に入っていきます。
大蘇鉄を拝観する為には受付まで、と看板が上がっているので、早速受け付けに。
受付で拝観料400円を払い、いろいろお話を伺わせていただくことが出来ました。
また、宝物殿も見せていただくことが出来ました。
宝物殿の中には切腹した土佐藩士の遺品や遺髪まで残されていました。
黒猫はいわゆる零感と呼ばれる、霊感というものに鈍感なクチですが、それでも背筋に何かくるものを感じました。
他、秀吉の朝鮮出兵の際、加藤清正が奉納したという朝鮮王子の持っていたという直剣も見せていただくことが出来ました。
この直剣、白木で柄と鞘が拵えられていたのですが、直剣に白木のそれらというのは非常に違和感がありますね。
しかし、ガイドの方がこの剣の説明をして頂けたのですが、日本の古い絵図にこの剣に良く似た直剣が描かれているのをもって、日本の直剣が朝鮮半島に渡り、それを朝鮮の王族が帯剣していたのかも、という説の説明もされていたのですが・・・
しかし黒猫の拙い知識では、秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮半島の兵士たちは主に直剣を携えていたのでは?
また、製造場所の来歴を知りたいのであれば、鋳造か鍛造かだけでも調べてみるのは難しいものなのでしょうか。朝鮮半島を含む大陸製は鋳造、日本であればこの時期はほぼ鍛造では?
考古学では青銅器等の出土品のそれらを推定するときには、肉眼による形状判断と、X線透過写真による確認、成分分析などから行うらしいのですが・・・
どうも絵画等から形状が似ているから云々、というのは何も裏づけがなく、説にもなっていないように思います。
さて、宝物殿を案内していただいた後、いよいよ庭園を案内していただくことが出来ました。
この蘇鉄に関しては、信長が気味悪がり堺に返した後の後日談もあるようで、頂いたパンフレットに記されていました。
日珖聖人は切り刻まれた鉄蔦を哀れに思い、境内に植えなおし、一千部の法華経を読まれ、満願の日に青い芽が吹き出し、その夜、夢枕に蛇身の白髪老人が現れ「供養忝なし、報恩のため三つの誓を立てん、女には生みの苦しみを和らげ、苦難(刀難)には、その災厄を逃れしめ、福運のえしきものには福徳を授くく可し」と、お礼を申され、姿を消されました、妙國寺勧請の宇賀徳正龍神(通称・宇賀神)様です。
これが堺の龍神信仰の始まりであり、また鉄蔦が蘇えった事から、蘇鉄蔦・蘇鉄蕉と呼ばれ、いつ頃からか蘇鉄と言われるようになりました。
樹木に龍神が宿る龍神信仰・巳信仰は日本全国にそれこそ無数にありますが、蘇鉄に龍神が宿る、というのは非常に珍しい気がします。
また、当然の事ながら堺事件にて切腹された方々の碑などもありました。
妙國寺
場所:堺市堺区材木町東4丁1-4
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