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大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
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平成の現在、大東市を北東から西にかけて寝屋川が横切っていますが、かつては大東市の西側、諸福のあたりに「勿入の淵(或いは、内助の淵)」という有名な大きな淵がありました。
この淵は、諸福村(現:大東市諸福)から長田村(東大阪市長田)まであったと伝えられ、淵というよりも池という方が相応しいような規模のものだったようです。
実際、江戸時代、貝原益軒は『南遊紀行』の中で以下のように描写しています。
内助が淵は大池なり。ふかうの池の西南にあたり、ふかうの池とは別也。方八町ばかり有。蓮多く、魚多し。三ケより漁人行て採る。又其邊にも、漁家少あり。是又山根の大道には少しへだゝれり
江戸期に一度大きな治水事業があり、また近代に入り再度治水事業がすすめられ、現在はかつて淵のあった近辺に勿入渕碑があるだけですが、「河内名所図会」にも、
勿入渕 諸福村にあり土人内助の淵と呼ぶ
と、記述される程、名所としても知られていました。
他、古くは清少納言の「枕草子」の中でこの淵について触れているくだりもあります。
この淵には、いくつか淵の主に関する民話が残されています。
まずは、井原西鶴著「西鶴諸国ばなし」巻四に収録されている「鯉の散らし紋」というお話。
川魚は淀を名物といえども、河内の国の内助が淵のざこまで、優れて見えける。
この池むかしより今に、水のかわく事なし。 この堤にひとつ家をつくりて、笹舟にさをさして、 内助といふ猟師、妻子も持たずただひとり、世を暮らしける。
つねづね取り留めし鯉の中に、女魚なれども凛々しく、慥に目見じるしあって、そればかりを売り残して置くに、いつのまかは、鱗にひとつ巴出来て、名をともゑとよべば、人のごとく聞きわけて、 自然となつき、後には水をはなれて、一夜も家のうちに寝させ、 後にはめしをもくひ習ひ、また手池にはなち置く。 はや年月もかさね、十八年になれば、尾かしら掛けて、十四五なる娘のせい程になりぬ。
あるとき内助に、あはせの事ありて、同じ里より、年がまへなる女房を持ちにしに、内助は猟船に 出しに、その夜の留守に、うるはしき女の、水色の着物に立浪のつきしを上に掛け、 うらの口より掛け込み、「我は内助殿とは、ひさびさのなじみにして、 かく腹には子もある中なるに、またぞろや、こなたをむかえ給ふ。このうらみやむ事なし。いそいで親里へ帰り給え。さもなくば、三日のうちに大浪をうたせ、 この家をそのまま池に沈めん」と申し捨てて、行方しれず。
妻は内助を待ちかね、おそろしきはじめを語れば、「さらさら 身に覚えない事なり。 大方その方も合点して見よ。このあさましき内助に、さやうの美人、 なびき申すべきや。 もし在郷まはりの、紅や・針売りのかかには、おもひあたる事もあり。 それも当座々々にすましければ、別の事なし。 何かまぼろしに見えつらん」と、 又夕暮れより、舟さして出るに、俄かにさざ波立ってすさまじく、浮藻中より、大鯉ふねに 飛びのり、口より子の形なる物をはき出し失せる。やうやう にげかへりて、生州を見るに かの鯉はなし。
惣じて生類を深く手馴れる事なかれ」と、その里人の語りぬ。
現代語訳は、リンクにある「座敷浪人の壺蔵」さんのコンテンツ「あやしい古典文学」内に同名でありましたので、是非参照して下さい。
他の話では、「勿入の淵」がまだ大きかった頃、長田村に内助という漁師が住んでいたのですが、ある時、この淵に住んでいた大蛇に飲み込まれてしまいます。
そこで周辺の人たちが協力して助け出し、大蛇を退治したと伝えられます。
そして、退治した大蛇から剥がした鱗を付近のお堂(現:西堤神社)に納め、また飲み込まれた内助は内助大明神として祀ったと語られているそうです。
この内助大明神は現:諸福六丁目、白龍社と呼ばれる小祀とのことです。この小祠にはまた足を運んでみるようにしたいと思います・・・が、まだどの祠か確定できておらず;;
また、内助が出て来る別の話もあります。
昔、長田村の長者の家に内助という男衆が住んでいたそうです。
ある時、この男はいつものように風呂に入ったのですがなかなかでて来ない。
そこで心配した長者がこっそりと風呂場に近づき、内を覗いて見ると、風呂場には内介の姿はなく、何と、大蛇がとぐろを巻いていた。
長者はびっくりして大声をあげ、無我夢中で母屋に逃げ帰った。
内介という男は大蛇であったのでしょう。主人の大声で、自分の正体を見破られたことを知った内介こと大蛇は、そのまま池に身を投じ、どこかへその姿を消してしまったそうです。以来、この池を内介の淵と呼ぶようになった、と云われるようになったのだとか。
なお、東大阪で伝えられる、
♪ 女ばかりが 蛇になるものか
長田内介 蛇になった
という唄は、この伝説をうたったものだそうです。
井原西鶴の奇談に続いて、名前の縁起に関する話を二編紹介させていただいたのですが、この淵に関しては埋め立ての際にもお話が伝えられています。
江戸期、いよいよこの「内助の淵」を埋め立て、水田にしようとしたときの話です。
村人が埋め立ての相談しているときに、一人の旅の僧が通りがかり、村人に工事の中止を勧めます。
理由を問うと、淵の主の大蛇が怒り狂っているのが見えるからだとか。
言う事を信じない村人に対して僧は、自分の衣の袖から覗いてみるように、と言いそこから覗いて見た村人には、確かに火を吐いて暴れている大蛇の姿を見る事が出来ました。
しかし、なおも半信半疑な村人は、そんなことで工事を遅らせると折角新たに水田を広げることの出来る土地を他の村に奪われる事を心配し、気味悪く思いながらも僧の忠告を無視し工事を始めてしまいます。
が、しばらくしてこの僧が言った通り、村で火事が起った。
人々は驚き、すぐ村にひき返し、消火に努めた。
しかし、池の開拓工事を始めた発起人の家は、丸焼けになった。それを見た村人は、大蛇のたたりを信じ、これに恐れをなし、結局、開拓工事は途中で止めてしまった、と云うことだそうです。
中断された開拓工事も近代になり再度行われ、規模を縮小しながらも残っていた淵の残滓も姿を消し、「勿入の淵」は完全に無くなってしまいました。
現在の碑ももともとあった場所からは少しずらせたという事で、往事の面影を偲ばせる事もない状態となっています。
現在、勿入の淵跡のすぐ南側を流れる寝屋川
寝屋川の畔は祭りの準備の最中のようでした。
勿入渕跡の碑と現地案内板
勿入渕跡
大阪平野の上町台地より大東市にかけては地形的に低く、縄文時代では河内湾、弥生~古墳時代には河内湖が広がり、「古事記」には「日下江」とあり、この地域一帯には古来より大きな水域が広がっていました。
平安時代には、その規模は縮小され大東市から東大阪市にかけての大きな池となり、勿入渕(ないりそのふち)と呼ばれていました。平安時代中期に清少納言は「枕草子」のなかで「ないりその渕。たれにいかなる人のをしへけむ。」と記しています。
江戸時代にこの池はさらに縮小し、大東市域では「深野池」、東大阪市域では「新開池」と呼ばれる二つの池に分かれますが、特に「新開池」にその名残をとどめており、貝原益軒の「南遊紀行」には「内助が淵」、「河内志」や「河内名所図会」には「勿入淵(ないりのふち)」として記されています。
現在地は、これらの北側堤防にあたり、付近には堤防であった地形がよく残されています。また、この堤防は古堤街道と呼ばれる街道となり、人々の往来で賑わいました。
平成二十三年三月 大東市教育委員会
現地案内板は、つい数ヶ月前に設置されたばかりのもののようです。
古堤街道といえば、野崎参りの際に船で参られる人と古堤街道を徒歩で参られる人達が、互いに罵りあいをして楽しんだ、という記述を見た覚えがあります。
街道名も勿入の淵に由来するものだったのですね。
寝屋川の岸もコンクリートで護岸工事がされ、淵の主は何処へ行ったのでしょうね。
勿入渕跡
場所:大東市諸福