平成26年のゴールデンウィークに黒猫一家は北陸から長野にかけて旅行に行ってきました。
その際、何件か民話の残されている土地にも寄ってきましたので、そちらの紹介でも。
まずは、かつての北陸道随一の難所として知られた親不知(おやしらず)を。
[1回]
親不知とは、新潟県糸魚川市の西端に位置する、海岸線に崖が連なった地帯です。
厳密には親不知と子不知に分かれますが、この2つを総称した名称も親不知と呼ばれます。
明治時代までは越後国(現在の新潟県周辺)と越中国(同じく富山県)の間を往来する旅人は、この断崖を海岸線に沿って進まねばならず、古くから北陸道最大の難所として知られてきていました。
名前の由来は、一説では断崖と波が険しいため親は子を、子は親を省みることができない程に険しい道であることから、とされています。
また、以下のような伝承もあるようです。
壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていました。このことを聞きつけた奥方は、京都から越後国を目指して、この難所に差し掛かかりました。
しかし、難所を越える際に、連れていた子供が波にさらわれてしまった。その時、次の歌を詠んだと云われているのだそうです。
親知らず、子はこの浦の波枕、越路の磯の泡と消え行く
以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったというものなのだとか。
いずれにせよ、この地の余りに困難な道のり故に名づけられた名称のようです。
さてこの地に伝わる民話ですが、「
糸魚川市総合観光辞典デジタルガイドブック」によれば幾つかあるようなのですが、波よけ観音というお話が有名なようです。
波よけ観音
民話の内容はリンク先で楽しんでみてください。またこの周辺の民話も載せられていましたので、併せて楽しんでいただければと思います。
また「まんが日本昔ばなし」にて波よけ観音の話も放送されていたようですので、そちらで記憶されている人もいるかもしれませんね。
さて、そんな現地の様子です。
国道8号線沿いの駐車場にあった看板
こちらによれば、百数十年前まで波打ち際を波をよけながら歩いていた道が第1世代。
第2世代の道が明治時代に造られた道で、現在親不知コミュニティーロードとされている道。
第3世代が現在の国道8号。
第4世代が海の上を走る高速道路とされており、時代によって通りやすい道を段階的に作り上げてきたことがわかります。
明治時代に造られたという親不知コミュニティーロードを歩いていきます。
崖に突き出すような展望台もあります。
展望台のところには親不知についてのさまざまな案内板がありました。
四世代道路
市道・天険親不知線は、昭和61年(1986年)建設省の「道の日」制定記念の一環として勧められた、「日本の道百選」の1つに選ばれました。また、この道は、貴重な歴史的土木構造物として、平成19年(2007年)に土木学会選奨土木遺産に認定されています。
親不知・子不知の由来
今から800年前の源平盛衰の昔、越後の五百刈村へ移り住んだ、池大納言 平頼盛(平清盛の異母弟)の後を追って、この地を通りかかった夫人が、懐の愛児を波にさらわれ、悲しみのあまりこの歌を詠みました。
親しらず子はこの浦の波まくら
越路の磯のあわと消えゆく
この歌が地名の由来といわれる親不知・子不知は古来から旅人が北アルプス北端の断崖と、日本海の荒波を縫って、命がけで通行する、天下の難所といわれています。
天下の難所
旅人は、この地を通る前に、必ず「無事に通れますように」と、波除観音にお祈りをしてから出発しました。また、波除観音の下方にある岩は、旅人が波にさらわれないようにとしがみついたが、だんだん下へずり落ちてゆき、ほほの髭が擦り切れたことから、髭剃岩と言います。
この天下の難所にも、大懐・小懐や大穴・小穴のような天然の避難所があります。大懐から大穴までは、親不知中最も危険なところであり、走り抜けないと波にさらわれることから、長走りと呼ばれています。また、小穴を過ぎると、絶壁に「南無金剛遍照」と刻まれてあり、ここから西は、走りこみと呼ばれ、ここまで来ればもう安心と言われました。
この親不知の難所を越えればまるで極楽浄土を旅するようだということで、そのあたりは浄土と呼ばれており、そこには、波除不動が祀られています。旅人は皆、「無事通り抜けれました」と手を合わせて、先へと旅立って行きました。
(第一世代の道)
人と道の物語
この天下の難所も明治11年(1878年)、明治天皇の御巡幸を契機に国道建設運動が盛り上がり、明治16年(1883年)に東西日本を結ぶ日本海側の大動脈が完成しました。この工事は、断崖絶壁を縫って、すべて尽力で行われ、苦難を極めたといわれております。また、この開通記念として、道路から見上げる大きな1枚岩に、約1メートル四方の字で「如砥如矢」と刻まれ、開通の喜びが表されています。
(第二世代の道)
このように、明治人が近代国家建設に向けて開削した道が、現在の市道天険親不知線です。
第四世代の道へ
その後、改良と災害復旧が重ねられましたが、車社会に対応して昭和41年(1966年)に国道8号天険トンネル(延長734メートル)が完成しました。
(第三世代の道)
昭和63年(1988年)、近年の高速交通時代に向かい、現在の道路建設技術の粋を集めて、日本初の会場高架橋、親不知海上インターチェンジを含む、北陸自動車道が完成しました。
(第四世代の道)
また、展望台内部に地形模型もありました。
親不知コミュニティーロードにあった案内板
著名作家に愛された親不知
親不知を舞台にした小説「越後つついし親不知」や「雁の寺」「飢餓海峡」などで知られる作家の水上勉(大正8年~平成16年[1919~2004])は、著書「新日本紀行」の中で親不知について次のように書いています。
越後の「親不知」を私は好きである。美しい日本の風土の中で、私はいちばん「親不知」が好きである。私は、これまで「親不知」を何ど訪ねたことだろう。東京に住むようになってから私は若狭へ帰るたびに、わざわざ、北廻りの汽車に乗ったのは、「親不知」の風光を見るためであった。「親不知」は激しい断崖と荒波の海しか見えない。日本の中心部を横断する中部山岳地帯が、北の海へ落ちこむのはこの親不知付近である。山は固く、頑固な壁となって北陸道へ険しく襲いかかるように、樹木の少ない荒ぶれた肌をみせて落ちこんでいる。
実際、ここで表現されている通りの場所です。
展望台からもう少し先に行ったところに、明治時代にこの道が造られたときに彫られたと思しきモノがあるとのことで、そちらにも足を運んでみました。
如砥 如矢(とのごとく やのごとし)
ここは、親不知で最も通行が困難な「天険」(地形がたいへん険しい所)の直上、高さ約80mの崖の上です。かつての旅人たちは、波打ち際を通る北陸道を命がけで通行していました。今立っているこの道は、絶壁を切り開いてつくられ、明治16(1883)年に完成しました。その喜びを岸壁に刻んで表したのが、「如砥 如矢(とのごとく やのごとし)」です。砥石のように滑らかで、矢のようにまっすぐであるという意味で、この道路の工事に力を尽くした青海の人、富岡磯平の書と言われています。
青海はこの親不知の東側にある地域の事です。
こちらがその刻まれた「如砥 如矢」の文字
こちらには
天下之険
足下千丈 親不知
と彫られています。
さて、駐車場脇から明治以前まで使われていた海岸線まで下りてゆくことが出来るようになっていましたので、家族総出で下りてゆきます。
本当に崖です。
途中にあった旧親不知トンネルの案内板
日本の近代化を支えた鉄道遺産
親不知ずい道(旧親不知トンネル)
旧親不知トンネルの紹介
このトンネルは、明治時代の終わりに北陸路一の難所として有名な「天険 親不知」の断崖絶壁を貫通させ整備されました。1912(大正元)年の開通から、線路が複線化となり廃線になる1965(昭和40)年までの53年にわたり旅客や貨物の輸送を支えました
全長 667.82m
幅 3.63~4.72m
高さ 4.70m
起工 1907年(明治40年)
開通 1912年(大正元年)
廃線 1965年(昭和40年)
遥か彼方に西側の出口が点のように見えます。このトンネルは完全に直線となっているようです。
入口にはコーンが立てられており、立ち入り禁止となっていました。
沢向こうにもトンネルがありました。
こちらの入口は半分土砂で埋まっている状態。
そこから暫く降りてようやく海岸線まで到着。砂利浜になっていました。
かつてはもう少し歩ける程度には海岸線があったようなのですが、現在は波に浸食されており、雀の涙程度の面積の場所でしか歩き回ることはできませんでした。
よって子供たちはこのように崖に上ったりして遊んでみたり。
波打ち際は小石ばかりで足元が悪く、波の力も相当に強そうでしたので、子供たちが近づくのは危険かな?と思われました。よって子供たちには波打ち際まで行かないように目を光らせていました。
さて、民話に出ていた波よけ観音ですが、この砂利浜のやや東側にあるようなのですが、この日は波が崖の際まで来ていたために砂利浜を歩いては行けませんでした。
もう少し潮が引いていれば、或いは行けるのかもしれませんが、さもなくば崖を越えて行かねばならず、子供たちの手前危険な行為は避けようと思い、やむなく断念することにしました。
よって残念ながら探索は終了し、親不知から引き上げることとしました。
さて、実は親不知には、ひすい海岸に寄ったついでに足を運んでみたのです。
このひすい海岸という場所、名前からも分かるように翡翠が打ち上げられる海岸として非常に有名な場所となっています。
最近、娘が鉱石採集という遊びを始めていまして、それならばとGWを利用して足を延ばしてみたのですが、そもそも何故ひすい海岸に翡翠が打ち明けられるのか、という事ですが、この近辺の河川、糸魚川や姫川、青海川の上流に位置する地域で翡翠が産出されており、それらが河川の流れで海に流され、そして打ち上げられているようです。
翡翠が産出される地域一帯(小滝川硬玉産地:ヒスイ峡)は国の天然記念物に指定され、採集することは禁じられていますが、その地域から河川などで流出したものについては採集に関して何らの制約もなく、それゆえひすい海岸をはじめ、この周囲一帯の河口、海岸線などで拾い集めることが出来るという訳です。
ひすい海岸
黒猫一家はひすい海岸でもこれが翡翠かな?といろいろ言いながら様々な石を採集し、親不知の砂利浜でも幾らか拾いました。
そして親不知の東側にある親不知海水浴場にも寄ってきました。
こちらには
道の駅 親不知ピアパークという施設があり、こちらには拾った石の鑑定をしていただける人までいらっしゃいました。
鑑定していただきながら、いろいろ鉱石について教えていただけました。
残念ながら翡翠を拾う事は適わず。
翡翠かと思って拾った石も鑑定していただいたところキツネ石と呼ばれるものでした;;
キツネ石とは、翡翠とよく似た石の俗称で、特定の鉱物や岩石を指した名称ではありません。新潟県内の産地で、本ヒスイを採取されている方々の間で使用されています。
日本では、古くから、キツネは化けて人間をだます動物であると信じられていました。本ヒスイを捜している人々を惑わせることが名前の由来です。
そこそこ珍しいものでは、ジャスパー(碧玉 Jasper)やメノウ(瑪瑙 agate)が数個ぐらい。
他にもさまざまな種類の鉱石が採れました。
親不知ピアパークにある
翡翠ふるさと館で展示されていた展示物としては世界最大の翡翠原石。
展示物としては世界最大の翡翠原石。
102トンもあるのだそうです。
最後に
親不知ピアパークの自動販売機横に描かれていた、
「親不知伝説」なる物語
漁の最中、ウミガメが網に掛かる事がありました。
気の利いた漁師はウミガメと楽しく杯を交わしたそうです。
その後、ウミガメはほろ酔い気分で海へ帰って行きました。
気分の良くなったウミガメはその年に大漁という形で感謝を表したそうです。
描かれている漁師さんの絵は現代風なのですが、亀の報恩譚としては非常に良く見られる筋なので古くから伝わるものなのかもしれませんし、現代の創作民話なのかもしれませんが・・・
ジュースの自動販売機でこのような物ははじめて見ました^^
親不知
場所:糸魚川市大字市振
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道の駅 親不知ピアパーク
場所:糸魚川市大字外波903-1
公式HP
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