栄枯盛衰は世の習い。
かつて日本では戦国武将たちが覇を争っていましたが織田信長の亡き後、豊臣秀吉がその後を継いで天下統一を成し得ます。
その秀吉の甥である豊臣秀次は不幸な事件で幕を下ろしたことで知られています。
その秀次にまつわるモノが京都市中京区にある瑞泉寺に残されています。
[3回]
そもそも豊臣秀次は秀吉の甥にあたり、関白の座まで受け継ぎ秀吉の後継者といわれていた人物でした。
ところが秀吉に嫡子である豊臣秀頼が生まれてから次第に疎まれだしたようで、文禄4年(1595年)高野山に追放された後に切腹。1595年8月20日没。享年28。辞世は、「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。
その後、一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが自害または打ち首とされ、秀次の首も京都の三条河原に曝されたそうです。
この事件の際に殺害されたもの実に30余名。
秀次の首とともに河原に埋められた場所には塚と石塔が置かれ、石塔には「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」と刻されたといいます。
この塚は「畜生塚」と称され、かえりみる者はいなかったそうですが、順慶という行者はそのかたわらに草庵を結び、菩提を弔っていたのだそうです。
順慶の死後、洪水に塚が荒れ、慶長16年(1611年)、了以が高瀬川を開くとき、そのあとを哀れみ墓域を整え、石塔の「悪逆」の2文字を削り、その上に6角形の無縁塔を建て、江戸幕府に請い求めて堂を営み、「慈周山瑞泉寺」と号したとされています。
さて秀吉が天下をとって以来、豊臣家は京都東山には奈良東大寺の大仏をしのぐ非常に大きな大仏と大仏殿を建造していました。高さは東大寺の18mを凌ぐ19m。
大仏と大仏殿の造営は、天正14年(1586)、関白の座についたばかりの秀吉によって始められました。
この大仏は方広寺大仏と呼ばれています。
秀吉の刀狩りの表向きの目的は、方広寺大仏建立のための釘やかすがいを作るためということであり、当時の国家プロジェクトであったことは間違い有りません。
方広寺大仏殿は、文禄4年(1595)頃に完成しました。
しかし、まだ大仏開眼供養も終わらぬ文禄5年(1596)7月、京都を襲った大地震で方広寺が大被害を受けます。
この時に大仏も大破してしまうという不幸に見舞われます。
上で触れた秀次事件があったのが1595年。大地震が1596年。
巷で「大地震は無念の死を遂げた豊臣秀次一族の祟りであろう」と噂が立ったのは已むをえない事なのでしょう。
加えて、地震の被害にあった方広寺の再建を徳川・豊臣両氏の共同事業で進めていくことになりますが、慶長19年(1614)、鐘銘に〈国家安康〉の文字があったのを〈家康〉を胴切りにするものと難くせをつけた家康が豊臣家に臣従を迫り、これを豊臣家が拒む事で大阪の陣が始まっていく事になります。そして豊臣家は滅亡していく事に。
また、これに先立つ天下分け目の戦いといわれた関ヶ原の戦いでは秀次の家臣だったものの中には徳川方についた者も多かったそうです。
秀次一族の祟りだとすれば恐ろしいものです。まぁ、祟りだけではないのでしょうが。
さて、このような話の語られる瑞泉寺に足を運んできました。
三条大橋の西側から一筋入ったところに目的とする瑞泉寺はありました。
山門脇に由緒書きがありました
瑞泉寺
慈舟山と号し、浄土宗西山禅林寺派に属する。豊臣秀吉の甥、豊臣秀次一族の菩提を弔うために建立された寺である。
秀次は、秀吉の養子となり、関白の位を継いでいたが、秀吉に嫡男秀頼が生まれてからは、次第に疎んぜられ、文禄四年(1595)七月、高野山において自害させられた。
次いで、八月、秀次の幼児や妻妾たち三十九人が三条大橋の西畔の河原で死刑に処せられた。遺骸は、その場に埋葬され、塚が築かれ石塔が建てられていたが、その後の鴨川の氾濫などにより次第に荒廃した。慶長十六年(1611)、角倉了以が高瀬川の開削中にこの墓石を発掘して、墓域を再建するとともに、その地に堂宇を建立した。これが当寺の起こりで、僧桂叔を開基とし、寺号は、秀次の法号、瑞泉寺殿をとって瑞泉寺と名付けられた。本堂には本尊阿弥陀如来像が安置され、寺宝として秀次及び妻妾らの辞世の和歌を蔵している。また、境内には秀次の墓及び幼児・妻妾や殉死した家臣らを弔う四十九柱の五輪塔がある。
京都市
※ 瑞泉寺の創建から四年後、慶長二十年(1615年・元和元年)大阪城が落城して秀頼と淀君は自害し、豊臣家は滅亡した。
由緒書きの最後にわざわざ豊臣家滅亡のくだりの注釈を入れなくても;;
何故か何気ない一文なのですが、意図を勘ぐってしまいます。
山内の様子。比較的こじんまりとしています。
こちらが畜生塚こと秀次
悪逆塚
その他山内の様子。
折角ですので現在の三条大橋にも足を向けてみました。
三条大橋近辺は六条大橋と並んで古くから刑場として有名な場所でした。
また刑が行われた後首がさらされたりした場所でもあり、古くから怖れられていた場所です。
三条大橋西にあったこちらの地蔵もそのような歴史あってでしょう。
慈舟山瑞泉寺
場所:京都市中京区木屋町三条下る石屋町114-1
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