ヤマタノオロチ伝承地を巡っての黒猫の旅。
伝承地は斐伊川流域に点在していますので、川下から順に訪ねていく事にしました。
まずは島根県雲南市にある八口神社(やぐちじんじゃ)の紹介です。
[3回]
まずはヤマタノオロチの伝承についておさらいするためにヤマタノオロチ(Wikipedia)から「日本書紀」の部分を引用します。
『日本書紀』の第八段本文では、素戔嗚尊(すさのお)は天(あめ)より降(くだ)って出雲國(いずものくに)の簸(ひ)の川上に到った。その時、川上で泣き声が聞こえた。そこで声の方を尋ね行くと、ひとりの老公(おきな)と老婆(おみな)がいて、中間(なか)にひとりの少女(おとめ)を置き撫(かきなで)てながら泣いていた。
素戔嗚尊が問いて「汝(いまし)等は誰ぞ。何ぞ如此(かく)は哭(な)く」と尋ねると、「我は是れ國つ神、脚摩乳(あしなづち)ともうす。我が妻は手摩乳(てなづち)ともうす。この童女(おとめ)は是れ我が子也。奇稲田姫(くしいなだひめ)ともうす。哭く所以(ゆえ)は、往時(もと)我が子は八箇(やたり)の少女(おとめ)有りしを、年ごとに八岐大蛇の呑む所といたす。今、この少童(おとめ)まさに呑まるるに臨み脱免(まぬか)るる由(よし)無し。故(かれ)以ちて哀傷(かなし)む」と答えた。
素戔嗚尊は勅(みことのり)して「若(も)し然(しか)らば、汝、まさに女(むすめ)を以ちて我に奉(たてまつ)らんや」と求めると、「勅の隨(まにま)に奉(たてまつ)らん」と答えた。そこで素戔嗚尊は立ち化(な)し、湯津爪櫛(ゆつつまぐし)と変えてて御髻(みづら)に挿した。そして脚摩乳と手摩乳に八しおおりに醸(かも)した酒を作らせ、佐受枳(さづき)を八面作らせ、各(おのおの)1つずつ槽(さかふね)を置き、酒を盛らして待った。
時が過ぎ、果たして八岐大蛇が現れた。頭と尾はそれぞれ八つずつあり、眼は赤酸醤(あかかがち)の如し。(赤い酸漿のようであった。)松や柏〔かしわ〕が背中に生えていて、八つの丘、八つの谷の間に延(の)びていた。酒を飲まんとして、頭を各1つの槽に入れて飲み、酔って睡(ねむ)った、とある。
そこで素戔嗚尊は所帯(はか)せる十握劒(とつかのつるぎ)を拔いて、寸(ずたずた)に八岐大蛇を斬った。尾を斬った時、剣の刃が少し欠けた。そこでその尾を割り裂きて視ると、中にひとふりの剣があった。これがいわゆる草薙劒である。 一書(あるふみ)に云うと、本の名は天叢雲劒。けだし(あるいは)大蛇の居(い)る上に、常に雲気(うんき)有る故(かれ)以ちて名づくるか。日本武皇子(やまとたけるのみこ)に至りて、名を改め草薙劒という 素戔嗚尊は「是は神劒也。我何ぞ敢(あえ)て私(わたくし)に安(やす)らけんや」と言い、天神(あまつかみ)に献上する。
そうした後に、進みながら結婚の地を探し、出雲の淸地(すが)を訪れた。そして、「吾(あ)が心、清清之(すがすがし)」と言った。そして宮を建てた。 <あるいは、その時に武素戔嗚尊(たけすさのお)は歌いて夜句茂多兔 伊弩毛夜覇餓岐 兔摩語昧爾 夜覇餓枳都倶盧 贈廼夜覇餓岐廻(八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣え)と言う。
そうして相興(とも)に遘合(みあい)して生みし御子は大己貴神(おおなむち)である。 そして勅して「我が子の宮の首(つかさ)は、即ち脚摩乳・手摩乳也」と言う。 そして二神(ふたはしらのかみ)をなづけて稻田宮主神(いなだのみやぬしのかみ)と言う。 そうして素戔嗚尊は遂に根の國に就(い)でましき(向った)、とある。
日本書紀では八塩折の酒を飲み眠りについたヤマタノオロチを十握劒にて切り裂く描写となっていますが、この八口神社こそ、そのヤマタノオロチを退治した地であると伝えられているそうです。
という訳で現地の様子です。
県道197号を車で走らせていると、標識を発見。
鳥居と本殿
案内板
八口神社・草枕山
出雲国風土記には、「矢口社」と記載されています。また延喜式には「八口社」と記載されています。
須佐之男命が八岐大蛇の八つの頭を斬られたにより八口大明神といわれた。
また、大蛇が八塩折の酒に酔い草枕山を枕に伏せっているところを、男命が矢をもって射られたので矢代郷、式内社矢口社という。
赤川は、安政年間まで草枕山の東南方を迂回して斐伊川に注いでいたが、度重なる水難のため山を真二つに切り開き流れを変え、現在に至っている。
主祭神 須佐之男命
案内板の草枕山予想イラスト(左)と八口神社からの実際の光景(右)です。
山を切り開いたのは安政年間ということですので1854年から1859年、江戸時代のことですね。
人力で山を真二つに切り開くとは、当時の人々の労力に敬服いたしますが、それほどの労力をかけなければならなかったほど水害が多発していたのでしょう。
現在、ヤマタノオロチ伝承をどのように解釈するか、という点について大きく二つの説があります。
一つは斐伊川流域の川の氾濫の多発とその治水について。
もう一つは古代製鉄に関わる山の民と里の民との争いという説です。
個人的には後者かな、と考えているのですが、やはり川の氾濫も当時の人々を悩ませていたのは間違いないことなのでしょう。
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八口神社
場所:島根県雲南市加茂町神原98
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