関西で「えべっさん」というと、西宮神社を思い浮かべる人が多かろうと思います。
これは西宮神社がえびす神として蛭子命(ひるこのみこと)を祀る神社の総本山が西宮神社であるためですが、大阪には同じく「えべっさん」としてこれまた有名な今宮戎神社もあります。
実は今宮戎神社の祭神は事代主神(ことしろぬしかみ)であり、同じ「えべっさん」ながら違う神を祀っているのです。
「えびす」というのは様々な意味をもつ言葉で、「えびす」を「戎」や「夷」と書くことは、中央政府が地方の民や東国の者を「えみし」や「えびす」と呼んで、「戎」や「夷」と書いたのと同様で、異邦の者を意味します。
よって外来の神や渡来の神。客神や門客神や蕃神といわれる神として使われる場合もありますし、海からたどり着いたクジラを含む、漂着物を信仰した、漁業の神、寄り神信仰や漂着神を指す場合もあります。
イザナギ、イザナミの子である蛭子命が「えびす」とされるのは、やはりこういう寄り神や漂着神としての側面からでしょう。
大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしかみ)の場合は漁業神としての側面でしょう。
記紀神話における国譲りに際して、出雲國三穗(三穗、此云美保)で釣りをしている所に聞きに行け、というくだりがありますし。
ちなみに「えびす」の絵で良く見られる釣竿と鯛を持っているお姿は、こういう漁業神としての側面であるといわれています。
また、「えびす」として少彦名神が祀られるところもあると聞きますが、これは寄り神信仰によるものでしょうか?
そんな多面的な側面を持つ「えびす」を事代主神として祀られている神社の総本山、美保神社とその周辺を紹介したいと思います。
[1回]
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さて、その国譲りについて言代主神が出て来るところは以下のように記述されています。
葦原中国平定において、タケミカヅチらが大国主に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主は「承知した」と答え、船を踏み傾け、手を逆さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。
その後、タケミナカタもタケミカヅチに服従すると、大国主は国譲りを承諾し、事代主が先頭に立てば私の180人の子供たちもは事代主に従って天津神に背かないだろうと言った。
この美保ヶ崎という地はその舞台となった場所であり、その地に建っているのが美保神社であるのです。
ところが、出雲地方の古代を知る上で重要な史料である「出雲国風土記」には以下のように書かれています。
美保郷 郡家正東二十七里一百六十四歩。"所造天下大神命" 娶 高志國坐神"意支都久良為命" 子 "俾都久良為命" 子 "奴奈宜波比賣命 而、令レ産 神、 "御穂須〃美命" 是 神坐 矣。故、云「美保」
これには美穂須々美命(みほつつみのみこと)がこの郷に居るので郷名を美保というのだとされています。
記紀と「出雲国風土記」の記述にはかなりの食い違いが見られますが、これもそういったものの一つのようですね。
こういったことから、この神社の元々の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により現在の祭神である事代主神と三穂津姫命とされたものとみられているようです。
さて、現地の様子です。
訪ねて行ったのが平成25年12月30日。
山陰では数日前から雪が降っていたために、ご覧のような雪景色の中の訪問となりました。
境内にあった造営のための寄付を募る看板。
清めるために手水を使わせていただこうと手水舎によったところ、このようなパウチされた案内書が柱に吊られていました。
案内書は4枚つづりになっており、由緒などが事細かく書かれていました。
神門
神門を通して社殿が見えます。
こちらが美保神社の社殿です。
拝殿
拝殿の中はこのようにかなり広いです。
そして拝殿入口にこのような案内書が。
御祭神について
当社の御祭神は稲穂を持って天降られた種の神である三穂津姫命(みほつひめのみこと)、漁業の祖神であり叡智を以って国家を正しき道へ導く福の神である事代主神(ゑびす様)の二柱であり、五穀豊穣・安産・海上安全・大漁満足・商売繁盛・歌舞音曲(音楽)・開運招福その他宏大無辺の御神徳をお持ちの神様として崇敬を集めております。
福種銭について
この福種銭は、御祭神の大神璽(おおみしるし)であり、包の中に福の種となる十円が入っています。自分の貨幣と共に使用し世の中に福の種を蒔き、仕事や生活をお励みください。
すると廻り廻って大きな福が自分へと還り、家庭は円満に、商売は繁盛すると篤く信仰されています。
おかげ(ご利益)を受けましたら、お礼の貨幣を包の中に入れここへお納めになり、新たな福種銭をお受け下さい。
拝殿脇を抜けて社殿裏側に向かいます
こちらが本殿を裏側より見たところです。
さて、こちらの神社には飛地境内があります。
手水舎にあったパウチされた案内書にも書かれているのですが、国譲りに際して事代主が釣りをしていたと伝えられるまさに岬の先端にある小島がそれとなります。
そちらにも足を運んでみます。
島根半島の東端、地蔵崎にある駐車場脇にあった嶋根郡に関する案内板。
地蔵崎の一帯は公園になっているのです。
嶋根郡
出雲風土記が書かれた、奈良時代(西暦8世紀ころ)には、島根半島の東部は「嶋根郡」と呼ばれていました。これは、現在の八束郡美保関町、同郡島根町、同郡鹿島町の東部、松江市東部に当たります。
風土記の国引き神話では、ここ地蔵崎は「三穂の埼」と呼ばれ、出雲国の創始者八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)(大国主命)が「高志の都都の三埼」から切り取って引いてきた、
とされています。高志の都都の三埼」は能登半島の石川県珠洲市と考えられています。
実際に北陸地方との交流は盛んだったようで、出雲からは北陸地方
から持ち込まれた土器などが出土しています。
嶋根郡は隠岐国へわたるルートとして重要な地でした。美保関町千酌には「千酌駅」が置かれ、船や馬が配備されていました。
その他の案内板
(左)
地蔵崎
大山隠岐国立公園島根半島の最東端に位置するこの岬からは、晴れた日には日本海はるか沖に隠岐の島じまも望むことができます。
地蔵崎の東北3キロの海面には沖の御前島と呼ばれる小島が浮かんでおり、「出雲国風土記」には「等々島」と呼ばれると記されています。この島はその昔、美保神社の祭神である事代主命が魚釣りを楽しんだ所といわれており、現在でも、この島の周辺は絶好のつり場となっています。
また、境港と隠岐を結ぶ隠岐航路はこの島との間を通過しています。
(右)
大山隠岐国立公園
地蔵崎園地案内図
地蔵崎園地の島根半島は、昭和38年に大山国立公園に島根半島・隠岐・三瓶山の3地区を併せて「大山隠岐国立公園」に指定されました。
この地蔵崎は古くは「三保之碕」と呼ばれていましたが、この海域を往来する船舶の事故が絶えなかったので、航海の安全祈願のために多くのお地蔵さまが岸壁や波打ち際に奉納されるようになったことから「お地蔵さまがある岬」ということで中世以降から「地蔵崎」と呼ばれるようになりました。
目的の小島についても書かれていますね。
公園内を散歩しながら目的地を目指します。
公園内にある美保関灯台
美保関灯台
~山陰最古の灯台~
島根半島の東端に位置するこの地は、その昔、航海の安全を祈願してたくさんの地蔵さんが祭られていたことから、地蔵埼と呼ばれております。
この灯台は、山陰地方では最古の石造りで、1898年(明治31年)に地蔵埼灯台として建設されました。当時の光源は、石油で1等レンズ(内径1.8メートル、高さ2.6メートル)が使用され、光度は67,500カンデラでありました。その後、大正11年には、光源が電化され、また、1935年(昭和10年)には地蔵埼の名称が全国的に多いことから、現在の「美保関灯台」と改称されました。1954年、1993年とその時代の最新鋭の灯器に改修され、現在はメタルハライド電球を使用する灯器となっています。(現在、初代の1等レンズは大阪府岬町のみさき公園に、先代のLB90型灯器は隣接する美保関ビュッフェに展示されています。)1962年(昭和37年)には、無線監視装置の導入により無人化され、1998年(平成10年)には初点灯から百周年を迎え記念事業が行われ、歴史的施設の保安措置として耐震性向上の灯塔改修が行われました。そして百周年を祝うかのように、この年には「世界灯台100選」の一つとして選出されました。
この灯台は、船舶が安全に航行するための大切な施設です。この施設の異常を発見した場合や何かお気づきの点がございましたら、下記の管理事務所までお知らせ下さい。
古い灯台ですね。
そして目的地はこの灯台の裏手にありました。
神域であることを表す鳥居があります。
この鳥居の向こうには海原が広がるだけで、社殿などはありません。
すぐ近くの海面に浮かんでいる岩礁が地之御前と呼ばれるモノのようです。
沖之御前は肉眼では見ることができたのですが、この日持ち歩いていた携帯電話のカメラではそれとわかるようには撮影できませんでした。
案内板もありました。
美保之碕の由来
島根半島の最東端に位置にするこの岬は、古くから「美保之碕(みほのさき)」と呼ばれています。
出雲国風土記の国引きの伝説では、この「美保之碕」は北陸地方から、日御碕は朝鮮半島から引いてきたものと伝えられています。
この鳥居の中央約四キロ先の海上に浮かぶ島を「沖之御前(おきのごぜん)」、眼下に横たわる島を「地之御前(ぢのごぜん)」といい、共に事代主神(美保神社の御祭神、俗にえびす様)の魚釣りの島として伝えられているところから、現在も美保神社の境内となっており、毎年五月五日には美保神社で事代主神とその御后の御神霊をこの島から迎える神迎(かみむかえ)神事が続けられています。
夏期には、沖之御前の海上に雄大な日の出を拝むことができます。
沖之御前は日によってその島影が様々に変化し、漁師はその島影により海上の天候を知って出漁を決したといわれます。又、この島の海底には常に神楽のような響きがあり神異奇瑞の島として今に伝えられています。
この遥拝所は、美保神社の古文書に記載のあった古事に基づき、昭和四十八年十二月設置したものです。
ここが日本神話の重要な箇所である国譲りの中の一場面とされる場所だと思うと、なかなか面白いものです。
また、すぐ脇にも別の案内板も。
旧海軍関係のもののようです。
「美保関のかなたへ」
昭和二年(1927年)八月二十四日夜、日本帝国海軍戦艦「長門」以下の連合艦隊六十余隻は、美保関の北東三十二キロ付近の海上で二軍に分かれて戦闘訓練を行った。
おりから台風の接近で、雨が激しく降り、強風に波も逆巻くなか、両軍灯火を消して時速五十二キロの全速力で実戦さながらの訓練であった。そのさなか駆逐艦「蕨(わらび)」(八百五十トン)の艦腹に巡洋艦「神通」(五千五百九十五トン)が衝突、「蕨」は裂け、沈没。艦長五十嵐恵少佐以下九十二名は艦と運命をともにした。その一分後には駆逐艦「葦(あし)」の艦尾に巡洋艦「那珂」が衝突し、「葦」の乗組員二十七名が海に消えた。
この二つの衝突による犠牲者百十九名。海軍史上、空前のこの事故に際し、美保関や境港の人々は献身的に捜索協力をしたが、収容された遺体は数体のみ。今も百三十メートルの海底には、「蕨」とともに多くの兵士が眠っている。
演習中に貴い命を失い「海の八甲田事件」といわれるこの惨事を、日本海軍は黙秘し続け、半世紀を経て、五十嵐艦長の子息五十嵐邁(すぐる)氏が克明に調査し、父君の非業の死の真相を一書に著すまで、その全容は明らかにされなかった。今日の日本がこうした犠牲のうえにあることを忘れないように、この記念碑を建立する。
大きな事故があった場所でもあるのですね。
さて帰路についた時に海岸線でこんなものも見かけました。
「男女岩」となっています。
このような名称の岩は日本全国のあちらこちらで見かけます。
気が向いたので車を止めて近くによって見ます。
手前の大きな岩と、数メートルはなれたところにある岩の間に注連縄がわたされており、この二つの岩で男女岩と呼ばれているようです。
小さいほうの岩をよくよく見てみれば、陽根のようにもみえたり。
あらためて大きい岩をみてみれば穴が開いていました・・・
夫婦岩、男女岩というのは良く聞きますが、何というか直接的ですね;;
性器信仰というのはどこにでもあったものとはいえ、思わぬ不意打ちを受けた感じをうけました。
そして帰り道である境港の方向をみてみれば夕日が美しかったので一枚。
美保神社
場所:島根県松江市美保関町美保関608
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美保関灯台
場所:島根県松江市美保関町美保関字大平
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