大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
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[3回]
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話の中身は以下のようなものです。 ある旅の男が、取石池の畔を通りかかったところ、翁に久米田池に住む娘に手紙を頼まれます。 手紙の中身が読めず不審に思った男は、久米田池の畔の寺の僧に相談したところ、手紙には 「この男は旨そうだから取って食べるように」 と書かれていたとか。 慌てた男がどうすればよいか僧に訊ねたところ、僧は手紙の中身を、 「この男に恩を受けたのでもてなすように」 と書き換えてしまいました。 男はその書き換えられた手紙を持って久米田池を訪れたところ、はたして池の中から娘が現れました。 男は手紙を娘に見せると、娘は男を池の中の宮殿へ招きいれ大層もてなし、土産に汲めども汲めども酢の湧いてくる壺を男に渡します。 ただし、壺の中身は決して見ないように、という一言を付け加えて。 男は戻った後、壺から出てくる酢を売り、大金持ちになりましたが、ある時どうしても壺の中身を見てみたいという欲求に駆られ、ついに中身を覗きこんでしまいます。 なんと壺の中には、蛇がとぐろをまいており、その蛇が壺を吐き出していたのでした。 仰天した男は、壺を落として割ってしまい、蛇はどこかへ逃げていってしまいました。 男はその壺の残骸を近くの古池に捨てました。 以降その古池は酢壺池と呼ばれるようになりました。 民話ですので話者によって細部が異なりますが、黒猫の覚えている限りは上記のようなものであったと思います。 紹介した話では「久米田寺の僧」としていますが、相談した僧は行基だったという話も読んだ気もしますし、ただの旅の僧と書いてあるのも読んだ気がします。 また、貰った物も「酢の出てくる壺」と言うのが多いかと思いますが、「財宝」という話も読んだ気もします…(うろ覚え) この話は岸和田市のHPに岸和田のむかし話7 牛滝川周辺の話・(3)酢壷池(岡山)として掲載されています。 最初の所こそ違えど、「浦島太郎」や「鶴の恩返し」のストーリーラインに相通じるものも感じますね。 さて、この物語の切欠となった取石池ですが、昭和16年に食糧増産の為に埋め立てられ、水田となって姿を消してしまいます。 しかし、道を一本挟んだ取石7丁目に合掌池という名の池が残っていましたので、そちらに足を運んできました。 訪問したのは、震災前の平成23年3月上旬でした。 池の水面は、蓮か何かの枯れた葉でほぼくまなく覆われていました。 とは言え、その下には水がたっぷりと湛えられており、看板があるように水面近くで遊ぶのは非常に危険であるように思われます。 直ぐ近くには岸和田市のゴミ焼却施設がありました。 こちらが道を挟んで直ぐ南側に広がる田畑。 かつて取石池はこの場所にあったのですね。 さて、この民話。 久米田池に住む娘の蛇と絡めてのお話となっています。 久米田池の主といえば乙御前。久米田池築造にあたって行基に功績を認められた娘が、褒美として久米田池にずっといたい、と言って蛇身に変わって池に入っていき、以降久米田池の主として知られています。 久米田池の乙御前の話は、築造後の水利権をめぐる話が民話として残っているのではないか、と考えられる節があります。 日本の泉南でも天明二年(1782年)に飢饉に端を発する一揆も起こっていたり、水は農民にとって死活問題です。 この話では、泉南最大の溜池である久米田池が出てきており、其処に何らかの繋がりがあるのだと思います。 その説に立って考えてみれば、久米田池の水を分けてもらえないか、と頼みにいった男が久米田寺(久米田池の管理寺)の取り成しによって分けてもらうことが出来た、とも読み替えることも出来るとおもうのですが、現在の所黒猫の想像の域を出ません。 或いは今後文献などを読みすすめていると、ヒントとなる事を見つけることがあるやもしれませんね。 <<関連エントリー>> 乙御前-久米田池- 合掌池 場所:大阪府高石市取石七丁目14
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