義犬伝説という、犬が飼い主の命を自らの生命を顧みず守った、というストーリーラインの話が日本にはあります。
大阪にもその話で有名な場所があり、それにまつわる寺が犬鳴山 七宝瀧寺(しっぽうりゅうじ)です。
[5回]
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そもそもの寺の創建は、淳和天皇(824〜834年)の時に大早魃があり、現在犬鳴山と呼ばれるこの山でも僧が本尊不動明王に祈雨の大法を修したのだそうです。要するに雨乞いですね。
するとそのおかげか、泉州一円は慈雨に恵まれることができました。そこで淳和天皇は、犬鳴山中にある著名な七瀑を金銀などの七宝に因んで、 七宝瀧寺と命名しましたのが始まりとされているのだそうです。。
七瀑とは、両界の滝(金胎両部の瀧として二瀑があり、これを合わせて両界の瀧といいます。一の瀧とも)、塔の瀧、弁天の瀧、布引の瀧、固津喜の瀧、行者の瀧、千手の瀧、の七つの瀧をさしていうのだそうです。
そして山号の犬鳴山というのは、黒猫が今回訪ねて行った目的である義犬伝説に因んで名付けられたとされているのだそうです。
さてそんな現地の様子です。
今回は山中の寺という事もあり、まさに山内の様子、というのがぴったりの寺でした。
駐車場すぐ脇にあった山内の地図
駐車場に行くにも急な斜面を上がったり下りたりしなければならないので、車を運転していても怖かったです。行かれる方は気を付けてくださいね。
さて、山内の様子ですが行場がかなり多いことがわかります。
「西の覗き」やら「蟻の戸渡り」、「胎内くぐり」などが描かれていますが、修行者以外でも行かれている方もいる様子。
ただし、今回の訪問では4歳の息子が同行しているので危険な場所に赴くことは避け、山内の安全な場所を拝観させていただくことにしました。
なお、こちらでは修験道体験も行えるとのことで、その場合修験者の方々と共にこれらの行場を回ることが出来るようになっているようです。
また、女人禁制の大峯山と違って女性も滝に打たれることが出来るようで、そういった面でも来易い霊場となっているようです。
さて、山内の様子ですが渓谷に沿って道やお堂などがあり、安全な道、とは言っても他の平地の寺とは一線を画します。
観音堂
観音堂近くにあった湧水
志津の涙水と云うそうです。
志津の涙水
昔、淡路の小聖という者しばしば御所へ出入していたが、官女の志津女という美女に想われる身となった。小聖は修行の妨げとふり切って犬鳴山中へのがれて来た。
志津女は修行僧を思い切れず跡を追い諸国を探し求めたのであるが、遂に泉州犬鳴山で小聖が修行しているとのこと風のたよりに聞き修行僧に一目逢うべく犬鳴山まで来たが、けわしき峡谷と山路、それに飢えと寒さ、なお俄かに白雲がたちこめて来て道を見失い終に路傍に悶死したのである。
村人は志津女の死体をねんごろに葬り供養されたのであった。こうした事があってから犬鳴山に白雲が立ちこめる日は必ず雨が降るので村人は志津の涙雨と言い又倒れていた附近からこんこんと清水が湧き出ている処からこの水を志津の涙水と以後よぶようになった。
一心こめた願い事がある場合この水を持帰り毎日飲用すると必ず願い事が成就するとのことである。
この湧水の民話に関しては調査不足で知りませんでしたが、思わぬ話が拾えました。
渓谷に建てられた寺院ですので、寺の建物のいくつかはご覧のように川の上に造られていました。
護摩場
奥に身代不動が見えます。
こちらは上の写真で見えるように川の上に造られています。
身代不動近影
犬鳴山不動明王について
犬鳴山は、斉明天皇の七年(千三百三十五年年前) 役ノ行者の開基で、大和大峰山4より六年前に開山されました。
故に、元山上と称し葛城二十八宿修験根本道場であります。
本尊は倶利伽羅大龍不動明王で、役ノ行者の御自作であって、日本最初の御出現の霊神であります。
古来より、運勢向上、願望成就の守護神、また除病延命、命乞不動明王として霊験まことにあらたかであります。
弘法大師も、行者の行跡を求めて当山に御修行になり、一刀三礼の大日大聖不動明王像を御敬刻、開眼の上、本堂の宮殿に奉安され、護摩の密法を修せられました。
この明王は、災難除け、身代不動明王として古来より深く尊信されています。
七瀧に心きよめて不動尊
祈る願いの叶わぬはなし
御縁日 毎月二十七日・二十八日・辰の日、酉の日
特に四月の辰の月、辰の日、九月の酉の月、酉の日は不動明王最勝功徳利生日です。
七瀧の内のひとつ古津喜の瀧
このすぐ脇にあった韋駄天像
苔むして何とも言えない雰囲気がありました。
足腰痛消除堅固の守護
韋駄天将軍はヴェーダといい、または塞建陀(ずかんだ)又は建陀(けんだ)とも音写している。
足の速い者を韋駄天走りと呼んでいるのは、釈尊涅槃の際に足の速い捷疾鬼(しょうしつき)と云う鬼が釈尊の仏舎利を盗みさろうとしたとき追いかけて行き奪い返したと伝説により走ることの一番早い天部の神として崇拝されている。
形像(おすがた)は甲冑を着て正立し両手を合掌して宝剣を横たえて捧げていられる勇敢なお姿であり将軍と云われるゆえんである。
釈迦仏より仏法の外護を命ぜられ今も禅宗の庫裏には堂塔の守護神として祀(した)われている。今回当山では修験行者の乞請により諸人の足腰痛除け守護神として韋駄天将軍神を祭祀することになりました。
韋駄天走りの足腰の堅固の徳を頂いて皆様の足腰堅固になられることをお祈りする次第である。
拝み方 南無足腰堅固韋駄天神 七友
オン スカンダ ソワカ 二十一友
縁日は亥の日なれど、当山では毎月第一日曜日を祈願日として足腰痛みの方の痛みを除く為めお守りを差し上げます。
当日は足腰痛堅固の祈祷をいたします。
修験者の方々は日々山野で厳しい修行をされているであろうので、足腰の神を祀るというのは非常に納得ゆくところで。
本堂
相変わらず写真を撮るのが下手なため、何かがうつりこんでしまいます;;
本堂内は写真撮影禁止のため、外からの様子だけで。
本堂脇にあった滝行場
こういう場所は物珍しいので、息子はずっと走りっぱなしです;;
本堂からさらに奥、清滝堂が見えてきました。
清滝堂の向こうに行者の滝が見えます。
行者像
行者くぐり岩
行者尊の台座岩穴をくぐることにより行者さまの偉神力と御尊像胎内に納められたる心経の功徳力と穴の地下にうすめられたる近畿三十六不動尊霊場のお砂ふみの功力により穴をくぐる人々が六根清浄となりもろもろのけがれ不浄がなくなり祈願成就の法益をうけることができます。
くぐる時は、
摩訶般若波羅蜜多 三返
南無神変大菩薩 三返
唱えて礼拝し次に六根清浄と唱えつつ三回穴をくぐり下さい。
とのことなので、息子と一緒にくぐってみました。
ようやく奥までやって来れましたので、引き返して本命の義犬の墓に。
山内の道から山肌を数メートル登った場所に件の義犬の墓はありました。
義犬の墓
宇多天皇寛平二年三月十五日(一〇八〇年前) 紀伊の国の猟夫、当山の行場である蛇腹附近に鹿を追ったとき、樹間に大蛇あり、猟夫を呑まんとす。
猟夫その由を知らず、愛犬しきりに鳴いて猟を遮りぬ。
猟夫怒りて愛犬を切る。
愛犬の首飛んで大蛇に咬みつき共に斃る。
猟夫我が生命を守りし義犬を弔わんが為に剃髪して庵を結んで余生をおくりたりと、その事朝聞に達し、一乗山改め犬鳴山と勅号を賜った。
実はここ大阪の他、福岡県にも犬鳴山があるのですが、そちらにも類話が残されているようです。
ただ、書物に残される義犬伝説が書かれだす時期には違いがあるようで、こちら大阪の犬鳴山の話の方が古いようです。
行場である蛇腹にも行ってみたかったのですが、裏行場の方にあるようで4歳児を連れて行くことは躊躇われるので断念。いつか行ってみたいものです。
義犬の墓を望遠で
人を害する存在(この話では大蛇、しっぺい太郎等では猿神やら狒々やら)を犬が倒し、そしてその犬を助けてもらった人が殺す、あるいは共倒れになる、という話は、この義犬伝説だけではなく、猿神退治、しっぺい太郎などの民話でも見られます。
これらの民話には何らかの意味があるのかもしれません。
節分の追儺の儀では、当初鬼を追い払うのは方相師の役割であったのが、いつしか方相師自体が礫もち追われる立場になっていったと云われています。
これは方相氏の役割の変遷は触穢思想が根底にあるのではないかと指摘されています。
要するに疫鬼を追い払う役割を担っていたはずの方相氏が死穢と関連付けられ、やがて方相氏自身がケガレとされて追放されたのではないかという説なのです。
あるいは義犬伝説や猿神退治で見られる犬の役割というのも、触穢思想が根底にあるのかもしれませんね。
犬鳴山 七宝瀧寺
場所:大阪府泉佐野市大木8
犬鳴山 七宝瀧寺公式HP
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