大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
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[8回]
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この地蔵の名の由来は、「聖地蔵尊縁起絵巻」に記されている物語が元になっています。 それによると、 建武年問、岸和田城に高波が襲いかかり、この時、海の彼方より大蛸に乗った法師が海岸まで近付き波風を鎮められ城下は救われたという。 その後、天正年間に紀州根来衆・雑賀衆の軍勢が岸和田に攻め込んで大乱戦となった。 敵の勢いが物凄く城が危うくなった時、蛸に乗った一人の法師が現れて、次々と敵を薙ぎ倒した。 しかし、敵勢が盛り返して、蛸法師を取り囲もうとした時、海辺より轟音をたてて幾千幾万の蛸の大群が現れ、敵を殺害することなく退却させた。 城主は喜び、その法師を探したが、結局分からなかった。 ある夜、法師が城主の夢枕に立ち、自分は地蔵菩薩の化身であると告げたので、その昔戦乱から守る為、堀に埋め隠し入れた地蔵尊像を出してお祀りした。
wikipedia-天性寺 (岸和田市)-より抜粋
このお話は、岸和田市のHPにも掲載されています。 岸和田のむかし話3 蛸地蔵の話 こちらには「聖地蔵尊縁起絵巻」の一部も掲載されていました。 また、地元の商店街のHPにも紙芝居風の物が載せられていました。 蛸地蔵商店街HP 目次の13-3に「たこじぞう」の紙芝居があります。 また、こちらのトップページには伝承が新聞で取り上げられた時の記事が掲載されています。 ありがたく、かつユニークな由来を持つお地蔵様ですので、平成の現在でも愛されているようですね。 そんな蛸地蔵を祀られている天性寺へ行ってきました。 天性寺の門。蛸地蔵の名も見えます 本殿 件の蛸地蔵ではないですが、本殿右側の地蔵堂に祀られていました。 願をかける時には、蛸絶ちを行ってするという蛸絵馬。蛸が可愛い^^ 残念ながら伝説の蛸地蔵を見ることは叶いませんでした。 何でも現在は、毎年8月23日と24日に行われる地蔵盆の「千日大法会」でのみご開帳されることになっているのだそうです。 おまけで蛸地蔵と無数の蛸が守ったという岸和田城。 岸和田城の案内。現在は比較的こじんまりとしています。 それにしても、津波という言葉に敏感に成らざるを得ない今日、津波からも岸和田を守ったという伝承が残る蛸地蔵の記事を書いていると… なんとも知れない気分になりますね。 さて、歴史のページを捲ってみますと、伝承では天正年間に紀州根来衆・雑賀衆の軍勢が岸和田に攻め込んで来たときに、蛸坊主と蛸が岸和田城を守ったとされていますので、これは天正十二年(1584年)の岸和田合戦の時の話でしょう。 これは、天正十一年(1583年)豊臣秀吉に、岸和田城を中村一氏の配下に置き、根来衆、雑賀衆、粉河衆などの一揆衆討伐を命じたことから大阪と紀州の間で繰り広げられた一連の戦の中で行われた合戦です。 小競り合いを繰り返していた両勢力は、翌十二年に小牧・長久手の戦いの留守を狙って、根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍は総数3万兵が侵攻し岸和田城に攻城戦を仕掛けてきます。 これに対して城兵8000兵で篭城線が行われたようですが、この合戦を岸和田合戦と呼びます。 しかし、当然のことながら歴史には蛸は出てくる余地は有りません。 しかし、よくよく調べてみれば、当時浄土真宗石山本願寺派の顕如上人が豊臣秀吉に合力していたようです。 顕如といえば、それに少し先立つ石山合戦では雑賀衆なども従え、織田信長に10年も争いを繰り広げた当時の宗教界の大物です。 この岸和田合戦の際には貝塚に拠点を移していたようですし、或いは蛸坊主とは顕如、そして蛸とは顕如に率いられた僧、或いは門徒を暗喩していたのでは…と考えてみたりする次第です。 少し以前に敵対していた勢力が、こんどは味方に… 蛸坊主とも言いますしねぇ… 天性寺 場所:大阪府岸和田市南町43-12 岸和田城 場所:大阪府岸和田市岸城町 公式HP
[5回]
この兵主神社は延喜式に載っているものだけでも19社(この岸和田の社を含む)ありますが、実は主祭神は社によって異なっていたりします。 兵主神社で最も有名なところは穴師坐兵主神社でしょうか。そちらでは兵主神が祭神となっています。 しかし、記紀にはそのような名前の神は登場しません。 兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説があります。 また一説には中国の蚩尤を指すのだという説もあります。
さてこの岸和田の兵主神社ですが、現在の祭神は天照皇大神、八幡大神、菅原道真公とされています。 ただし、明治十二年の「大阪府神社明細帳」では、主神が八千鋒大神・日本武尊で、菅原道真・品陀別命が付記されおり、また、昭和二十七年の明細帳には、主神が八千鋒大神、相殿に日本武尊・天照大神・品陀別命・菅原道真となっているようです。 現在と、そして過去の記録に統一しているのは菅原道真公だけということに…
さて、菅原道真公ですがその祖先は土師一族であり、相撲の祖とされる野見宿禰に行きつきます。 土師氏は技術に長じ、古墳群、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族で、渡来系と見る説も強い一族です。
渡来系(と見られる)一族と外国の神である蚩尤…と繋げてみることもできますが…
さて、前置きはともかく現地に。 兵主神社入り口 由緒書きですが…携帯を新機種に変えたばかりで、レンズの位置に慣れていなくて黒猫の指が写りこんでしまい少し見苦しい写真になってしまいました;; 鳥居と本殿 本殿右側には境内摂社が幾つかあります。 そして、久米田池の乙御前が時々やってくるという蛇淵。 神社縁起には以下のように書かれています。 蛇渕 本殿の後方横側、末社弁財天、稲荷社、龍神社牛神社の前にあり、蛇渕と称せられます。この蛇渕はかっての雨乞祈願の場であり、別当久米田寺多聞院を招き、龍人豊玉姫を勧請し、読経修行するを例としたとのことであります。また、この渕には太蛇棲み久米田池へ通ったと伝えられ、今も蛇岸と呼ばれる畦畔や加守領に蛇渕掛りという田地 現在は一団の住宅地 がありました。 ここでいう大蛇がいわゆる久米田池の乙御前のことです。 久米田池の乙御前の伝承については岸和田市のHPで紹介されています。 岸和田のむかし話7 牛滝川周辺の話・(2)乙御前は嘆く(田治米) 久米田池の築造と兵主神社の間には、何らかの関連があると匂わせる民話ですが、これについての黒猫の考えているところは、 乙御前-久米田池- のエントリーを読んで見て下さい。 やはり、黒猫は渡来系の職能集団が兵主神社・兵主神を祀ってきたのではないかと思う次第です。 <<関連エントリー>> 乙御前-久米田池- 兵主神社 場所:大阪府岸和田市西之内町1番1号
[6回]
久米田池は、 広さ45.6ha、 周囲2.6kmと大阪府最大の満水面積のため池です。 大阪府南部はこの久米田池を始め、 光明池(貯水量に関しては大阪府最大)、 狭山池(日本最古のダム式ため池)、 その他無数の様々な池が点在しています。 久米田池は奈良時代に築造されたとされ、 かの行基によって行われたとされています。 現在でも、 池端に建つ久米田寺は行基が天平6年に開創したと記録に残ります。 さて、 この久米田池築造にあたって乙御前の話が有名です。 民話ですので、 話者によって細部は細々と違いますが、 あらすじは、 久米田池の築造に当たり功績のあった乙御前に、 行基が何か褒美を取らそうと欲しいものを訪ねると、 「久米田池にずっといたい」と言い、 蛇身となって久米田池に入っていった。 以降、 乙御前は久米田池の主となった。 と、 言うものです。 この話は岸和田市のホームページにも掲載されています。 岸和田のむかし話7 牛滝川周辺の話・(2)乙御前は嘆く(田治米) こちらはもう少し海の方に行った所にある兵主神社の蛇淵と絡めてのお話となっています。 こちらが現在の久米田池。 周囲は整備されており、サイクリングやランニングにはよさそうです。 このように歩道も整備されています。 桶口も再現されてありました。 さて、 久米田池には様々な伝承がありますが、 もう一つ岸和田市のホームページから紹介させていただこうと思います。 岸和田のむかし話7 牛滝川周辺の話・(8)火消し地蔵(池尻) 簡単に纏めると、 久米田池の近辺に元から住んでいた物の怪が、 火の玉となって久米田寺にやって来たが、 行基に追い返された、 という話です。 こちらが現在の火消し地蔵 行基が久米田池の畔に立てたという、久米田寺 と、 これだけならどこにでもあるような2つの民話ですが、 松谷みよ子著の「民話の世界」を読んでいた時に気にかかる箇所を見つけました。 (前略) その頃私は「日本の伝説」を数巻まとめるために、 折をみては各地を訪ねていた。 ある日、 和泉(大阪府)にいる若い友人に案内され、 和泉の葛の葉伝説のあたりや、 奈良を歩いた折のできごとだった。 とある池のほとりで車をとめて、 「この池にも伝説があるのですよ」という。 では近くのお方にお話を聞きましょうということになり、 私たちは車を降り、 やがて話してくれる人もみつけた。 このあたりは溜池が多い。 飛行機から見ると鏡の破片をちりばめたように、 まるいのやら三角のやら大きいのやら小さいのやらが光っている。 この溜池もその一つで行基さんがつくったというのだから、 ずいぶん古い池なのだった。 戦争前まではこの池のまわりはずうっと桃林で、 春になると桃の花が池に映ってとてもきれいだったという。 池のまわりは三キロ、(中略) この池は行基さんが掘ったという。 そのとき、 土の人形を使って掘ったそうな。 それが一つのいい伝えで、 つぎは池を掘るとき、 工事中、 まわりの村々から娘たちがでて、 お茶汲みの競争をしたという。 工事が終わったとき、 競争に勝った村の娘に行基さんが褒美には何が欲しいかと聞いた。 するとその娘は「この池が欲しい」といった。 欲しいといわれてもそれは困る、 やるわけにはいかん、 というと娘はざんぶとばかり池にとびこんで大蛇になってしまった。 これが二つ目のいい伝えである。 すると負けた村の娘たちは口惜しがって火の玉となり、 それ、 今あなたが立っているこの土手をごろごろころげながら行基さんのいる寺へ、 寺を焼こうと、 ころがっていったという。 これが三つ目のいい伝えだった。 この話をしてくれた人は、 さてこの話がわかりますかと私を見た。 私が首をかしげているとその人は続けた。 まずですよ、 お茶汲み競争をして、 勝った村の娘が、 この池を欲しいといって池にとびこんで大蛇になったでしょう。 それは池の主になったということなんです。 つまり水利権を取ったということなんですよ。 だからこそ、 負けた村の娘たちは怒って火の玉になり、 ほれ、 あそこに、 池のほとりに寺があるでしょう。 あの寺に行基さんがおったというのですが、 つまり焼討ちをかけて抗議したんですわ。 この話はそういうことなんです。 そこで私は、 ははあ、 それでは土の人形をつかって掘ったというのは、 つまりその、 人手不足だったんですかと愚かな質問をした。 するとその人は声をひそめていったのである。 いや、 いまも土の人形の子孫がひとかたまり、 住んでいます、 と。 私は呆然として、 その人が目で指すあたりを眺め、 もう一度その人をみつめ、 そして、 雷に打たれたようにその言葉の意味を悟った。(後略) 著者はこの池が、 何と言う名前の池かについては触れてはいません。 また、 久米田池にまつわる民話で人形を労役にあてたという話は他に見つけることは出来ませんでした。 しかし、 これを読んで改めて、 岸和田の民話のページを見ると、 乙御前が恋仲になったのは兵主の社から差し出された年若い労役夫の一人である事に気づかされます。 また久米田池と兵主神社の蛇淵は底が繋がっており、 乙御前が歳時を選んで忍び来るという伝承が残るほど、 関係の深さを感じさせます。 兵主となれば河童…この岸和田の兵主神社の祭神には菅原道真の名も見えます。 少し補足させていただきますと、 北九州で河童の神は、 「兵主神」とされている地域があります。 また河童は相撲好きということですが、 「野見宿禰」と「当麻蹴速」が戦った相撲発祥の地とされる穴師坐兵主神社の祭神も「兵主神」です。 「兵主神」は、 渡来民族といわれ製鉄、 水利土木工事の技術に優れた「秦」氏が伝えたとされ、 西日本各地に兵主神社の名で社が建てられています。 「兵主神」は大陸で言うところの「蚩尤」であるといい、 相撲好きの半人半獣の怪物であると伝えられています。 またシュウとは鋳物師という中国語で、 蚩尤は、 漢民族ではなく古代南方中国居住の民族(苗族など)の鋳物神であったとのこと。 さて、 野見宿禰の一族は時代が下り「土師」一族となっていくのですが、 後に一族から「菅原道真」が誕生します。 少し話が変わりますが春日神社の建築時には、 当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、 神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、 人形が河童に化けて人々に害をなし、 工匠の奉行・兵部大輔島田丸がそれを鎮めたので、 それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいいます。 他にも河童に類似する妖怪「ひょうすべ」の由来はあるのですが、 「ひょうすべ」と「菅原道真」の間にはいくつか土地に約定が伝えられています。 「ひょうすべよ 約束せしを忘れるなよ 川立男氏も菅原」 水神としての「ひょうすべ」を避ける、 水難よけの呪い歌です。 これはあくまでも一例で、 細部が異なるものがあちこちに伝えられています。 このように、 「河童」「ひょうすべ」と「兵主神」、 「土師」時代を下っての「菅原」には関係が深いのではないか、 という事が意見としてさかんに挙げられています。 そう、 河童には人形起源説なんてのもあったな… とまあ、 このような話も思い浮かべつつ。 久米田池には取石池と絡む伝承もあるのですが、 今回はこのような所で。 民話・伝承は面白いけど、 怖いものですね。 <<関連エントリー>> 巳-合掌池(取石池)- 乙御前-兵主神社- 久米田池 場所:大阪府岸和田市池尻町・岡山町
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