大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
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[6回]
つづきはこちら
「伝説の河内」に以下のように「源氏の滝」に纏わる伝承が紹介されています。 交野の里に源氏姫という美しい姫と、梅千代という可愛い少年が住んでいた。源氏姫と梅千代は姉弟ではなかったが、二人とも幼いころ、母と生き別れた身の上で親身の姉弟のように一緒に暮らしていた。 その頃、大和と河内の国境に「おろち山」という山が有り、そこに一団の賊が住んでいた。その賊は、時折山を降りては近郷近在の家々を襲い掠奪をほしいままにしていた。 ある年の暮れ、この山賊の一団は遂に、交野の里にも現れ源氏姫の邸を襲い、姫と梅千代を縛り上げ引揚げた。 山賊の女の頭(かしら)に手下の一人が美しい姫と少年をさらってきたと報告すると、40になるかならぬの美しい女の頭は、早速その二人を連れてくるように命じた。 少年は襲われた際の驚きで、最早息絶えていた。 女の頭は、じっとその少年の死骸に眼を注いでいたが、急に顔色を変え、手下どもを別室に下げ、かれらが別室に去ると、急いで姫の縄を解き、少年の死体を抱き上げてはらはらと涙を流した。 この不思議な様子に姫は訝しく思ったが、可愛い梅千代の死体を見るともうたまらなくなり、「弟の敵、思い知れ」と叫びざま躍り掛かり、短刀で女の頭の胸を刺した。 けれども、女の頭はこれに抵抗するでもなく、姫の手を掴みながら「源氏姫、梅千代、許しておくれ」と、苦痛に歪む頬に涙を滂沱(ぼうだ)と流しながら叫んだ。 姫は仇の口から意外な言葉を聴いて愕然(がくぜん)とした。 女の頭の苦痛を耐えつつ途切れ途切れに物語るには、女は正しく二人の実母で、まだ女の頭が若い頃、ある家に嫁いで一人の姫をもうけたが、ある事情で姫を残して別れ、それから再び他家へ嫁ぎ、一人の男児を産むとまた離別した。 それから18年の月日を送ったが、二人の子供のことが気にかかり、山賊といえども一度は逢いたいと念じていた。 今日偶然にも二人の子供と意外な対面が母子相互いに殺し殺されつして悲しい最期を遂げるのだ、とのことであった。 姉弟のように暮らしてきた梅千代は弟であり、山賊の頭は姉弟の産みの母であろうとは。 しかもその母を自分の手にかけてしまったとは何とした悲しいことか。姫の目先は真暗になり、母と弟にすがり付いてはた泣きに泣いたのであった。 そして、姫はそこを飛び出すと付近の滝壷に身を投げて母や弟の後を追ったという。 そして今回訪ねる「夜泣き石」は、「大阪伝承地誌集成」によれば、この石はそれ以後夜中になると泣き声をあげるのだとか。 ともあれ現地へ。 今回は、仕事が半日で終わった日に職場の最寄り駅から電車にて現地へ。 源氏の滝の最寄り駅はJR片町線(学研都市線) 津田駅でした。 途中機物神社に寄った上で、歩く事30分程だったでしょうか?現地へ到着。 源氏の滝公園の入り口近辺 公園に入って直ぐ、お稲荷さんも祀ってありました。 こちらが件の「夜泣き石」。由緒書きもありました。 脇には沢山の地蔵尊も… 由緒書きには以下のように書かれてあります。 「伝説乃河内」という本に、次のような話が書かれている。 昔、このあたりに源氏姫と梅千代という二人の若者が住んでいた。あるとき、大和と河内の境、大蛇山に住む女山賊の手下どもが、二人をかどわかし、山に連れ去る途中、梅千代は死んでしまった。源氏姫は無念に思い山寒に着くと山賊の頭の胸を刺した。頭はすでに、梅千代も源氏姫も自分の子であることを知っていたので、息も絶え絶えに、このことを話した。それを聞いた源氏姫は、刺し殺した女が自分の母であったのかと、その罪を詫びて、源氏の滝壺に身を投じたという。 この付近には、夜になると泣き声がするという石が多い。この夜泣き石にも右の伝説に出てくる悲しい物語が秘められているのだろう。 この由緒書きを書かれた方は、「源氏の滝」の伝承と「夜泣き石」の怪異は別物と理解されているようです。 それにしても、 >この付近には、夜になると泣き声がするという石が多い。 とは、少し驚きです。 そのような石が多かった(=さほど珍しい物ではなかった)故に「源氏の滝」の伝承とは結び付けられなかったのでしょうか? さて、「夜泣き石」を訪ねたついでに、「源氏の滝」にも足を運んでみました。 「夜泣き石」からさらに奥へ。 「源氏の滝」手前にある巨石。上に石仏も見えます。 こちらが「源氏の滝」です。 残念ながら落石の危険があるとの事で、滝壺近くへは行くことは出来ないようにされていました。 滝の直ぐ近くの上に石仏があるということは、行場だったのかな? そう言えば、滝への道の脇に、また滝側から上がる階段の先に寺のようなものがあったなと思い、そちらにも立ち寄ってみます。 「正法山宜春院」とされていますね。 源氏の滝不動明王を祀ってあるとの事で、やはり修験道・山岳仏教に関係する寺なのでしょう。 奥に八大竜王を祀っている社もありました。 八大竜王の社からは源氏の滝を見下ろす事も出来ます。 行く途中にはさほど気にも留めなかったのですが、交野山三宝荒神神宮遥拝所というものが直ぐ脇にありました。 由来を読んでみると、 「寺社縁起」という古い本の中に修験者の宿(修行の場)が次のように書かれている。 北の峯の宿(修行の場)として、 石船(岩船神社)、獅子石屋(獅子窟寺)、 金剛寺(傍示の北に在る金剛寺という地名と龍王山をふくめて) 甲の尾(交野山開元寺) の四箇所の宿(修行の場)を修験者は峯道を往復しながら艱難辛苦の修行を積み満願をはたし、悟りの境地に入れた修験者は甲の尾(交野山開元寺)から元寺滝(源氏の滝)に下り不動明王の梵字の前で身を清め、鏡池の北の「三宝荒神諸願成就」の碑の前で交野山頂に在る三宝荒神宮に向い修行にて諸々の願い事が成就した事を感謝を込めて遙拝した聖なる場所とある。 その後近代になり交野山頂の三宝荒神宮まで参詣に行く事が困難な方々の遙拝所として現在に至って居ります。 伝承地とは別の側面ですが、修験道・山岳仏教の面からも大事な場所のようですね。 夜泣き石・源氏の滝 場所:大阪府交野市東倉治2丁目 源氏の滝公園内
ブログを再開すると書いたものの、原発事故をめぐる情勢も日々変わったり、この状況下でいきなり妖怪話も書く気にもなれ無かったため、かと言って別の伝承をめぐる話でもと考えたは良いものの、中々書き始めることが出来ないでいました。 ですが、このままズルズルと書き出さないのもいけないと思い直し、心機一転、訪ねた順にでも徐々に書き出していこうかと思います。 さて、大阪府北東部にある交野市には、七夕伝説に因む伝承地が数多く存在している事で知られています。 その中でも今回は機物(はたもの)神社に行ってきました。
[2回]
由緒書き 御祭神は天棚機比売神、栲機千々比売神、地代主神、八重事代主神。 そう、日本で一般的に織姫として知られる天棚機比売神(あまのたなばたひめのかみ)が祀られている神社です。 参道 本殿 創立年代は明らかでないとのことで、一説には秦氏の斎祀る神社であったので、秦者が祀るから転じて機物となったと云う話もあります。 さて、現在の日本における七夕伝説とは、要約すると以下の通りだと思います。 織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。 その恋人の夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。 めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。 このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、二人はこの日のみ会うことが出来るようになった。 この話は、中国の織女星と牽牛星の伝説が元になったものです。 そもそも、日本では七夕と書いて、たなばたとは普通には読むことは出来ません。 本来は字の通り、しちせきと読むべきで、大陸由来の節句の内の一つをさす言葉でした。 これが何故たなばたと読むようになったかについては、故 折口信夫氏の文が現在の所定説となっているようです。 たなばたと盆祭りと(折口信夫) この二つの接近した年中行事については、書かねばならぬ事の多すぎる感がある。又既に、先年柳田先生が「民族」の上で述べてゐられるから、私しきが今更此に対して、事新しく、附け加へるほどのことはあるまいと思ふが、顔が違へば、心も此に応じる。又変つた思案も出ようと言ふものである。 たなばたは、七月七日の夜と、一般に考へられてゐる様であるが、此は、七月六日の夜から、翌朝へかけての行事であるのが、本式であつた。此点、今井武志さんの報告にある、信州上水内の八月六日の夜を以てするのが、古形を存するものゝ様である。沖縄に保存してゐるたなばた祭りも、やはり七月六日の夜からで、翌朝になるとすんでゐた。 「水の女」の続稿には、既に計画も出来てゐるのであるが、たなばたといふ言葉は、宛て字どほり棚機であつた。棚は、天湯河板挙(あめのゆかはたな)・棚橋・閼伽棚(簀子から、かけ出したもの)の棚で、物からかけ出した作りである。その一種なる地上・床上にかけ出した一種のたなばかりが栄えたので、此原義は、訣りにくゝなつて了うた。たなと言へば、上から吊りさげる所謂「間木」と称するもの、とばかり考へられるやうになつた。同行の学者の中にも、或はこの点、やはり隈ない理会のとゞかぬらしく、たなを吊り棚とばかり考へてほかくれぬ人もある。 壁に片方づけになつてゐない吊り棚に、年神棚(としだな)がある。此は、天井から吊りさげるのが、本式であつた。神又は神に近い生活をする者を、直(なほ)人から隔離するのがたなの原義で、天井からなりと、床上になりと、自由に、たななるものは、作る事が出来た訣である。棚の一つの型をなす「盆棚(ぼんだな)」と称せられるものは、決して、普通の吊り棚でも、雁木(がんぎ)でもない。此は、地上に立てた柱の上に、座を設けたものが、移して座敷のうへにも、作られる様になつたのであつた。 だが、かうしたたなの中にも、自然なる分化があつて、地上から隔離する方法によつて、名を異にする様になつた。一つは、盆棚形式のもので、柱を主部とするものである。珠玉の神を御倉板挙(みくらたな)といふなどは、倉の棚に、此神を祀つたものと見てゐるが、これは、くらだなに対する理会が、届かないからである。くらだなが即(すなわち)倉で、倉の神が玉であり、同時に、天照皇大神の魂のしんぼるであり、また米のしんぼるとして、倉棚に据ゑられたのである。 この倉は、地上に柱を立て、その脚の上に板を挙げて、それに、五穀及びその守護霊を据ゑて、仮り屋根をしておく、といふ程度のものであつたらしく、「神座(くら)なる棚」の略語、くらの義である。時には、その屋根さへもないものがあつて、それを古くから、さずきと言うた。後に、この言葉が分化した為に、而も、さずきその物の脚が高くなつた為に、別名やぐらと称する称へを生んだ。神霊を斎ひ込める場合には、屋根は要るが、それでなくて、一時的に神を迎へる為ならば、屋根のないのを原則としてゐた。後には、棚にも屋根を設ける様になつたが、古くは、さうではなかつたのである。 だから、やまたのをろちの条に、八つのさずきを作つて迎へた、といふ事も訣るのである。此が、特殊な意義に用ゐられた棚の場合には、一方崖により、水中などに立てた所謂、かけづくりのものであつた。偶然にも、さずきの転音に宛てた字が桟敷と、桟の字を用ゐてゐるのを見ても、さじき或は棚が、かけづくりを基とした事を示してゐる。後には、此かけづくりをはしどのなどゝさへ称する様になつた。だから、考へると、市廛(いちたな)の元の作りが訣つて来る様に思ふ。恐らく、異郷人と交易行為を行ふ場処は、かうした棚を用ゐたので、その更に起原をなすものは、棚に神を迎へ、神に布帛その他を献じた処から、出てゐるのである。 さうした意味から考へると、日本紀天孫降臨章にある、 天孫又問曰、其於秀起浪穂之上(ほだたるなみのほのうへ)、起(たて)八尋(やひろ)殿而、手玉玲瓏織(ただまもゆらにはたおる)之少女(おとめ)者、是誰之女子耶(がをとめぞ)。答曰、大山祇神之女等。大(えを)号磐長姫少号木華開耶姫。 とある八尋殿は、構への上からは殿であるが、様式からいへば、階上に造り出したかけづくりであつた、と見て異論はない筈である。此棚にゐて、はた織る少女が、即棚機つ女(め)である。さすれば従来、機の一種に、たなばたといふものがあつた、と考へてゐたのは、単に空想になつて了ひさうだ。我々の古代には、かうした少女が一人、或はそれを中心とした数人の少女が、夏秋交叉(ゆきあひ)の時期を、邑落離れた棚の上に隔離せられて、新に、海或は海に通ずる川から、来り臨む若神の為に、機を織つてゐたのであつた。 かうして来ると、従来、 天(あめ)なるや、おとたなばたのうながせる、玉のみすまる、みすまるに、あな玉はや。三谷二渡(みたにふたわた)らす、あぢしきたかひこねの神ぞや といふ歌のたなばたも、織女星信仰の影の、まだ翳さない姿に、かへして見る事が出来るのである。おとといひ、玉のみすまるといひ、すべて、天孫降臨の章の説明になるではないか。而も、其織つた機を着る神のからだの長大な事をば形容して、三谷二渡(みたにふたわた)らすとさへ云うてゐるではないか。此は美しさを輝く方面から述べたのではなく、水から来る神なるが故に、蛇体と考へてゐたのである。 かうした土台があつた為に、夏秋の交叉(ゆきあひ)祭りは、存外早く、固有・外来種が、融合を遂げたのであつた。其将に外来種を主とする様に傾いた時期が奈良の盛期で、如何に固有の棚機つ女に、織女星信仰を飜訳しようとしてゐるかゞ目につく。此様に訪ねて来た神の帰る日が、その翌日である為に、棚機祭りにくつつけて、禊ぎを行ふ処すらある。畢竟、祓へ・棚機の関係は、離すべからざるもので、暦日の上にあるいろんな算用の為方は、自然に起つた変化と見てよい。第一に禊ぎ自身が、神の来る以前に行はれる――吉事を期待する所謂吉事祓へ――行事であつた筈である。それが我々の計り知れぬ古代に、既に、送り神に托して、穢れを持ち去つて貰はうといふ考へを生じて来た。今日残つてゐる棚機祭りに、漢種の乞巧奠は、単なる説明としてしか、面影を止めてゐない。事実において、笹につけた人形を流す祓へであり、棚機つ女の、織り上げの布帛の足らない事を悲しんで、それを補足しよう――「たなばたにわが貸すきぬ」などいふ歌が、此である――といふ、可憐な固有の民俗さへ、見られるではないか。だから、この日が、水上の祭りであることの疑念も、解ける訣である。 中尾逸二さんの郷里で行はれた「なのか日」の行事が、又一面、たなばた祭りの面影を見せてゐる。他から来る神を迎へる神婚式即、棚機祭り式で、同時に、夏秋の交叉を意味するゆきあひを、男(を)神・女(め)神のゆきあふ祭りと誤解し勝ちの一例を見せてゐる。すべての点から見て、たなばた祭りは、霊祭りと、本義において、非常に近い姿を持つてゐる。 (後略) 要するに、もともとあった固有のたなばたと、大陸由来の七夕、中国の織女星と牽牛星の伝説とが融合していき現在の形態へなっていったとの説です。 交野市は、他にも弘法大師が北斗七星を降臨させたという伝承の残る星田妙見宮(また織女岩を磐座とされています)、同じく弘法大師の北斗七星降臨伝承に由来する光明寺の星石、牽牛石という巨石のある観音山公園、と星にまつわる巨石信仰が残されています。 そして、山を登っていけば、天の磐船によって天孫降臨したと伝承の残る磐船神社があり、これまた星空との関連を匂わせています。 元来あったたなばたの伝承と、外来の七夕と融合の地となったのは、或いはこの地であったのかもと思わせる所以です。 もっともそれは、日本各所に散在する七夕発祥の地とされる他の場所も同じなのですが。 機物神社 場所:交野市倉治1-1-7
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