「茨木童子」は、古くから民衆の中で語り伝えられてきたふるさと茨木の代表的な民話です。
「茨木市史」によると、茨木童子は水尾村で生まれたが、幼児期に茨木村のはずれに捨てられ、近くの床屋に拾われて育てられた。
床屋の手伝いをしているうちに客の切傷の血をなめ、その味を知ってからは、わざと傷をつけて血をなめることが習癖となった。
自分でも異常に思った童子は前の小川にかかる橋の上から水に映る自分の顔を見、それが鬼の形相であることを知って人間世界での生活をあきらめ、大江山酒呑童子の配下になったということです。
この茨木童子の名が広く世に知られるようになったのは、浄瑠璃や芝居の題材となってより以後のことであり、その名を最も早く見えるのは、おそらく「御伽草子」の酒呑童子の項であろうといわれています。
-茨木童子像説明書きより-
[9回]
PR
茨木童子、「御伽草紙」に初めてその名を見ることができますが、やはり最も有名なのは、「平家物語・劔巻」、能「羅生門」などの一条戻橋、もしくは羅生門での渡辺綱とのからみではないでしょうか。
出自にはいくつかの説がありますが、関西圏の人間としては、上記「茨木市史」に書かれてあるような説を支持したいところです。
Wikipediaによれば、「摂津名所図会」「摂陽研説」「摂陽群談」などの資料に茨木童子の名前を見ることができるようです。
「摂陽群談」については、中の人も良く使用させていただいている早稲田大学古典籍総合データベースにHtml、pdfの形で収められていますので、原文を確認してみたい方は一度ご覧になってみてください。
今回、訪ねた貌見橋跡は茨木市の伝承に残るものです。
大阪伝承地誌集成に貌見橋の碑が茨木高校南側の民家の軒下に残る、とされていたのでこれを頼りに捜索開始。
南側の一角にある、民家の軒下を見て回ったのですが見回ってみたのですが、見当たらないため、西側の遊歩道の様なところを探し出すと、この可愛らしい童子像と、この遊歩道(ジョギングコースでした)が元々は茨木川であったことが判明。
この近辺である事は間違いない様子。
茨木高校の東側にも民家の一角があったので、そこを見回ってみると、ようやく貌見橋の碑を発見。
本当に民家の軒下です。
その民家のすぐ近くにある茨木高校の東側でしょうか?
こちらには、茨木童子貌見橋の説明書きと地蔵尊がありました。
地蔵尊のアップ。
「兵枡地蔵」とあり、帰宅後調べてみたところ茨木城からの出撃の際に軍勢を整えた場所とされるようで、茨木童子の伝承とは関係は無さそうな様子です。
酒呑童子にせよ、この茨木童子にせよ、なぜ「童子」という名称が付けられていたのか、以前より不思議でなりませんでした。
このサイトを立ち上げるにあたり、改めて調べてみたところ、中世、大人になっても子どもの髪型のままで生活していた流浪の民や農民以外の非定住者などで、制度や慣習に規制されて童形のままで生涯を過ごす人が少なくなからずいたようで、それが故、そのような定住者にとっては異端の者が鬼とされていったのではないか、との主張がありました。
以前より、鬼と古代製鉄との関係に興味を持っており、いろいろ調べていたところで個人的には非常に説得力のある見解でした。
鬼と古代製鉄に関しては、大阪圏に限って妖怪のサイトを作っていく限りでは、意見を述べる機会は少ないかと思いますが、機会があればいずれ上梓してみたいと考えております。
<<関連エントリー>>
式神・茨木童子等-京都府京都市・一条戻橋-
渡辺綱-坐摩神社行宮-
茨木童子貌見橋跡
場所:大阪府茨木市新庄町6近辺